どうすれば・どうすべきか
ルスが片言の人語を喋るようになった夜。
その翌朝……慶作くんは、学校を休みました。とても登校できるような体調ではなかったのももちろんですが、真作さんに相談するためでした。
台所で、テーブルにふたりは向かい合って座り、慶作くんは憔悴した表情で、真作さんは難しい表情で、沈黙していました。
前の晩に起こったことを、慶作くんは包み隠さず真作さんに伝えました。
故意ではないとはいえ、結果的には約束を破り、ルスの進化を促してしまったことを申し開けば、今度こそルスと別れなければなりません。
そんなことは百も承知でした。
それでも慶作くんが秘密にしなかったのは、父親との約束を守るため、父親の信頼を裏切りたくなかったからでした。
「……よく話してくれたな、慶作。ありがとう」
重苦しい沈黙を、真作さんが温かく破りました。慶作くんの思いまで汲み取って。
「そうだな……まず、今回のことについて、慶作は何も悪くない。誰だって怪我はするし、ルスを部屋から出すのを許可したのは俺だ。責任があるとしたら、それは俺にだ」
真作さんの慰めに、しかし慶作くんの心は晴れませんでした。そんなことを聞かされたところで、ルスの未来は変わりません。
「慶作がルスの前で怪我をしなくても、いずれルスは人の何かしらを体内に取り込んでいただろう。抜けた髪の毛とか、切った爪とかでな。原因と結果がはっきりしたのはある意味幸運だった」
この状況のどこが幸運なのか。
慶作くんは、そんな呪詛を、ぐっと飲み込みました。
今はそんな場合ではありません。
「……慶作、ここが分水嶺だ。ここで決めなきゃならない」
考えなければならないのです。
どうすれば、ルスを救えるのか。
「辛いだろう。俺も悲しい。だけど……ルスと、お別れしよう」
「……お父さん」
ずっと俯けていた顔を上げると、真作さんは驚いたようでした。
そのときの慶作くんの表情は、今までに見たことのないほどに、冷徹で真剣な顔でした。とても小学生とは思えないほどの。
「少し……僕の話を、聞いてくれる?」
「……子供の話を聞かない男に、父親の資格はないよ」
真作さんなりの真摯な返答に、慶作くんは頷きました。
「一晩中、考えてた。……それでも、ルスと一緒にいれないかな? ここで一緒に、これまでみたいに、家族として暮らせないかな?」
「…………それは……俺がどういう反論をするかまで考えてのことだよな?」
慶作くんは、父親の目を見て、ゆっくり頷きました。
「僕にもわかる。これからルスは、いろんなことを覚えていく。いろんなことを考えるようになる。どうすれば食べ物を得られるか。どうすれば部屋の扉の鍵を開けられるか。どうして自分は閉じ込められているのか。自分はどういう生き物なのか」
つらつらと淀みなく語る慶作くんに、真作さんは息子の成長を見たことでしょう。
「そうなると最悪の場合……ルスがうちから脱走して、人間を食べる生き物になるかもしれない、ってこともわかってる。食べた生き物の個性を手に入れるという自分の特徴を知ったルスが、人間になろうとして人間を食べるかもしれない。もしかしたら単純に、人間に味を占めるかもしれない。道具を使って人間を襲うかもしれない。……僕やお父さんを食べるかもしれない」
それだけは絶対に避けなければなりません。それだけはさせてはいけません。
慶作くんは、あらゆる意味で、ルスを守りたいと考えていました。
「わかってる。僕やお父さんが安全に暮らすには、ルスをどこかの、生き物の研究をしている場所に預けるのが正しいってことは、わかってる。そこではきっと、ルスは大切に受け容れられる。ルスはこの世界の、奇跡のひとつだから」
思いを伝えなければなりません。
自分の作り出した怪物を見捨てたフランケンシュタイン。
彼のようにならないために。
「わかってる。ルスが危険な可能性を持っていることは。……でも僕は、ルスの元々の生態を知っているから、その可能性が現実にならないだろうともわかっているし、ルスが手に入れた人らしさを信じたいんだ」
「ん……順番に聞こうか」
「うん、ありがとう。……ルスの基本、元々の生態は、ハネカエドリそのままなんだ。新陳代謝に使うエネルギーが大きすぎて、できるだけ体力を使わないようにしてる。動いてる時間よりも寝てる時間のほうが長いくらい。走り回ってるところなんて見たことないよ」
「……つまり、ルスは動きがすっとろいから、人間の敵にはならないっていいたいのか?」
「今のルスでは不可能だと思う。つい最近発表されたハネカエドリについて書かれた論文をネットで見つけたんだけど……」
「ろんぶん? お前が論文を読んだのか?」
「英語で書かれてたけど、真奈美先生にも手伝ってもらって、頑張って読んだよ。すでに研究で、食べた鳥と同じ羽毛に入れ替わることは判明していて、それに加えてハネカエドリの食事についても書かれてた。『野生のハネカエドリの換羽は擬態の一種であり、餌となる鳥の雛を食べることで同じ羽毛を得て、巣を乗っ取った上で、雛に餌を与えに来た親鳥も捕食する。鳴き声を真似するのもそのための進化である』ってね」
「……はぁー」
真作さんは素直に、息子の努力に感心していました。
「そういうハンティングを人に対して、今のルスにできるとは思えない。やろうと思っても肉体を維持するために体力を奪われて、すぐに力尽きると思う。それをルスも本能的にわかってるだろうから、最悪の事態が起こる可能性はものすごく低いと思う」
「待つだけじゃ人間は狩れないしな。……それで?『人らしさを信じたい』ってのは?」
「そっちは単純。人らしさがあるのなら、優しい生き物になる可能性もあるってこと」
慶作くんにとって、こちらを説くほうが重要でした。
「僕の血の一滴で、どれだけルスの頭が良くなるのかはわからない。だからこそ、ルスにいろんなことを教える必要があるはずなんだ。そこまでが僕の責任のはずなんだ。もしもルスが人並みの知能を手に入れて、この世界での自分の価値に気付いたら、表現は悪いけど怠け者のルスが、わざわざ危険を冒して人間を襲うような真似をするはずがない」
慶作くんの主張を、真作さんは黙って聞いていました。
「人の言葉を覚えて、理解して、それを使ったんだ。ルスのポジティブな可能性を確かめずに檻の中に閉じ込めるのは、かわいそうだと思う」
この状況を想定して、悪い妄想を振り払いながら、一晩かけて組み立てた、慶作くんなりの論理的主張でした。
それに対して、ルスの行く末を左右する権限を持ち合わせる真作さんは、腕を組み、しばらく考え込みました。
「……慶作のいいたいことは、わかった。お前の説明を聞いているうちに、腑に落ちないこともない、とも思える」
ダメだ。
この前置きでは否定される。
更なる論理を。
父親を説き伏せるに足る論理を。
……慶作くんがそんなことを考えるのを見越してか、真作さんはこういいました。
「でもな、ルスが安全かどうかを、俺とお前で判断しちゃいけないと思うんだ。俺もお前も生物学者じゃないんだから」
それをいわれてはおしまいだ、と慶作くんは唇を噛みましたが、反論はまったくできません。真作さんのいうとおり、確信を持って「安全」と断言できる専門家はここにいないのですから。
悔しそうに口をつぐむ慶作くんに、わかるよ、と真作さんはいいました。
「ルスは危険な生き物じゃないってお前が信じてるのは、わかる。実際に危険じゃないかもしれない。俺だってそう信じたいし、お前とルスを引き離したくはない。……だけどな? ルスのせいで人が危険な目に遭うことは、絶対に、絶対に、あっちゃならないんだ。万にひとつの可能性さえ、存在するなら取り除かなけりゃならない」
「でも……でも……!」
どうにか縋ろうとする慶作くんを見つめる真作さんは、悲しそうに首を振りました。
「慶作、お前は熊と友達になれるか? 飼い馴らされてはいても爪と牙を持つ、生き物としてめちゃくちゃ強い熊とさ」
「な……なれるよ、きっと。サーカスの熊だって、人に飼われて……」
「かもな。もしかしたら熊だろうが虎だろうが、お前は友達になれるかもしれない。……ただ、そんな危険なことは、俺が許さない」
真作さんの鋭くも敵意のない視線に、慶作くんの胸が射抜かれました。
慶作くんの説得に誤算があったとすれば、父親が息子に向ける想いの目方を量り損ねていたことでしょう。
「お前が俺の目と手の届く所にいる限り、お前が安全でいられるように、俺はできるだけ努力する。たとえ嫌われようが恨まれようが、未来のあるお前が大切だからな」
慶作くんは、歯を食いしばって顔を歪めました。
ずるいよ、と叫びたい気持ちでした。
真作さんの愛のある言葉が、こんなときでも、嬉しくてたまらないのです。
慶作くんが父親を知る以上に、真作さんは息子を知っていました。
どうすれば相手を懐柔できるか。それに関しては真作さんが上手でした。
たったひとりの大切な父親を、慶作くんは裏切れないのですから。愛されては抗えないのですから。
歯噛みして悔しがっている慶作くんに、やはり相応の負い目があるのか、真作さんはぼりぼりと頭を掻きました。
「……とはいえ、俺にも仕事があるし、ルスを託すのに信頼できる人と施設を探すのには時間がかかる。拳銃持ったお巡りさんに迷惑をかける必要がないなら、しばらくはこのまま、ルスと一緒に生活できる」
「……それまでに、お別れをしろってこと?」
愛があっても、もしくは愛ゆえに、とでもいうべきでしょうか。
慶作くんの心の底で、父に対する憤怒と憎悪が種火となりました。
しかしそれは、次の一言で吹き飛んでしまいました。
「お前が悲しんでいるとき、俺が平気な顔をしていると思うか?」
そのとき見た真作さんの表情を、慶作くんは、言葉で表すことができませんでした。
強く揺るがぬ、慈悲慈愛に満ちた、その目。
唐突に慶作くんは、理解しました。
悲しみに耐える子供を慰めるとき、親が一番悲しみに耐えているのだと。
まるで、寒さに耐える人を温めようとする人が、無防備に寒風に晒されるように。
自分の悲しみには耐えられても、大切な人が悲しんでいるのは……
真作さんが仕事場に戻ったあと、ひとりになった慶作くんは、ルスと一緒に自室にこもっていました。
部屋の隅で体を畳んで眠っているルスを、じっと見つめていました。
慶作くんの顔に表情はなく、体は微動だにしていません。一点、ルスだけを見つめて硬直している彼の様子は、さながら以前の、まだハネカエドリだったルスのようでした。
ぴくりとも動かない慶作くんは、しかし、膨大なカロリーを消費していました。
主にブドウ糖を、その頭脳で消費していました。
悲嘆に暮れていたわけでも、絶望に苦しんでいたわけでもありません。今の慶作くんにとってそんなことに時間を取られることはルスへの裏切りであるとさえ思えていました。
僕はどうすべきだろう。ルスに何をすべきだろう。
真作さんが自分とルスを引き離すことは、既に決定しています。理屈では覆せない父親の意志により確定しています。これについて今さらどうにかしようなどと考えるのは時間の無駄でした。
ルスを野に放つなどもってのほかです。ルスの全生涯に関して責任を持つと誓ったのですから、「ルスを信じて」「せめて自由に」などという自己満足に酔って、運任せにルスを解き放っていいはずがありません。
ルスはどこかの研究施設に引き取られる。
考えなければならないのは、ルスと別れるそのときまでに、自分に何ができるのか。
状況を整理してみます。
目の前にいるのは、ハネカエドリの突然変異……と思われる生き物。名前はルス。三ヶ月ほど前から慶作くんに飼育されています。
ルスは食べた生き物の個性を獲得します。角のある生き物を食べれば角が生え、鱗のある生き物を食べれば鱗が皮膚に吹き出ます。現在は、羽毛の生えた鹿ほどの大きさの胴体に、鳥の後ろ足、ヤモリの前足、魚の背びれ、蛇の舌と尻尾、ヘラジカの角、そしてどれほどのポテンシャルかは未知数ですが、人間の知能を持っています。
ルスの生態は大食らいの生臭です。ハネカエドリだったときからずっと行われてきた換羽にエネルギーを奪われるため、食事と排泄のとき以外ほとんど動きません。例外は慶作くんがそばにいて、構ってほしいときだけです。例えるなら、非常に燃費の悪い、猫のような性格を持つ、ナマケモノでしょう。
現在、ルスの生態の秘密を知っているのは、父と自分のふたりだけ。そしてルスの世話は飼いはじめた当初から一貫して、慶作くんひとりの手によってなされています。
生態を除いた、ルスの個体的な性格は、ときに温厚で人懐こく、ときに歌を愛し、ときに静かに思索に耽る哲学者です。
ルスの現在の知能は、慶作くんの見立てでは単純な会話ならば成立する幼児程度です。
そして、人語さえ操る知能を真作さんに危険視され、ルスの隔離が決定。
……ここまでが現状。
では、慶作くんとルスがこれから選び取れる中で、最上の未来とは?
「……僕にできること……僕が与えられるものは、限られている……」
慶作くんがぶつぶつと呟いていると、ルスが目を覚ましました。
「……時間も限られている。……どれほどかはわからないけれど、決して長くはない。……でも、何もできないほど短いわけでもない」
ルスは正面から、ぐりぐりと自分の頭を慶作くんの胸に押し付けました。慶作くんは、くるる、と喉を鳴らして甘えてくるルスの、角と皮膚の境目を掻いてあげました。
「僕にできること……それは僕にしかできないことであるべきだ。……ほかの誰にも……これからルスと接するようになる人の誰にもできないことであるべきだ」
そこで、ルスが顔を上げました。
「ケイサク、ナニシテルノ?」
語彙が足りていないということが慶作くんにもわかりました。ルスはきっと、「慶作、何をぶつぶつ喋っているの?」と問いたかったはずでした。
慶作くんはルスの頭を優しく撫でました。
「僕は、きみのことを考えているんだよ、ルス」
「……カンガエル……」
目を細めたルスは、ぺろりと、蛇のような長い舌で、慶作くんの顔を舐めました。
「ルス、ウレシイ。ルストケイサク、イツモ、イッショ。トモダチダカラ」
「……そうだね。僕も同じ気持ちだよ、ルス」
そういって、慶作くんは立ち上がりました。
一旦部屋を出て、戻ってくると、手の中に一冊の本がありました。
「ケイサク、ソレハナニ?」
「これは絵本だよ、ルス」
まずはここから始めてみよう。
気負わず、焦らず、簡単なことから。
慶作くんはそう決めました。
「一緒に読もう、ルス」
「イッショ、イッショ」
慶作くんはルスの隣に腰を下ろし、絵本を開きました。
「……むかしむかし、あるところに、おじいさんとおばあさんがすんでいました……」
夕食を摂ってからも、慶作くんの静かな朗読は眠るまで続きました。




