フランケンシュタインの苦悩
昼休みに教室で、慶作くんが本を読んでいるときのことでした。
「指、どうしたの?」
背後から、愛海ちゃんに声をかけられました。
「ああ、これ?」
慶作くんの左手の中指に、絆創膏が巻かれていました。
「ルスの餌を準備してるときに、包丁で切っちゃってさ」
「どじね。……なに読んでるの?」
「〈フランケンシュタイン〉だよ。図書室から借りてきた」
「知ってる。あれでしょ、ツギハギの大きな怪物でしょ?」
「それを作ったのが、フランケンシュタインっていう人だね。怪物に名前はないんだ」
「へー。そうなんだ」
「僕も読んでから知ったよ」
慶作くんは本に栞を挟みました。
「あ、ごめんね。読書してたのに」
「いいよ。このごろ渚辺さんと話してなかったし」
「それはほんとにね。最近ぜんぜん家に連れてってくれないんだもん」
口を尖らせて不平をぶつけてくる愛海ちゃんに、慶作くんは苦笑しました。
「ごめんね。ちょっと事情があって」
「そんな大人みたいなこといって……まぁいいや。〈フランケンシュタイン〉ってどういうお話なの? 教えてよ」
そういって愛海ちゃんは慶作くんの前の席に座りました。
まだ読んでる途中だけど、と慶作くんは断りを入れます。
「フランケンシュタインっていう学者さんがいて、その人は、死んだ人を蘇らせる研究に没頭してたの。それである日、死体を繋ぎ合わせて、実験したんだ」
「ひっどい話」
物語のあらすじを聞きはじめた途端に、愛海ちゃんは顔をしかめました。
「大切な人を生き返らせるとかじゃないわけ? 本当に『試してみたかった』だけなの?」
「まぁ……そうだね」
愛海ちゃんの憤慨交じりの指摘に、慶作くんは胸が痛みました。
それというのも、慶作くんが〈フランケンシュタイン〉を読みはじめたきっかけが、「僕に似ている」という共感と反省からでした。
もちろん誰にもいえませんが。
「信じらんない。絶対バチ当たるよ、その人。フランケンシュタインさん」
「……この物語では、そうだね。当然だけどひどい目に遭ってる。自分の作った怪物に弟を殺されてしまうんだ」
「えぇー……」
「怪物はね、醜い怪物として生まれた瞬間に、怖くなったフランケンシュタインに見捨てられるんだ。でも怪物はただの怪物ではなくて、人間のように言葉を理解して考える、知性のある生き物だったんだ。本当は心の優しい人らしい」
「それが……どうして、人を殺してしまったの?」
「んー……僕の考えだけど、『人が怪物を作ってしまった』ってことかな」
愛海ちゃんは首を傾げて、わかんない、といいました。
「フランケンシュタインさんが怪物を作ったってことはわかるけど……」
「うんとね、怪物はね、誰かと友達になりたくてあちこち歩いてたんだけど、誰にも受け容れられなかったんだよ。鉄砲で撃たれたりしてさ」
「かわいそう」
「でしょ? 誰からもそんな風に扱われたら、恨みたくもなるでしょ? 友達になりたかっただけなのに」
「……だから、フランケンシュタインさんに復讐したの? その人の弟を殺して?」
「そういうことだね。……誰かひとりでも優しければ、怪物は怪物にならずに済んだかもしれないのにね。いろんな人たちが〈怪物〉を作ってしまったんだ」
ここまで聞いて、愛海ちゃんは、「悲しいお話ね」と呟きました。
「……で? それからどうなるの?」
「今はね、山小屋の中で怪物が、『俺の妻を作れ』って、フランケンシュタインに頼んでいるところ。『同じように醜ければ俺を拒まないだろう。この願いを叶えれば、もう誰も殺さない』ってね。それを頼まれたフランケンシュタインは、もうひとりの怪物を作ってもいいのだろうか、って悩むんだ」
「えーなにそれー。どうなっちゃうのー?」
愛海ちゃんは目を輝かせ、ぱたぱたと足を動かしました。
「面白そう……だけど、読むのは怖いなぁ。あとで結末だけ聞かせてよ」
「やだ」
「けち」
「じゃあ百円」
「お金取るの? 先生にいいつける」
「嘘だよ。でも、渚辺さんが自分で読んだほうが楽しいと思う」
「いいもーん。絶対に慶作から聞き出すもーん」
ふたりは笑いました。
「……僕ね、ここまで読んで、ちょっと考えることがあったんだ」
「なに?」
「もしもフランケンシュタインが女の人だったらどうなるだろう……ってね。逆に、怪物が女の人だったらどうなるだろうってね」
「……わかんない。何がいいたいの?」
「フランケンシュタインと怪物は、どっちも男でしょ?」
「うん。……ああ、わかった!」
愛海ちゃんは手を叩いて頷きました。
「フランケンシュタインと怪物が結婚するかどうか、ってことね?」
「そう。もしもどちらかが女の人だったら、怪物が『誰も殺さないから、結婚しろ』ってフランケンシュタインにいうかもしれないでしょ?」
「怪物と結婚するか、もうひとりの怪物を作るかってことね。……究極の選択だぁー」
腕を組んで悩みはじめた愛海ちゃんを見て、慶作くんも改めて考えました。
僕ならどうするだろう。
帰宅してから、晩ご飯の準備を待つ間、慶作くんは自分の部屋で〈フランケンシュタイン〉を読んでいました。
読書の途中、ふと、この作品がいつごろ書かれたのかが気になって、インターネットで調べてみました。
予想していたよりも、はるかに古い作品でした。原題である〈フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス〉が出版されたのは、二百年も前のことでした。
「……すごいなぁ」
物語そのものではなく、二百年も前に書かれた物語に自分が出会ったことに、慶作くんは感動していました。執筆当時十九歳だった〈フランケンシュタイン〉作者のメアリー・シェリーという名のイギリス人は、二百年後の日本人の子供を感動させるとは、まさか想像していなかったことでしょう。
「……今から二百年後に、イギリスでお父さんの漫画を読む人も、いるのかな」
いるといいな、と慶作くんが考えていると、ズボンの裾を引っ張られました。足元を見ると、ルスが嘴でいたずらしていました。
「ケイサク、ゴハン。ルス、オナカスイタ」
「あっ、ごめんごめん」
読書と調べ物に夢中になっていて、すっかりルスの餌を忘れていました。
台所から鶏肉を乗せた皿を持ってくると、ルスはヤモリの前足で掴んで、むしゃむしゃとかぶりつきます。
「ルス、おいしい?」
「オイシイヨ、ケイサク」
「そう、それは良かっ……た…………」
瞬間、さっと、血の気が引きました。
おかしい。
何かがおかしい。
恐ろしい。
何かが恐ろしい。
「る……ルス?」
呼びかけると、鶏肉を食べるのをやめて、ルスは慶作くんを見ました。
「ナァニ?」
無機質な、ノイズのようなルスの声。
今まではただそれだけでした。
人間の声真似をしているだけでした。
「ルス……ぼ、僕は、誰?」
慶作くんが恐る恐る尋ねると、
「ニシエガ・ケイサク。ルスノトモダチ」
ルスのよどみない回答が返ってきて、慶作くんは呼吸が止まり、溢れかけた絶叫が喉の奥に引っ込みました。
疑いが確信に変わりました。
ルスが、声真似ではなく、慶作くんの言葉を理解した上で、返事をしたのです。
厳しく管理していたはずなのに、新たな進化が起こっていました。
どうして、どうして、どうして、どうして。
慶作くんの脳細胞を疑問符が駆け巡りました。
約束を、慶作くんは破っていません。あの日から鶏肉以外は与えていません。厳に自分の部屋に立ち入らないように伝えているリーさんが、慶作くんに隠れて何かを与えたとは考えられません。
ならばどうして。
体が大きくなると知能が著しく発達する? 人語を理解し操れるほどに?
そんなはずはありません。つい先日まで、ルスの声真似は意味を持たず……
「……あっ」
慶作くんは、雷に打たれたように、思い出しました。
「あのときだ……!」
日曜日。
ルスを居間に入れた日。ルスが歌を唄っていた日。
あの日、慶作くんは、ルスの餌を準備しようとして、鶏肉を包丁で切り分けている最中に、誤って指先を切ってしまいました。
そしてそのとき、そばで調理を見守っていたルスに、指先の傷口を、舐められました。まるで傷を癒そうとするかのように。
「……僕の血を……」
何かを摂取してルスが進化したのであれば、可能性はひとつだけ。
慶作くんの血を飲んで、ルスの知能が、人に近付いてしまったのです。
「…………ひっ……!」
そしてそこから考えられる〈新たな可能性〉に気付いてしまった慶作くんは、食欲など失せてしまい、夕食も摂らず、ベッドに潜りこみました。
吐き気とめまいに苛まれながら、慶作くんは煩悶しました。
なんてことだ。気付きたくなかった。
その可能性に気付いてしまうと、恐ろしくてルスを見ることができませんでした。
……もしもルスが、人の肉を食べてしまったら……
……結局慶作くんは、朝が来るまで、まんじりともしない夜を過ごしました。
そんな慶作くんを心配してのことでしょう。
ルスが一晩中、慶作くんに語りかけていました。
どうしたの、どうしたの、と……ノイズのような鳥の声で。




