聖女様、林檎を何とかする
涼しい風の吹く昼下がり、私は聖堂の中庭にいて、スライスされたリンゴをゆっくり味わっていました。
リンゴほど素晴らしい食べ物があるでしょうか。爽やかな香り、豊かな甘さ、そしてしゃりしゃりと小気味よい歯ざわり。こんな物が手を伸ばせば届く位置に生るだなんて、りんごの木は主からの贈り物に違いありません。
スライスされたリンゴはそのままでも美味しいですが、今日はとっておきの用意があります。
それはこれ、ガラス瓶に入ったケチャップです。
この間、聖堂の食料庫で見つけたのです。さいきん、街で流行りの新しい調味料らしいのですが、聖堂の料理にはこうした新しい調味料は使われないので、味わう機会が少ないのです。
これをひとかけすれば、あら不思議、リンゴのスライスが立派なごちそうになるのです。朝食にもいいし、夕食の前菜にもなるのです。
「こんにちはー聖女さま」
リブラが訪ねてきました。彼女は聖女見習いとして、週に一度はここで聖典について学んでいます。
「何ですかそれ?」
「リンゴのケチャップがけですよ」
「うわ何やってんですかリンゴにケチャップって気持ち悪っ」
…………
……
「……え?」
え? 何を言うのですかリブラ。え?
「普通でしょうケチャップは」
「なんでですかそんなん聖女様だけですよ普通しませんよ」
…………
「リブラ、よくお聞きなさい」
「はい」
「我々は聖女です。神に仕えるものとして、神の愛を皆に説かねばなりません。そして神の愛とは無限なのです。いっさいを区別なく愛するのです」
「まずいものもですか?」
「いえケチャップリンゴはまずくないです。一番美味しいです。でも博愛の精神があればまずいものも、いえ違いますまずくはないんです。ちょっと待ってください。そこのあなた」
私は庭師のかたを呼び止めて尋ねます。80歳ぐらいのお爺さんです。
「はあ、何でございましょうかマニット様」
「リンゴには何をかけて食べますか?」
「塩ですかね」
「リブラ、いいですね、このような方にも博愛で接しなければなりません。塩はないと思いますけど、愛は無限ですから。塩でも、ええ塩でもまあギリギリで。宗教裁判にはなりますけど弁護側につきますから」
「ケチャップよりマシだと思いますけど」
「ちょっと一緒に来なさい」
私はリブラの手を引いて聖堂を行きます。途中に女官がいました。
「あ、マニットさま、また中庭でさぼってましたね、今日は書類仕事があるのでしょう」
「あなた、リンゴには何をかけますか?」
「え、リンゴですか? 蜂蜜ですね」
「ケチャップは?」
「嫌ですよ気持ち悪い」
リブラが袖を引きます。
「マニット様、あの別にケチャップかけてもいいですから、わたし聖典の勉強があって」
「次いきましょう」
さらに聖堂を進みます。ミサのための大広間に合唱団のための音楽堂、しばらく進むと魔王アスタルデウスが化けたガラス屋さんがいました。
「ああマニット様、この鉛ガラスはどこへ運べば」
「アスタルデウスよ、あなたリンゴに何をかけますか」
「いやいきなり見破るな、だがまあいい、いいか、今日はとっておきの魔獣を」
「リンゴには何をかけますか!」
「た、タバスコだな」
「聖凰槍!」
錫杖からの閃光。回廊の壁を吹き飛ばしてアスタルデウスを灰にします。
「マニットさま、あのですねケチャップ最高です。実は私もケチャップかけるの好きです」
私はリブラの手を引いたまま、空けた穴から聖堂の外に出ます。
すると、ふいに私達の上に影が降りました。
「うわでっか」
リブラが言い、私も右手を振り仰ぎます。そこには聖堂の屋根に届く大きさの、何やら首の長い馬がいました。体中が網目模様になっていて、黒と黄色のカラーに個性的な美しさがあります。
私は叡智の書庫にアクセスします。これはアミメキリンという種のようですね。通常のものよりやや大きく、重量はざっと5トン、首の長さは18メートルというところでしょうか。しかも全身に魔力がみなぎっています。
「アスタルデウスの言っていた魔獣ですね」
「ふん、なめられたもんね、こんな……ええと……」
リブラが前に出て、そこで硬直。
「地図……じゃない……うん、もういいわ変な馬なんて一撃よ」
確かに人に説明するの難しい容姿してますね。叡智の書庫によるとキリンはキリン科キリン目であり、独立した種族です。
「ふ、フハハハ、その魔獣を甘く見るなよ」
と、粒子レベルからゆっくりと復活しつつあった魔王が割って入ります。まだ再生しきれてないので顔が後ろ前になってますが。
「こいつは異なる宇宙から見つけてきた千年の首王。悠久の歴史を生きた無敵のキリンよ。どんな打撃も法力も通じぬ!」
「キリンをそんな怖がれと言われても難しいのですけど」
「分かるけど仕方ないだろ強いんだから、失礼だろキリンに」
「えやーっ」
リブラが5メートルぐらい飛び上がり、体を回転させつつ蹴りを放ちます。するとキリンが首を巡らせ、頭部でその蹴り足を受け止めると同時に衝撃波が周囲のガラスを粉砕します。
「うわ止めた、すごっ」
「フハハハハ、こいつは魔力を細胞レベルで循環させている! 並の魔法使い数万人という量だ! 正真正銘、無敵の怪物よ!」
私はそのキリンの正面まで歩いていって、錫杖を突きつけて言います。
「あなた! リンゴには何をかけますか!」
「おいこら、わかってんのか、コイツこそお前を倒すための最終」
「ヨーグルト」
「しゃべった!?」
しゃべるのは知らなかったのでしょうか。魔王も驚きながら振り仰ぎます。
キリンは舌が分厚いので、骨格の使い方次第では喋れるのでしょう。通常の鳴き声は牛に似ていてモーと鳴きます。
「ヨーグルト……ですか?」
「リンゴには水溶性食物繊維のペクチンが含まれている。これはヨーグルトに含まれる乳酸菌のエサとなり、その働きを助ける。腸内環境を整えてくれる」
「このキリンめっちゃ喋るわ」
リブラがつぶやきます。私は叡智の書庫にアクセスしているために理解できますが、この方は栄養学にも通じているようです。
ヨーグルトリンゴ……蠱惑的な響きです。しかし聖女として信念を曲げるわけにはいきません。ときには北バルチッカを犠牲にしてでも悪に打ち勝つ、それが聖女の務めです。
「……いいえ、それは栄養価だけで見た話。リンゴは癒やしであり娯楽なのです。優先されるは味! より良い味を楽しむことが心の健康につながるのです! それにヨーグルトリンゴなんて不味いに決まってます!」
「博愛はどこ行ったんですか」
私が視線を向けるとリブラはさっと目を伏せました。あとで彼女とはゆっくりお話しましょう。
「ならば人間よ。ヨーグルトリンゴを食べてみるがいい」
キリンさんは耳をぴくぴく動かすと、目の前に立派な白木のテーブルと磁器のお皿、そしてリンゴにヨーグルトのかかったものが出現します。リブラが驚いてのけぞります。
「うおっ、こ、こいつ物質創造の魔法を……」
「フハハハハ、驚いたか、こいつの魔力は半端ではないぞ」
「危なかったわ、いまマニットさま防壁解いてたから、その魔力で攻撃魔法を打ち込まれたら灰になってたわ」
「あああああもうっ!!」
「これが……ヨーグルトリンゴ……」
「どれ、お前だけに試食させるのも不公平、私はケチャップリンゴをいただこう」
横にはケチャップがけのリンゴが出現します。ちなみに念のためにリブラが防壁を用意しているようです。
キリンさんは黒い舌を伸ばしてリンゴをすくい取り、私は銀のフォークを使ってリンゴをすくい取り、互いに同時に口に運びます。
「……!!」
こ、これは……。
がくり、とキリンさんが前足を折ります。
「私の負けだ、人間よ」
「えええええええええええええええ!?」
魔王とリブラ、あと後ろの方に来ていた女官とか庭師さんが声をハモらせます。
「なんという濃厚な味わいだ……、リンゴの甘味を打ち消すパワー、皮の赤みの意味を見失う色彩。フルーツらしさをかき消す野趣、これぞまさにマリアージュ、私も修行が足りぬようだ……」
キリンさんはくるりと振り向き、悄然とした様子で首をブラブラと振りながら去っていきます。
「……な、なんかもういいわ、今日は引き上げだ!」
それを追って魔王も去っていきました。
女官がおずおずと声をかけます。
「……そ、そんなに美味しいんですか? マニット様」
「じゃあわしも一度ぐらいは……」
「じゃああたしも……」
確かにヨーグルトリンゴも素晴らしい味でした。
しかしやはりリンゴにはケチャップです。これで皆さん分かってくれるでしょう。
三人ともがケチャップリンゴを食べて。そして私も食べます。
……。
……これは?
「うぐ……やっぱり変な味じゃのう……」
「マニット様あ、こんなんが美味しいんですかあ?」
「いえ、その……」
おかしいですね。おいしくありません。
というより、キリンさんの出したケチャップリンゴ、これケチャップじゃないですよ。
私が食堂で見つけた「ケチャップ」と書かれた瓶の中身と違います。
「あの、リブラ、確認したいのですけど」
「はい?」
「ケチャップってあれですよね。イチゴをつぶして砂糖で煮た調味料の、最近のオシャレな言い方……」




