最終章
「動くな」
振り返ると、百メートル道路の遊具のそばで、イノシシのような大西が、ライフル銃を構えてすっくと立っていた。朝焼けが、にぶく銃身を反射している。
先ほどまでタランチュラと対決していた荒木にとっては、この程度の脅しは蚊にさされた程度だった。しかし、大西はそう思っていなかった。自分では、この脅しが効を奏すると思っているのである。
ほとんど狂気に近いねっとりしたまなざしで、荒木をねめつけると、大西は、
「おまえ、二百万を独り占めするつもりだったのか?」
いきなり、敵意のこもった声で言った。
「は?」
荒木は、目をまたたかせた。
「その白狐だよ! 合い鍵がないと思ってたら、動物園から盗み出して、毛皮を売るつもりだったんだな?」
「いや、それは誤解だ」
荒木は、説明しようと口を開いた。
「おれたちはさっきまで、化物と戦ってたんだ」
「ひとを、バカに、するな!」
大西は、噛みつくように怒鳴りつけた。
「どこに化物がいるって言うんだ! ここにいるのは、おまえとオレだけだ!」
「あたしも含めて欲しいわね」
耀狐は、二本足で立ち上がって言った。
「いちおう、あたしは神の使いなのよ?」
「―――き、き、狐がしゃべった!」
大西は、夜明けの日のなかで、はっきりわかるほど青ざめた。
「そ、そうか、化物というのは、こいつのことなんだな?」
「違う! 耀狐は味方だ! そんなものをこっちに向けるな!」
誤解を解こうとして、荒木は、息せききってさらに説明しようとした。しかし大西は聞いていなかった。
「三枝たちのためにも、やはりこの狐は、生かしておけない!」
「それはどういうことだ!」
荒木は、語気がますます荒くなっている。
「この狐は、命の恩人だ。作家生命ばかりか、おれの人生を救ってくれたんだ!」
荒木は、さきほどまでのことを、ざっと説明した。すると、大西はますます警戒したようになった。
「ふーん。信じられんな」
「だが、事実だ」
「もちろん、こうしてものを言う狐が実在する以上、事実を認めてやってもいいが、おまえ、ひとつ忘れてるぞ?」
「な、何を?」
「ちょっと考えればわかることだ。そいつはものを言う。つまり神の使いだ、そこまではわかるな?」
「それで?」
大西は、ピタリと銃口を耀狐に向けている。
「光あるところには、影がある。願いがあるところには、欲望があるものなんだ。つまりだ、タランチュラは、その狐の影、つまり欲望のカタマリなんだ!」
「むちゃくちゃな三段論法ね」
泡をくったような顔になる荒木を見て、耀狐は大西に突っ込んだ。
「欲望のカタマリは、あんたのほうでしょ!」
「二百万ほしいのはな、オレ個人のためじゃない」
大西は、奥歯を噛みしめる。
「三枝が出す自伝の自費出版に必要なんだ。ちなみに三枝は、オレの女房の父親でね」
「―――尻に敷かれるタイプだったのねえ」
「うるせえ!」
大西は、つばを飛ばしてわめいた。
「そんな薄汚れてイカれた動物よりも、芸術の方がどれだけだいじか。あのときは本気にしていなかったが、三枝は、タランチュラと取引して、世間をあっと言わせる作品をつくったんだ。オレは二百万円を投資して、がっぽり儲けてやるのさ」
「やっぱカネが欲しいんじゃんか」
荒木は、あきれている。
大西は、意味ありげに荒木を見やった。
「きさまもタランチュラと取引すればよかったんだ。あいつを呼び寄せる狐をかばうくらいだからな。三枝は、きっと爆発的なベストセラー作家になる。売れることは間違いない。狐がしゃべる事実が幻覚でないなら、タランチュラの約束もほんとうだろう。きさまも三枝のマネをして、魂を売ればそれでよかったんだよ」
「荒木くんは、正義感にふれてるのよ」
耀狐は、少しかすれた声で答える。
「認めてもらいたい欲求のカタマリなのに?」
と、大西。
「でも、正義感に、あふれてる!」
耀狐は、がんこに繰り返した。
「仲のいいことで」
大西は、少し余裕を取り戻した。肩の力が抜け、血走った目が少し細められる。
「あたしの影が、タランチュラかどうかはわからない」
耀狐は、尻尾を振って考え深げに言った。
「でも、あなたは、創作活動をしていないの? 文章を書く気はないの?」
「ことばは剣にもなる。剣が武器なら、オレにはライフル銃がふさわしい」
わりと含蓄のある大西のことばに、荒木は、腕を組んでしまった。
「うーん、こうなったらワイロとして菓子折でも贈るかな。おくる喜び、プライスレス」
耀狐は叱るようにかれを振り返った。
「古いギャグね、お中元を贈るなら菓子折より、サラダ油セットのほうが喜ばれると思うけど」
「オレの話を聞けぇぇ!」
ちっとも緊張感のないやりとりにジレて、大西は、ぴょこぴょことライフル銃の銃口を上下させる。いまにも発砲しそうだ。
「その狐をわたしさえすれば、すべて片がつく! 欲望をダシにして力を増殖させる、タランチュラを生み出すような危険な動物を、うろつかせるわけにはいかないだろ!」
「一理ある」
「あんたね、どっちの味方なのよ」
ぱこっと耀狐が荒木の頭をどついた。大西は、思わず目をみはった。
その次の瞬間。
けーん、と耀狐がさけんで跳びあがり、その顔に思いっきり爪を立てた。爆発音。きゃいん、という声、そして倒れた大西のうめき声。
「ちくしょう!」
両目をひっかかれた大西は、地面のライフル銃を、手探りでさがしている。手の先わずか数センチだ。荒木は銃を蹴っ飛ばして側溝にたたき込んだ。
「耀狐!」
見ると、すっかり明けた空の下で、真っ白な毛皮が赤く染まっている。
「耀狐、しっかりしろ!」
荒木は、ぐったりと横たわっている耀狐を抱き上げた。大西は、顔を押さえてうめいている。目が、目が……と悲痛な声だ。
「耀狐、死ぬな」
荒木は、そっと彼女を抱きしめた。
「死なないわ。あたし、気に入らないことは一度だってやったこと、ないんだから……」
微笑みながら耀狐は、ガクッと頭を落とした。そのまま赤い目から光が消えていく。
飼育員が、銃声を聞きつけたらしい。パトカーのうなり声が聞こえてきた。
「耀狐ぉぉぉぉぉ!」
荒木は叫んだ。
飼育員が、駆けつけてきた。
警官が、あとから追いかけてくる。
大西は、血だらけの顔をあげた。
「くそ!」
「大西 泰造! 抵抗は無意味だ!」
拡声器から、声が飛んでくる。
「おとなしくしていれば、刑も軽く済む!」
「牢屋に入るなら、いっしょだろうが!」
大西は、顔をゆがめてそう吐き捨てる。
「しかし、目的は達成した。毛皮はおれのもんだ。よこせ」
大西は、身を乗り出してきた。両方のまぶたの上から、三つの筋があかく染まって血がにじんでいる。まるで悪役プロレスラーであった。
「え、なにを」
荒木は、すっとぼけてみせた。
「だから、狐をよこせ」
「嫌だ」
荒木は、背後に耀狐を隠した。
「乱暴なまねはしないで! 傷が深くなります!」
飼育員が、南の方から呼びかけてくる。
「じゃあ、まだ生きてるのか?」
荒木は、声が弾むのを感じた。
「まだわかりません。診せてください」
飼育員がそういう。大西は歯を見せて、鬼のように咆えた。
「よけいな手出しはするな! あいつを手に入れたら、おれは世界一のカネ持ちへのステップを手に入れるんだ!」
「無駄な抵抗はやめなさい!」
警察が、拡声器から叫ぶ。
そして同時に、バラバラと警官が十人ぐらい、檻の影から飛び出してきて、大西を取り囲んだ。
大西は腕をつかまれて、ぎりぎりとしめあげられた。かれの顔は怒りと屈辱で真っ赤になり、あっとうまにつかまってしまった。。
パトカーに引きずられていく彼を見送っていると、飼育員が耀狐のそばにひざまずき、
「早く病院へ連れて行きましょう」といいながら、そっと耀狐を抱き上げた。
「右前足をやられてる。だいじょうぶかな」
そのまま立ち去っていこうとするので、
「おれも一緒に」
と後を追った。
荒木はそのとき、たしかに耀狐がウインクするのを見た。
―――まさか、警察が来たのは、神通力?
荒木は一瞬考えたが、
―――まさかね。
頭を振って否定した。耀狐がそこまで神通力を復活させているとは、自分でも思っていなかったからだ。
弾が右腕に突き刺さっていたので、手術はかなり時間がかかった。自分の創作のこともすっかり忘れ、やるべき仕事や食事のことまで忘れて、荒木は動物病院の待合室で待っていた。
耀狐。
手術が成功しますように。
そこは、お花畑だった。
耀狐は、川のそばで、舟に乗ろうとしていた。
渡し舟の番人は、お花畑に立ち尽くし、川へと向かう耀狐を見て微笑んだ。
「やあ、正一位稲荷大明神、耀狐さま。長いことおつとめ、ご苦労さまでした」
耀狐は、きれいな花々を眺めていた。うつくしい蝶が舞い、かぐわしい甘いにおいもする。
「ここは、どこなの」
耀狐は、ぼんやりと辺りを見回している。
「あの世とこの世のあいだでさ。あんたは、もうじき死ぬんだよ」
番人は、にたにた笑いながら言った。
「死ぬ……なぜ?」
耀狐が、抗議するように鼻をもたげた。
「あたしは現世でやり残したことが、まだたくさんあるのよ」
「だけどさー、あんた、神社もないでしょう。神通力も、限定的だし、この際あの世へ行って、神さまの近くでノンビリしているほうが、楽でいいよ?」
番人は、したり顔でそう言った。
耀狐は、じろりと番人を見つめた。
「そうね、それもいいかもしれない」
耀狐は、こくりとうなずいてみせる。
「でも、ひとつ忘れてるんじゃないかしら」
「はい?」
「あたし、船賃をもってないのよ」
「あちゃー」
番人は、手で額をたたいた。
「そりゃまずい。あの世に渡せないですなあ~」
「でしょ? お賽銭が集まったら、また来るわね」
「ということは、神社を建てるおつもりで?」
「悪い?」
「アテがあるのですか?」
「当たって砕けろよ」
「砕けちまったら、意味がありませんや」
しょうがないなあ、とブツクサ言いつつ、番人は舟を向こうへ寄せていく。
耀狐は、くるりと背を向けた。
光が、目の前に広がっている。
「耀狐! 耀狐!」
目の前が、真っ白だった。
光がまぶしい。目が慣れてくると、心配で憔悴しきった荒木の赤い目と、冷静そのもののドクターがのぞき込んでいた。
「峠は越えました。それにしても、異常なまでの回復力ですな」
ドクターはそう言うと、荒木の肩をそっとたたいた。
「しばらく、ここにいていいですか?」
荒木が言うと、ドクターは、
「十分程度なら」
と、許可してくれた。耀狐は、身体を起こそうとしたが、激痛が走って横たわってしまった。
「むちゃしやがって。心配したよ」
荒木は、そっと耀狐の頭をなでてくれる。
「あたしのこと、心配してくれたの」
耀狐は、胸がいっぱいだった。
「あんたを、危険な目に遭わせたってのに」
「小説のネタになったから、かまやしないさ」
荒木は優しく微笑んだ。
「だいいち、おれにとっては、あんたはだいじな恩人なんだから」
「じゃ……、あ、あ、あたしのこと……」
耀狐が言いかけたとき、カチリと扉が開いて、三枝の顔がのぞいた。
「義理の息子が、たいへんな迷惑をかけたね」
と、三枝はふくふく笑って言った。
「その狐を殺してくれなんて、一度も言ってないのに」
「結果的にそうなっちゃったよね。あんたがタランチュラと取引したせいで」
荒木は敵意をたっぷり含んだ声で言った。
「そうか、きみがわたしたちの未完の小説を完成させてくれたんだね、ありがとう」
三枝は、嫌みともとれる礼儀正しさで、
「タランチュラの提言をつっぱねるなんて、おろかなことだよ。どうだい、きみとわたしたちとで、あの小説を世に出さないか? 共作という形を取ってもいい。タランチュラが約束したとおりなら、ベストセラーまちがいなしだ」
三枝は、にっこり笑った。
影がすっとさしてきて、三枝の背後がタランチュラの黒い影になった。
「―――まだあきらめてなかったのか!」
構えてみせる荒木。ボクシングはやったことはないが、無駄でも抵抗しなければ、喰われてしまう!
「安心なさい。タランチュラは、わたしの支配下にあります」
三枝は、相変わらずふくふく笑いながら、
「仲間たちと一緒に、『歯車』で趣味の作文をして、エネルギーを喰わせてやってますよ」
「そして、同じ趣味の人間を誘って、魂を充填するのか」
荒木は、怒りがこみ上げてきた。
「そんなにまでして、売れっ子になりたいのかよ!」
「本は芸術じゃない。商品です」
ふとまじめになって、三枝は、言い切った。
「ひとりごとを言いたいんだったら、小説なんか書くもんじゃない。読者がいない作品なんて、存在する意義、あるんですか?」
ぐっと詰まった荒木に、
「じゃ、気が変わったら教えてくださいね」 と言い捨てて、三枝は去って行った。
神の使いである耀狐は、自分の気持ちを打ち明けるのをあきらめた。
作家志望のかれの、重荷になりたくなかったのである。
怪我の治療中に、飼育員がやってきて、動物園は危険すぎると告白してくれた。だれが毛皮目当てにやってくるかわからない。
荒木は村人たちに呼びかけて、耀狐のための神社を作った。それは美しくて立派なものだった。
今、耀狐は葦山で、稲荷神社に祀られ、幸せに過ごしている。