しあわせ
代行業者さんの運転する真作さんの車の後部座席に、慶作くんは真作さんと並んで座っていました。
「おいしかったね、ステーキ」
「ああ、また行こうな。何かのお祝いに」
「それなら……次の新しい連載が決まったら?」
帰り道の指示はカーナビに任せていたので、ふたりは静かにゆっくりと会話をしました。
「それだといつになるかわっかんねぇーぞ? また山ほどボツくらうのかと思うと、ちょっとめげそうだ」
「大変だね」
「普通の大変さだな。みんな同じ苦労してるよ」
「いわゆる、生みの苦しみっていうやつ?」
「うーん……どれだけ扉をノックし続けられるか、みたいなものかな」
首を傾げる慶作くんに対し、真作さんは自分の両手を見つめながら語ります。
「中に入りたい家の玄関扉を、ひたすらノックするんだ。中から開けてもらえるまで、手を替え品を替え、な。……大抵、どれだけノックをしても門前払いを食らう。反応さえないときもある。ときどきちょっと開いてアドバイスをもらえるときもある」
ごつごつした両手を、開いては握ります。真作さんの右手はペンだこのせいか、指が歪んで見えます。
「扉を叩く人間は大勢いて、中に入れる人数は限られている。開かない扉をノックし続けるのは体力的にも精神的にもしんどいが、そうしないことには扉は開かない。腕を振り上げて、扉を叩き続けるしかないんだ」
慶作くんが物心ついたときには、すでに真作さんはプロの漫画家でした。なのでそこに到達するまでの過酷な道のりを初めて知って、改めて尊敬の念を覚えました。
「……どこかで、やめたくならなかった?」
「何度かあったな。……初めての連載が打ち切りになったときと離婚が重なったときなんかは、特に。お前もまだ本当に小さかったし。続けるかどうか本気で悩んだ」
そこで真作さんは、表情を暗くしました。
「尊敬してくれてたら申し訳ないけど……俺さ、性根の部分は、本当に父親向きじゃねーのよ。周りの誰を振り回してでも、漫画を描くことをやめられなかった。……俺はギャンブラーなんだ。もっといろんなことに使えたはずの人生の時間を漫画にぶちこんだ人間だ。今回の連載はたまたま成功して頑張って描き切ったが、もしもそうでなかったら、今ごろ俺たちはどん底の貧乏暮らししてたはずだよ。今晩のステーキなんて夢のまた夢だ」
ろくなもんじゃない、と吐き捨てるように呟いたところで、はっとしたように真作さんは顔を上げました。
「俺、なんでこんな暗い話をしてるんだ?」
「さ、さぁ」
「やめやめ。せっかくのめでたい日が台無しだ。もっと楽しい話をしよう。何かないか?」
かなり強引な話の振り方をされて、慶作くんは少しだけ困りました。
「……小一のとき、よくお父さんの仕事場にいたよね、僕」
「ん? あー、じーちゃんが入院してたときな」
慶作くんの祖父はそのまま帰らぬ人となりましたが、リーさんが雇われる前まで孫の面倒を見ていたおばあさんは、入院中のおじいさんの介助をしていました。
小学一年生の子供をひとりで留守番させるわけにもいかず、慶作くんは真作さんの仕事場に預かられていました。多忙を極める漫画制作の現場で、しかしおとなしく本を読んでいた慶作くんは、スタッフの人たちに可愛がられていました。
「今でもよく覚えてる。漫画を描いてるときのお父さんの真剣な横顔が、すごく、かっこよかった。秘密といわれなかったら、クラスメート全員に自慢したいくらいだった」
慶作くんは、隣の父親を見上げて、微笑みました。
「賭けてもいい。たぶんお父さんは、たとえ売れてなくても、僕の大好きなあの顔で漫画を描いてたはずだよ。だから……寂しいこといわずに、変わらずに尊敬させてよ」
自身を勝手な人間だといい放った真作さんと同じように、慶作くんもまた、勝手なのでしょう。芸術に打ち込む真作さんがどうしようもなく好きなのですから。
「……お前は優しいな」
真作さんは慶作くんの頭をがしがしと撫でました。
ふと慶作くんが視線を上げると、ルームミラーに運転手さんの顔が映っていました。壮年の男性の口元がかすかに微笑んでいました。
「ねぇ、これからは、真奈美先生も、うちで一緒に暮らすんだよね?」
「役所に届を出してからな」
「楽しみ。……ルスのときもそうだったけど、家族が増えるのって、すごく嬉しいね」
これまで引き算ばかりだった西江賀家をどう思ったのか、真作さんは、心から嬉しそうな息子に、そうだな、と静かに答えました。
「一緒に暮らすようになったら、ちゃんと『お母さん』って呼ぶんだぞ?」
「わかってるよ。……でも……おかあさん、お母さんか……」
慶作くんの笑みに照れくささが混じりました。
「慣れないや。今まで使ったことがないから」
「……なぁ、慶作」
真作さんは急に真面目な顔になって、慶作くんの顔を覗き込みました。
「お母さんに会いたいか?」
「……え?」
突然の問いは当然に戸惑いを生みました。
「お母さんって……」
「お前を産んだ人のことだ。お前が小さいころに離婚した、血の繋がったお母さんだ」
会いたいか、と重ねて問われた慶作くんは、俯き、考え込みました。
これまで慶作くんは、自身の母親のことを、極力誰にも尋ねないようにしてきました。興味がないわけではありませんでしたが、なんとなく、父親との関係に不和をもたらしそうだったので、できるだけ避けていました。
「会いたいのなら……会いたくなったら、俺は必ず協力するぞ?」
「……ううん。いいや」
慶作くんはふるふると首を横に振りました。
「お母さん……僕を産んだ人のことは、まったく知らないから、会っても何を話していいかわかんないし……」
嘘ではありませんが、本音でもありませんでした。
恐らく母親は、自分と会いたいとは思っていない。
慶作くんには確信が持てました。何せこれまで一度も、母親のほうから会いたいという申し出がなかったのですから。もしもそれがあったとすれば、真作さんが息子に隠すはずがありません。
自分と会いたがらない人に、わざわざ会いに行く理由もありませんでした。
息子の様子に何かを感じたのか、真作さんも、そうか、と言葉少なに頷きました。
努めて明るい口調で、慶作くんはいいました。
「僕には、今が一番だよ。足りないものは何もない。ルスは変わらずにいてくれる。真奈美先生が新しく家族になってくれる。友達もいるし、リーさんだってまだ来てくれるんでしょ? 抱えきれないくらい幸せだよ」
「そうか。……そうか、そうか」
真作さんは、噛み締めるように何度も頷きました。
「それなら、あんまりのんびりもしてられねーな。家族が増えるんだからな」
「しっかり休んでからね。次は何を描くつもりなの?」
「実は、ルスから得たアイディアがいくつかある。それを形にしようかなと思ってる」
「いいね。一番に僕に見せてよ」
「おう。……思えば昔の俺は、大きくなったお前に読んでもらいたくて、漫画を描いてたんだよなぁ。夢が叶ってるよ」
「まだまだ夢の途中じゃない?」
「もちろん。描きたいことは山ほどあるからな」
ふたりが話しているうちに、代行業者さんの運転する車が、自宅の前で停まりました。
静かな住宅街には、蒸し暑い夏を冷やす夜の帳が下りていました。
自宅の鍵をポケットから探りながら、真作さんは腕時計に目を落とします。
「けっこう遅くなっちまったな。ふたり、今晩はうちに泊まってくかい?」
自分の頭を飛び越えていった質問を慶作くんが視線で追いかけました。
「シンサクさん。わたしたち乙女ですよ?」
「あー、そうだな。着替えもないし、いきなりじゃ無理か。じゃあタクシー呼ぶよ。料金は俺が持つから。家の中で待っててくれ」
内ポケットからスマートフォンを取り出しつつ、真作さんは門扉に手をかけました。
そのときでした。
「……あの……すみません……」
暗がりの中から声をかけられ、四人が同じ方向を見ました。
電柱の陰に、ひとりの男が立っていました。くたびれたポロシャツに擦り切れたジーンズ姿の、四十代ほどの男でした。
「……新賀栄作先生……ですよね……?」
「ええ……そうですが、」
次の瞬間。
男が突進し、そばにいた慶作くんを突き飛ばし、真作さんに抱きつきました。
それと同時に、ぶずっ、と、音がしました。
まるで腐ったレモンにナイフを突き立てるような、鈍い生々しい音が。
地面に尻餅をついた慶作くんは、男の背中越しに、真作さんの顔を見上げました。
真作さんは目と口を大きく開き、喉から声にならない声を漏らしていました。
「…………か……は……」
「……お久しぶりです、新賀先生。サイン会以来ですね」
ぞぶっ。音がもう一度。
「顔出しのイベントを開いてくれないので、直接会いに来ちゃいましたよ」
どずっ。さらにもう一度。
「……これが報いだ、パクリ野郎。お、お前がいなけりゃ、ぼ、ぼ、僕が、プロに、なってたんだ……!」
男は真作さんの耳に囁き続けていました。
真奈美さんが悲鳴を上げて、リーさんが男を真作さんから引き剥がしました。
慶作くんは、訳もわからず、ただ見ていました。
真作さんは、糸が切れた人形のように、その場で崩れ落ちました。
「…………え……?」
目を見開いたまま、地面に倒れて動かない真作さん。
その腹部は真っ赤に染まり……血溜まりがじくじくとアスファルトに広がりました。
慶作くんの時間が止まり、何も聞こえなくなりました。
男は闇の中に走り去りました。
血塗れの真作さんに必死に声をかけ続ける真奈美さんと、救急車を呼ぶリーさんと、呆然としたままの慶作くんのほかには、血みどろの包丁が、人だかりのできはじめた住宅街に残されました。




