聖女様、金言を何とかする
「聖女長、なぜ彼女を」
マニットの語る言葉をその人物は聞いているのか。
かたくなに心を閉ざしているのか、それとももはや、マニットを含めた一切のことに興味などないのか。
「聖女ジュデッカを、そばに置いておくのですか……」
その様子を眺めるリブラは、両の拳を胸の高さでぐっと握る。
「なんかシリアスな雰囲気ね!」
「なんで興奮してんだよ」
別に隠れる必要はないのだが、リブラと魔王はその様子を庭木の影から眺めていた。魔王はとてつもない肥満体の姿なので、シルエットがはみ出している。
「どうでもいいけどなんでそんな太ってんの。普通のカッコしなさいよ」
「ふん、人間が恐れる姿をするのが魔王のあり方だ」
え、とリブラは魔王を見る。
ぴちぴちの服と、その上から厚手の生地のオーバーオール。顎はなくなっていて指はタラコのよう。
しじゅう汗をかいていて息は荒く、かげろうが生まれているのか頭の上がゆらめいて見える。円に近いほどの肥満体である。
「それ怖いの?」
「こいつが夜中に追いかけてきたら怖いだろ」
「それは…………………………そうだけどぉ」
ともかく、そんなことは些末なことであった。リブラは会話の先に耳を澄ませる。
「ここしばらく、私は聖女たちに起こっている異変について調べていました」
マニットが言うが、黒レースの人物は池に向かって立ち尽くしたまま、何らの意思をも見せない。
「新たな聖女の生まれる間隔が短くなり続けている。原因も理屈も分かりませんでしたが、私はようやく気付いた。新たな聖女が生まれるたびに、アンテノーラ様、あなたの力がほんの少し弱まっている」
――よくぞ見抜きました。
念話が伝わる。空の高みに群れるカラスの気配のような、どこか不穏なものを秘めた波長である。
だがその場面とは別に、ない顎を空に向ける魔王。
「む、何か感じるぞ」
「どうしたの?」
「アンテノーラのものとは違う。遠くからマニットに直接送られてる念話だ。暗号化されてるようだが、このレベルなら解読も……」
魔王はソーセージのような指を組み合わせて、その指の隙間から向こうを見るような仕草をする。
「見つけた、広域化する」
『マニットー! あんた今どこおんねん!』
腹の底から涌き出るような活発な声である。それには聞き覚えがあった、黄金の聖女マモンのものだ。
マニットは斜め上をちらと見て、同じく念話を返す。
『マモン様、今ちょっと立て込んでて』
『アカンねん! うちの教区に魔物が攻め込んでんねん! 例のあれ送ってくれ!!』
「あれって何?」
「うむ、黄金の聖女マモンとは、ゴールドというより錬金術的な意味の「完全なもの」を操る聖女だ。その解釈を言語に当てはめて、「金言」を操ることもできる。簡単に言うとこいつは言葉の力を法力に変換できるのだ」
「へー、なんかすごい」
「そして、あらかじめ契約しておいた聖女に金言を送ってもらうことで……」
と、魔王は空模様を見て視力を高める。魔王の視座であればレイリー散乱により青く染まる空の向こう。微弱な星の光を見ることもたやすい。そして星の位置から日付を割り出す。
「思い出したぞ、この日は俺がマモンの教区に攻め込んだ日だ」
「大変じゃないの、ピンチのはずよ」
マニットはというと表情は動かさないまま、額にひとすじの汗を流す。
『後ではダメですか』
『あかんあかん! 今すぐ送ってくれ! 何でもええから!』
――今こそ語りましょう。我ら聖女の宿命を。
聖女長アンテノーラはゆっくりとマニットの方を向き、黒のレースを上げぬままに念話を送る。
その周囲にわだかまる気配。足元から吹き上がる泥のような気配だ。
「金言って具体的にどうすんの?」
「難しい話ではない。法力の力を込めつつ、力ある言葉を言えばいい。つまり何かカッコいいことを言えばいいのだ」
「ざっくりしてるわね」
――かつて聖女とは大いなる器でした。神の力を受ける巫女であったのです。
「……存じています。その……真なる恩寵に通じ、主の博愛を我が物とする、それが選ばれし聖女、全なる愛の具現」
しゅぴーん
そんな音を立てて光の粒が生まれ、西の空に飛び去っていく。
「あれが金言ってこと?」
「うむ、言葉の霊というやつだ。空間に生まれた言葉そのものが法力となって飛んでいく。これは主観的なもので、相手に強く訴えかけようとする言葉なら何でもいい」
――しかし一人の人間が受けるには神の力は大きすぎた。大きすぎた力はこぼれてしまう。そのこぼれ落ちた力が新たな聖女となるのです。
「それも……その、予想はついていました。聖女の増え方が加速しているのは、それは器の毀損であると。誰よりも愛を受けた聖女であるアンテノーラ様、あなたの、あの……玉膚よりこぼれたる愛、それが聖女の光となって世に溢れつつある……のだと」
「珍しいわ、マニットさまが恥ずかしがってる」
「ああいうのって身構えて言おうとするときっついよな……」
だが、魔王の目線はアンテノーラの方に向いている。
「……妙だな。アンテノーラの声はするが、生命力が希薄すぎる。聖女どもの分身体とも少し違う……」
――かつては神の愛を一身に受けていた私も、数百年を生きるうちにその力は衰えた。
――何よりも、己が老いて醜くなっていくことに耐えられなかった。だが私は餓えたることの自覚が心地よかった。狼貪なる完全への希求、それも世界への愛に肉薄せんとする純粋さであると思えた。
しゅぴーん。
「あっ」
光の粒が飛んでいく。マニットは一瞬目で追った。自分が出した粒よりもだいぶ大きい。
――私は思ったのです。神の愛とは無垢なること。それは若さであると。若く美しく、拔山蓋世なる才気。それは燃え盛る炎か、匂い立つ雌鹿のごとく。万物から愛されるほどの美しさ、それが愛の器たりえる。
――だから、あの子を我が器とするのですよ。
しゅぴーんぴーん。
「それって……!」
リブラが息を呑む。
――私は間もなく無となる。この肉体を無へと返すのです。
――その時、太陽のごとき私の法力、万の枝に繁る葉のごとき聖女の歴史、聖女の器物、すべてがあの子に受け継がれる。
しゅぴーん。しゅぴーん。
「それはつまり」
マニットが、矢を射通すような声を放つ。
「ジュデッカを犠牲にして、生まれ変わるつもりですか」
――ただの生まれ変わりではありません。あの子を限りなく完全に近い器に造り変える。
――その肉に我が魂が宿る。その時こそ私は完全なる一人になる。この世界でただ一人、聖別されし個。私は無限個の宝玉に満たされし、無限遠の宝土に等しくなる。
しゅぴぴぴーん。
「マジメな場面なのに金言出っぱなしね」
「思い出したけどこの時のマモンはゴリラみたいになってた」
――私は感じるのです。これは私だけの考えではない。すべての聖女が、やがて至る場所。魂の還る大地。終極への階段。そして真理の生まれる場所なのです。
しゅぴぴぴーん
――そこには幸福も不幸も、過去も未来もない全能の視座。己が世界で唯一であるという完全なる完結、尾を喰らう蛇、厚みのない円なのです。
しゅぴぴぴぴぴぴぴぴ。
「いまマジメな場面でしょうがあ!」
「俺に言うなよ知らんよ……」
――この発想はまさしく、あの方のやろうとしてることと同じではありませんか。
「……あなたは」
マニットが錫杖を握る。そこに苛烈なる法力がみなぎる。
アンテノーラはそこで初めて、ゆっくりと黒レースを持ち上げた。
そこには。何もない。
老人の顔も、人間の顔もない。
ただ法力を込められた木の人形があるのみ。
「聖凰槍!」
閃光。
アンテノーラの言葉を語っていた人形も、古びた庭園の半分をも消し飛ばす一撃。後には焼けついた空気が残るのみ。
マニットが肩で息をしている。それは法力の余波というより激昂のためだろう。およそ誰にも見せたことのないほど明確な怒りがあった。
そのような変化はごく数秒だった。マニットはまた虚空を見て、己に降り注ぐ念話を聞く。
『マニットー! あかんー! 相手の戦力がケタ違いやー!』
『マモン様』
『あんたに送ってもらった法力はごっつかったけど、使いこなせんかった……堪忍やで』
『いえ……』
『うちは世界牢ってやつに封じられるみたいやけど、あんただけでも生き残ってや。あんたとアンテノーラ様が最後の希望やねんで……頼むで……』
「……ここまでだな」
風景が暗転する。
戻ってきたのは黒で装飾された部屋。魔王アスタルデウスの居室である。
リブラは先ほどの場面を思い返しつつ、何度かうなずいてみせる。
「ふーん、つまり、聖女長アンテノーラ様がジュデッカの体を使って転生しようとしてるわけね。それを防ぐために魔王に幽閉させたわけか」
「……俺を利用したわけか、マニットめ」
魔王は。その巨体で腕を組みつつ難しい顔をする。
「だが、現在のジュデッカはまだ並の聖女だった。では……」
「魔王、どしたの」
問いかけるリブラの前で、魔王は腕を組んで考える。
「聖女長……ジュデッカ、そして世界牢……」
やがてその顔がリブラを向き、どこか神妙な様子で語る。
「聖女リブラよ、俺はいまお前の望みに協力したな」
「え、うん、まあ」
「ならば今度は、お前が俺に協力しろ」
「えっ」
その姿はもう巨漢ではなかった。いつの間にか黒の燕尾服に撫で付けた黒髪。細身で長身。血色の薄い貴族然とした姿になっている。
「嫌な予感がする。この基本世界が揺らぐほどの野望が、魔王すら凌ぐ混沌の気配がするのだ。一刻も早く、ことの真相に肉薄せねば」
しゅぴーん。
「なんで今しゅぴーんって言ったコラ」
「なんとなくよ」