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キマイラに捧ぐ  作者: 春戸稲郎
七月の物語
18/31

最良の夜

 

 数日後、七月末日。

 慶作くんは真作さんに連れられて、都内のとあるステーキレストランを訪れました。

「大丈夫か? 結構量あるぞ?」

「平気だよ。お父さんと一緒のがいい」

 控えめな音楽の流れる、程よく薄暗い店内。

 白いクロスの張られた四人がけテーブルで、真作さんはメニューを閉じました。

「まぁ俺が心配すべきなのは四十代の自分の胃袋のほうだけどな。……リーさん、もう決まったか?」

「悩むですね。写真がなくて日本語ばかり。マナミは何を頼むか?」

「わたしはこれ。フィレステーキと赤ワインをグラスで」

 真作さんの隣に座る真奈美さんがメニューを逆さにして指し示すと、わたしも同じものにするよ、と慶作くんの隣に座るリーさんは諦めたように頷きました。

 その晩は普段お世話になっているリーさんと真奈美さんも誘った上での食事会でした。

 そこは慶作くんが予想していたよりもずっと立派な堅い雰囲気の店で、リーさんや真奈美さんはもちろん、真作さんまでもが普段まったく縁のない背広を着ていたので、普段着の慶作くんは少し緊張していました。個室でなければもっと肩身が狭かったことでしょう。

「真作さん、お飲み物は?」

「あー、どうすっかな。せっかくだし俺も赤ワインにするか。リーさんは?」

「わたしもワイン飲みたいです」

「じゃあボトルで頼むか。慶作はジュースで我慢してくれ」

「わかってるってば。十年早いってば」

「あぁーそっかぁー、十年かぁー。慶作と酒飲むのもまだまだ先だなぁー」

「あっという間ですよ」

「そうだな、楽しみに待とう。すみません、注文を」

 料理を頼み、四人はワインとジュースで乾杯しました。


 なんだかルスに申し訳ないなぁ。

 と、慶作くんが思ったのは、どうにかステーキを食べ終えたときでした。やはり大人と同じ量を詰め込むには胃袋が小さく、そんな飽食の感覚が、ひとり家で待っているルスに申し訳なく思えたのでした。ルスに牛肉を食べさせるわけにはいきませんが。

「やー……けっこう飲んだな。ワインなんて普段飲まないから、ちょっと効いたよ」

「真作さん、顔がずいぶん赤いですよ。大丈夫ですか?」

「これは体質。すぐ赤くなるんだ。しかしリーさんは酒強いな。知らなかったよ」

「そうでもないです。でも、よぱらうとマナミを世話する人いなくなるですから」

「おう? 何のことだ?」

「いいんですよー真作さんは気にしなくてー」

「この子、シンサクさんの前ではおとなしい。こないだ特にひどかたですよ」

「ちょっ、ダメダメダメダメ。秘密だっていったでしょ、リー」

「なになに教えてよ」

 ともあれ、久々のステーキは美味で、リーさんや真奈美さんと外食するのは初めての経験だったので、それはそれは楽しい食事会となりました。

 慶作くんが膨れたお腹ををさすりながら大人たちの会話を見つめていると、デザートが運ばれてきました。

 慶作くんがアイスを食べ、大人がコーヒーを飲んでひと心地ついたころでした。

 真作さんが、急に居住まいを直しました。

「慶作、今日はいくつか、お前に報告しときたいことがある」

 来たな、と慶作くんは思い、背筋を伸ばして父親の顔を見つめました。

「ひとつは……昨日、最終回の原稿を渡してきた」

「あ……そうなんだ」

 予想外でした。

「えっと……お疲れ様でした、新賀先生」

「いえいえ。ご愛読ありがとうございました」

 お辞儀から顔を上げると、ふたりは笑っていました。

「まだ仕事は残ってるけど、とりあえず連載は終わり。しばらくゆっくりできる。夏休みだし、どっか遊びに行こうぜ。遊園地でもプールでも」

「んー……すごく嬉しいけど、ルスもいるし、遠出はいいかな」

「そうか。……まぁ、こっちは些細なことだ。俺の仕事のことだし」

 真作さんは咳払いを挟みます。

「報告ふたつ目。……実は俺、再婚するんだ」

 さらにさらに予想外でした。

 さすがに慌てた慶作くんは、思わずほかのふたりの女性の顔を見渡しました。リーさんと真奈美さんに驚いた様子がなかったので、〈知らなかった〉のは自分だけかと悟りました。

「えっと、えっと……それは、これから婚活するってこと?」

「違うよ。ませた言葉知ってんな。……相手ももう、決めてるんだ。相手の親御さんにも会ったし、あとは届を役所に出すだけだ」

「……へぇー……」

 急な話に頭の回転が追いつきません。そんな慶作くんを見て、真作さんは楽しんでいるようでした。

「でも、ぜんぶ事後報告にするのはさすがにどうかと思って、今晩は慶作と、ちょっと特別な食事をしようと思ったわけだ」

「………………うん。大体、わかったよ。わかったけどさ」

 そこからの慶作くんの問いを、真作さんは予期しているようでした。

「その……誰と結婚するの?」

「わたしよ」

「へっ?」

 名乗り出た声のするほうに首を向けると……真作さんの隣に座っていた真奈美さんが、少し気恥ずかしそうに右手を上げていました。

「ま……真奈美、先生が? お父さんと? 結婚、するの?」

 にこにこと笑いながら自分を見つめてくるふたりを見比べる慶作くんは、ひどく混乱していました。あまりにも予想外すぎることが起こりすぎて。

「なんだ、嫌なのか?」

「そうなの?」

「ち、ちがっ、そうじゃないよっ、嫌じゃないよっ。ぜんぜん、ぜんぜん、ぜんぜん」

 慌てた慶作くんは、落ち着かせるように自分の胸に手を当てて深呼吸をしました。

「び……びっくりしたぁー」

「だろうな」

「……本当なの?」

「さてね。……この話、嘘か本当か、慶作はどっちがいい?」

 問われた慶作くんは、ふたりの顔をそれぞれ見つめてから、笑顔で答えました。

「僕の知らないほかの誰かよりも、真奈美先生が家族になってくれるなら、僕は嬉しい」

 慶作くんの返答に、真奈美さんは幸せそうに頷きました。

「ありがとう。慶作くん」

「うん。……おめでとう、真奈美先生。お父さんも、おめでとう」

「おう」

 慶作くんの隣で、静かにリーさんが嬉し涙をハンカチで拭っていました。

「その……それでさ、ふたりはいつ結婚するの? 結婚式とかは?」

「そんな先の話じゃないよ。いつまでも休めるわけじゃないし。婚姻届を出すのは、真奈美の希望がなければ明日でもいい」

 父親が隣にいる女性を親しげに呼び捨てにしたので、初めて見る真作さんの〈男〉としての姿に、慶作くんはどきりとしました。

「でも真奈美先生は……大学生って結婚できるの? 大学やめちゃうの?」

「やめないよ。卒業もするし就職もする。学生のうちに結婚するなんて、かなり珍しいと思うけど……」

 と、真奈美さんは隣の真作さんを見つめました。またしても慶作くんはどきりとしました。恋をしている大人の女性の横顔を見て。

「……でも、いつか結婚するなら、早くしたかったし」

「どうして?」

「俺の希望でもあるんだ」

 真作さんが回答を引き取りました。

「連載の終わりが見えてきて、タイミングが良かったってのもある。いつまでも宙ぶらりんのままにこんな若い子を引き止めるのは男らしくないって思ったのもある。……でも、一番大事なのは、やっぱり家族でないといけないこともいろいろとあるってことかな」

「いろいろって?」

「いろいろだよ。説明は難しい。そのうちわかる」

「もしかして……僕のため?」

 その問いに、真作さんは、少し考えてから頷きました。

「それもある。たとえ今は紙切れで結んだ契約でも、一緒に暮らすには、家族か他人かでは大きく違うからな。……でも勘違いするなよ?」

 真作さんは身を乗り出しました。

「俺が真奈美と結婚したいから結婚するんだ。お前のためにそうするんじゃなくな。そこんとこはよろしくわかっといてくれ」

 きっぱりと宣言した真作さんの顔は、酔いとは違う原因で紅潮していました。

 そこで慶作くんは、ちょっと意地悪したくなりました。

「わかってるよ。それよりさ、お父さんと真奈美先生って、歳の差どれくらい?」

「あー……ぴったり倍だな。今は」

「すごいね。歳の差婚だね。……どうやって付き合うことになったの? いつから付き合ってたの?」

 過剰ににこにこしている息子の意図を見抜いたのか、真作さんは渋面を広げました。

「やだ。話したくない。息子のお前には特に」

「息子だから聞きたいんじゃん。リーさんは何か知ってる?」

「少しね。でもわたしも馴れ初めは聞いてない。知りたいね」

 興味津々なふたりに対し、困ったように苦笑する真作さんと、微笑みながら見つめている真奈美さん。

「それじゃあ先生に聞こうかな」

「おいおいやめてくれって」

「ねぇ先生。お父さんのどこが良かったの? 先生から見てもさ、結構おじさんじゃない?」

 問われた真奈美さんは、真作さんの視線を涼しげに受け流しながら、そうねぇ、と考えはじめました。

「やっぱり、お父さんが有名な漫画家だから?」

「それは、あるかもね。いくらなんでもお金がなかったら、結婚はしてなかったかも」

 真奈美さんなりの冗談であることはわかりました。真作さんは大袈裟に肩を落とし、それをみて慶作くんは笑っていました。

 でもね、と、真奈美さんは改まったように優しい口調になりました。

「一番の決め手は、すごく頼もしかったから。強くて、優しくて、いつも慶作くんのことを考えていたからよ」

 真奈美さんの穏やかな瞳に、慶作くんのいたずら心が静まりました。

「わたし、物心ついたときから、お父さんがいなかったの。ずっとお母さんとふたりで生活してて、『お父さんがいる暮らしって、どんな感じなのかな』って、よく考えてたの」

 そのときテーブルの下で、真奈美さんと真作さんが手を繋いだことが、見なくとも慶作くんに伝わりました。

「慶作くんと真作さんの関係が、わたしには、すごく羨ましかったの。真作さんはかっこよくて優しくて子供思いなお父さんで、慶作くんはそんなお父さんをしっかり信頼してて……『わたしも、こんな人たちと家族になりたいな』って、思ったの」

 真奈美さんの独白に、真作さんは照れくさそうに頬を掻きました。

「どうだ慶作。こう見えて俺もなかなか、もてるだろ?」

 胸の中が温かい気持ちで満ちた慶作くんは、そうだね、と頷きました。

 ああ……自分は幸せだ。

 慶作くんはそう確信しました。


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