第三章
荒木編とかぶっているところがあります。耀狐から見てどうなるでしょうね?!
荒木を連れてレッサーパンダの檻のまえへ行くと、そこに倒れていたのは。
「ひでえな」
荒木は、顔を背けた。腕が引きちぎられ、血だらけになっているのは、絵本のなかの天使とみられる人間だった。愛嬌のある顔は苦痛に歪んでいる。その天使は、悲鳴を上げかけたものの、息を吸うまえに攻撃を受けたらしい。不意打ちされたのだ。
「動物園に来ていた幼児がつくったお話のキャラクターね。話を作るのに慣れていないから、殺人鬼も狙いやすかったのよ」
「目の前で起きたんだろ、犯人の顔を見たか?」
「わかんない。二メートルの狼みたいに毛むくじゃらだったけど、巨大な昆虫みたいにも見えたし……」
「いつごろ起こったんだ」
「ついさっきよ。あなたが話を作ったのと同時ぐらいかしら」
「なんでわかる」
「あたしは神の使いですもの」
いきなりファンタジーが目の前に迫ってくるのを感じたらしく、少し青ざめる荒木。耀狐は丁寧に天使の遺体を抱き上げた。血まみれのぬいぐるみだ。
「喰い残しかしら。じっとここにいたら、かえって危ないかも。またやってきて、残りを食らうかもしれない。さっさとこれに決着をつけましょう」
「そういえばおれ、武器を持ってないけど」
「だいじょうぶよ。あたしが守るわ」
耀狐は、平たい胸を張ってみせる。荒木はうろんげに、
「弱っちい神通力で?」
「神の使いをバカにしないでよ。あんたが真剣に祈れば、力がわいてくるんだから」
「お祈り? そんなもので?」
荒木はすっかりバカにしきっていたが、耀狐は諭すように、
「いったい、いつから素朴な信仰心が非難の的になったのかしらね」
「時代は人工知能だ、お稲荷さんなんて古いぜ」
言い返す荒木。耀狐は、頭を振った。
「お祈りができないのなら、せめて油揚をちょうだい。パワーの源なんだから。五目いなりとか、おでんの巾着とか、焼き油揚とか、料理した油揚がいいわねえ。手作りだとなおパワーが出るわ」
「食いしん坊め」
とりあえず、天使人間の遺体を片付けることにした。ファンタジー世界の住民は、それ自体が想像の産物なので、土葬や火葬などしても意味はないし、そもそも動物園はコンクリートの道路ばかりである。かといって、放置していたらまた殺人鬼がやってくるだろう。殺人鬼のにおいが残っているし、耀狐の抱えている頭からは、血のにおいも殺人鬼を誘惑している。へたしたら、自分たちもその殺人鬼にやられるかもしれない。どうしようかと荒木が迷っていると、
「あんたにしかできないことをやってちょうだい」
と、耀狐は、真剣な目で言った。ルビーのような瞳に、きらきらした光が宿っている。殺人鬼は怖いし、天使人間は哀れだけれど、そんな感情には負けないわ、と耀狐は思った。戦いは、非情なものなのだ。
「お経でもあげろってのか?」
荒木は鼻で笑っている。素直じゃないんだから。
「話の結末を考えるのよ。あいつの力を削ぐには、それしか方法はないの」
耀狐は、空を見上げた。黒い雲が垂れ込めている。すでに午前二時頃になっている。荒木は、天使めいた人間の頭に目をやった。
「話の結末……か。だが、なぜおれなんだ? ストーリーそのものを知らないのに、できるわけがないだろう」
「あなた、作家になりたいんでしょう? 三枝たちよりずっと才能があるんだから、このアイデアでまとまったストーリーを作れるはずよ。三枝みたいに、趣味でやってる連中じゃないんだから、アイデアに結末を着けるのは、作家になるための必須事項じゃないかしら」
「でも、こんな残酷な話に結末なんて、おれにつけられるかな?」
「やらなきゃ、殺されるわよ」
動物園に来ていた幼児のキャラクターを使った話の結末。もちろんその幼児は、『歯車』の交流会にいた。その老人たちの血縁だった。
そこまで耀狐は言わなかった。言う必要はなかった。荒木も詳しくは聞かず、悲惨な状況になったお話の結末を考え、レッサーパンダにえさをやる使命を果たした天使が、天に召されたというオチを考えてくれた。
根っから、作家なのだろう。
耀狐は、動物園を案内することにした。
怪物が食い残したキャラクターは、ほかにもたくさんあるのだ。
☆ ☆ ☆
耀狐は、目の前にひろがる状況を、吐き気とともに見つめていた。
二人が追跡するうちに、動物園の殺人鬼は、人間の皮膚をパッチワークにしたり、手の指を首飾りにしたりして、やりたい放題をしていた。
そのどれもが、話の途中で終わっているストーリーだった。
荒木は、そのたびに、話の結末を考えなければならなくなった。
「推理小説は、苦手なんだよ」
荒木はブツクサ文句を言った。
「猟奇的な犯罪なんて、『歯車』の連中が好みそうなテーマだしなぁ」
その、『歯車』の連中の後始末を、荒木にさせてしまっているのだ。耀狐は少々、後ろめたくなった。ほんとうのことを言うべきだろうか? 三枝たちの、半端な小説の落とし前をつけるなんて、やっても意味がないと荒木がキレたらどうしよう?
「とにかく、やってみてよ。腕を上達させるいいチャンスじゃないの」
耀狐は、荒木をけしかけた。
「そりゃそうだ。よし、じゃあ、この残骸を観察させてもらうかな」
荒木は、気持ち悪そうな顔をしながらも、果敢にパッチワークの皮膚をつまみあげた。
「で、この話は、どこまで進んで半端に終わってるんだ?」
「そうね、冒頭でヘコんじゃったみたいね。思いつきだけで推理小説をすすめようとしたみたい」
「―――ひとごととは思えない」
眉をしかめて荒木は呟いた。
「話の結末が作れたらいいんだろ。別に小説にする必要はないんじゃないの」
「できれば、小説にして欲しいな。あんたの実力のためにも」
「―――無理っぽいが、やってみるよ」
荒木は、スマホを取り出して、その文書作成ファイルに小説のあらすじを書き始めた。短編にするつもりらしい。
「山下光子は、小久保探偵に自分の悩みを打ち明けていた」
と、かれは始めた。耀狐は、スマホをのぞきこみながら、探偵ものシリーズを書くのかとひとり、納得している。
「彼女の郵便受けへ、週に一度、人間の皮膚のパッチワークが送りつけられてくるのだ。光子には、ひとに恨まれるような覚えはない。しかし、警察に訴えれば、痛くもない腹を探られるだろうと、小久保探偵のもとを訪れていたのであった」
耀狐の手の中にある皮膚のパッチワークが、ぴくぴく動いた。どうやら、このストーリー展開は気に入ってくれたらしい。
「光子の憔悴しきった顔を見た小久保探偵は、光子のために、無料で調査を開始することにした」
ファンタジー志望らしい展開だ。ありそうにない。しかしいまは、現実にあるかどうかということよりも、今あるストーリーに決着を付けることが先である。それに、突拍子もないとはいえ、まったく面白くないわけでもない。
「小久保は、光子が事務所に勤めていることや、親切な伯父がいることを突き止めた」
あらすじはちょっとざっくりしすぎている。もうちょっと膨らませた方が、お話としては面白いのだが。まあ、はじめて現実的な推理小説を書くのだし、文句を言って萎縮されても困るか。耀狐は、批判をこらえる。
「小久保探偵は、光子がよく利用するカフェに赴き、そこで伯父もよくコーヒーを飲むことを聞きつけた」
ふーん、見え見えの伏線ね。つまり伯父さんが、皮膚を送りつけてきた犯人だったわけだ。その程度だったら、赤ん坊でも推理できそうだ。
「小久保探偵は、カフェで待ち構えていた。すると光子の伯父さんがやってきて、いつものようにコーヒーを飲んでいる。そのまま、店を出ようとした」
逮捕劇が、はじまるぞ。
「小久保探偵は、カフェに入り込み、皮膚のパッチワークをかざした。ところが、それを見てまっさおになったのは、カフェのウエイターであった。かれは、山下に一方的な恋心を抱き、イカれた好意がたぎるに任せて、皮膚のパッチワークを山下に送りつけたのだ。山下の自宅がなぜわかったかというと、以前山下がこのカフェで、運転免許証を落としたこがあり、それ以来山下をつけ回していたのであった。伯父はウエイターの魔の手から、姪を護ろうとしていたのである」
ほー。なかなか、すごい展開だわ。才能あるよ、荒木くん。
「こうして事件は解決し、光子は伯父に感謝したのであった」
と、あらすじを書いたとたん。
皮膚のパッチワークが、キラキラ輝きながら、光の虹虫になって舞い上がり、夜の闇のなかへと消えていった。
「構成がうまいわね。はじめての推理ライノベとしては、将来が期待できる話だったわ」
耀狐がそう褒めると、荒木は少し照れたように、
「なにしろおれは初心者だからさ、シャーロック・ホームズ風にしてみたんだ。あらすじでも、結末が作れてよかったよ」
「ほんとは小説にした方がいいのよ?」
耀狐は、叱りつけるように言った。
「怪物の力を削ぐには、それが一番の近道なんだから」
「たった三〇分じゃ、無理だよ。夜明けまでに怪物を片付けないと、来園者が危ないしね」
荒木は、痛そうに肩をさすった。
耀狐は、荒木を見つめている。
荒木。
未完の小説を、完成させられる実力を持っている。
悲惨な結末を、虹に変えてしまう。
やはり、その才能は素晴らしい。
「で、つぎは?」
荒木は、両手をすりあわせた。
「手の指を首飾りにした話の続きよ」
地面に転がっているその物体。
無残な骨と皮になり、血みどろになっている。それを示して、耀狐はかすれた声になるのを感じた。
たしかに、荒木には才能がある。だが、この猟奇的な犯罪には、結末がつけられないだろう。そうなったら、あいつの力は増大し、この世界は闇へと突き進んでしまう。
荒木に、それを変える力があるのか。
ある、と信じたい。
この気持ちが恋ならば、神の使いが恋するにふさわしい実力が、荒木にあると願いたい。
「うーん、なんというか、ひどいことを考えつく人間って、いるんだな」
荒木は、OKサインのように丸くなった指と手首をぶらんと右手から垂らし、したたり落ちる血を見てゲッと叫んだ。手首の首飾りを放り出して、あわててポケットからティッシュを取り出し、丁寧に指をぬぐう。
「やっぱり犯人は、殺人鬼なんだな」
「ていうか、そこまで話が行ってないのよね。作家が飽きちゃったらしくって。だから怪物が現れて、キャラクターを喰っちゃったのよ」
「無責任だなぁ!」
荒木は舌打ちすると、再びスマホを取り出した。ファイルにあらすじを書く。
「石田秋子は、復讐に燃えていた。あたしの恋人を奪った野本に、思い知らせてやる」
と、荒木ははじめる。耀狐は目をパチパチした。一気にドロドロの愛憎劇を書くつもりらしい。夢見がちなファンタジーばかり書いてきた荒木に、そんな芸当ができるのだろうか。
「たしかに秋子は、飽きっぽい。ひとりの男に縛られるのはいやだ。そう、捨てるならともかく、捨てられるなどもってのほかなのである。野本め。めがねのニキビブスめ。あたしの恋人を返して欲しい! 秋子は、学校で野本を見かけると、トイレに彼女を追い詰めて、自分の要求を突きつけた。だが、野本は、おどおどとするばかりだった。あんなふぬけに彼氏を取られたのかと思うと、秋子はなおさら激しい憎しみを感じるのであった」
なんてこと。さっきとまるで違う人が書いてるみたい。耀狐は、あきれてスマホの画面をのぞき見している。よくもまあ、これだけのことを思いつけるものだ。一人前になりたい、というのは本気だったのだわ、と耀狐は胸が熱くなってきた。かなえてあげたい、この願い。
荒木は、推理小説のあらすじを読みあげた。
「秋子は、野本を近くの山で殺した。出刃包丁で手首を切り取り、首飾りにすると、その首飾りをつけて彼氏に会いに行った。彼氏に、自分の勝利を宣言するためである。ところが彼氏はその行動に驚き、警察を呼んだ。秋子は逃走した。手首の首飾りは、その逃亡の日々のあいだ秋子に悪夢を送り続けた。その悪夢で、秋子はいつも、野本に恨み言を言われるのである。睡眠不足になり、やけっぱちになった秋子は、崖から身を投げて死んでしまった。手首の首飾りは、近くの寺に奉納され、慰霊されているという」
結末ができたとたん、虹虫が光り輝いて、首飾りの周りを取り囲む。光が交差した後は、何も残っていなかった。
ずしん。ずしん。
なにか、物音がする。
耀狐は、耳をそば立てた。
あいつだ。あいつがやってきた。
自分の力を削ぐ人間を、排除するために。
荒木は、あいつの甘言に、惑わされることはないだろうか。
一抹の不安。 それが、雨を呼ぶ黒い雲のように、むくむくと膨らんでくる。
なにしろ荒木にとって、ストーリーの続きを考えるのは、骨の折れる仕事だった。
しかし耀狐は、お話に夢中になり、続きを楽しみにするあまり、本にのめり込んで現実を忘れるひとがいる。だからこそ、殺人事件が勃発したのだ。途中で投げ出されたキャラクターたちの、うめきと悲しみが殺人鬼を呼び寄せたのだと説明した。それを聞くと荒木は、あることに気づいた。
「すまない」
荒木は、耀狐に深く頭を下げていた。「殺人鬼を追い詰めることは、おれにはできそうにない」
「なによいまさら。臆病風にふかれたわけ?」
耀狐は落胆したが、荒木は手を振って答えた。
「そうじゃないんだ。自分の身勝手さが、今になって身に応えてきてね」
「あんたそれでも作家志望なの?」
耀狐は、突き飛ばすように言った。「夢に向かうだけの才能が、あんたにはあるのよ? これまで結末がなかった小説の、すべてに答えを出したじゃないの!」
「答えを出すだけが、小説じゃない」
荒木がそう反論したとき、体長二メートルはあるタランチュラが、檻の影から現れて、ふたりのいる動物園の入口に向かってのし歩いているのが見えた。
「―――殺人鬼だわ! 倒さなきゃ!」
耀狐は、はじかれたように立ち上がった。
荒木は、耀狐の鼻のとんがった横顔を見つめた。倒さなきゃだって? しかしこの殺人鬼は、気まぐれな作家に裏切られた読者の、ウラミツラミがたっぷりこもっているのだ。倒すことができるとも思えない。
「殺人鬼には、悪意はない。かなえられなかった夢を、裏切られた希望を、こういう形でしか表現できない。それが、この化物。あんたは、そう説明したはずだ。それなのに、こいつと戦えというのか」
抗議された耀狐は、真正面からこちらを振り返った。
「だからよ。だからこそ、こいつと戦わなくちゃ。弱い自分を乗り越えるのよ」
「おれにはとうてい無理だ」
荒木は、助けを求めるように辺りを見回した。もちろん、タランチュラに喰われたくはない。しかし、ヤツを倒す気分にはなれない。あれは自分自身なのだ。
どうしたらいいのかわからない。
おろおろしているかれを見守るように、耀狐は目がきらりと光った。
「ひとには決断しなければならないときが来る」
そういうと、彼女はケーン、と鳴いてタランチュラに向かって飛びかかっていった。
荒木は、思わず目を閉じた。
「神さま、助けて」
かれは、生まれて初めて真剣に祈った。
こんな形で、物語を終わらせたくない。
荒木が目を閉じている間に、耀狐はタランチュラにむしゃぶりついた。タランチュラが頭をもたげる。すさまじい声で咆哮した。
がっぷりと、耀狐はタランチュラに組み付いた。毛むくじゃらの黒い脚が、耀狐の肩をわしづかみにする。ぬめぬめした涎が、耀狐の頭上を落ちてくる。力が強すぎる。巨大な象か、はたまた大きな城のようである。こっちはライオンか、大砲ぐらいがいいところだろう。涎でべとべとになって、耀狐は前のめりにすべった。ずどん、と地鳴りがひびいて、背中が悲鳴を上げた。痛い。重い。息が苦しい。このままじゃ、死んでしまう。
薄目を開けて見てみると、荒木が真っ青な顔で、耀狐とタランチュラを見つめている。
「わしに従え……」
地獄の底から聞こえてくるような声が、タランチュラの口から聞こえてきた。
「もっとラクに、創作させてやる……」
びくびくしていた荒木は、心臓が胃のところまですとんと落ちてくるような気分になった。話を作るたびに襲ってくるスランプ。ちっとも文字が埋まらない原稿。それが、もっとラクに創作できるようになる? ほんとうだろうか。
「本当だとも……」
荒木は驚いた。心を読んだのか? 驚いて目を見開くと、いつの間にかタランチュラは、耀狐を足元に敷いていた。耀狐は、置物になったみたいに動かない。動けない。
「創作がラクにできるぞ……。たったひとつ、わしに貢ぎ物をささげれば……」
上に乗ったタランチュラをふりほどこうとあがく耀狐。しかし、身体中に蜘蛛の巣がかかっていて、動くに動けない。
「ダメよ! 耳を貸しちゃダメ!」
かすれた声の耀狐。タランチュラは、猫なで声でささやき続けた。
「才能を無駄にするんじゃない。わしに貢ぎ物をするのだ……魂をよこせ……」
「くだらねえ」荒木は、耳を塞ごうとしたが、結局聞くことになった。
「わしのこのありさまを見ろ。わしは、作家志望のおまえの肥やしとなりつづけてきた。もう充分だ。わしはおまえのエネルギーを使って、五分後にはインターネットでおまえの小説を世界にひろめることができる。それからおまえはテレビやラジオに引っ張りだこだ―――
おそるべき小説の魔の力が何年も続き、おまえの名声は全地にあまねき、世界の果てにまで及ぶことだろう。やがておまえは数々の賞をほしいままにする。おまえは一生しあわせになる。もっとも辛辣な親友の中島に、目にものみせてやれるのだ」
「―――嘘よ!」
耀狐は、突然叫んだ。だが、タランチュラが踏みつけたので、むぎゅっと息が詰まった。
邪悪な八つの黒い目が、小さく瞬いているのが見えた。
「かわいそうな荒木よ。耀狐のどれいになりさがりおって。おまえがひとたび魂を差し出せば、こいつになにができようか」
耀狐は、浅い息のなかで、助けを求めるように荒木を見つめている。
「おれは―――、おれは、魂が存在するかどうかなんてどうでもいい」
荒木は、からからに乾いた声で答えた。
「だけど、ひとつだけわかってることがある」
「なんだ?」
にたり。タランチュラが笑っている気がする。荒木は、ごくりとつばを飲み込んだ。耀狐の目が、異様にかがやいている。そうだ。おれには使命がある。約束したことがあるんだ。
「あんたはできそこないの殺人鬼のくせに、急におれの名声を気にするのはどういうわけだ? 未完の物語にエンドマークをつけることを、なぜじゃまするんだ? いったい、なにを企んでいるんだ?」
言うなり、かれは、耀狐を抑えつけて不安定な位置にいたタランチュラに体当たりした。あっと声をあげて、タランチュラは耀狐から身を離す。かれは、耀狐の蜘蛛の巣をはぎ取った。
みるみる、力がわいてきた。誘惑に負けない荒木の強さが、耀狐の力になったのだ。神通力が、身体全体を稲妻のように駆けめぐる。同時に耀狐は立ち上がり、タランチュラの脚に噛みついた。ギャッとタランチュラがさけぶ。耀狐はタランチュラの脚を、骨がみえるまで食いついた。
「やめろ、離せ!」
タランチュラは暴れた。
「いまよ! この話の結末をつけなさい!!」
その声に、ゾウの柵のそばに立った荒木は両手を合わせて念じた。「おまえの無念は、かならずこのおれが晴らす! だからおとなしく、物語の世界へ帰ってくれ!」
じゅうっと火が燃え上がった。タランチュラの脚は、燃え始めていた。皮膚はめくれ、紙のように焼け焦げた。
「やめろ、やめろぉぉぉぉ!」
荒木は、おののきながら見守っていた。耀狐は、燃えさかるタランチュラを背中の上に持ち上げた。明るい炎と影になった狐、その陰影が、まるでアフリカの野営のようだった。
すさまじい叫び声が、耳をつんざいた。動物園の動物たちが、目を覚まして騒ぎ始める。飼育員がやってくるのも、時間の問題だろう。
「おわった……」
荒木はつぶやいた。絶叫が途絶えた。
―――こうしてタランチュラは、消えていった。
「つまり、こういうことなのよ」
夜が明けてきた動物園から出ると、耀狐は真っ白なしっぽを振りながら説明し始めている。
「物語を作るには、魂にそういう力がないといけないの。一種の魔力っていうのかな。だから作家志望のひとたちが試作した作品にも、ちゃんとその魔力が残ってる。タランチュラは、その力のゴミ捨て場ってところかしら。それが意志をもちはじめ、あなたの魂を奪ってからだを乗っ取り、小説を使ってこの世界を闇に閉ざそうとしていた」
「―――恐ろしい話だな」
「コツコツと積み重ね、努力する事ができないひと、目標に向かって誠実に挑戦し、持続する意志を持たないひと、そしてその成果を、出す事が出来ないひと。そんなひとたちが、あのタランチュラを生み出したのよ。あなたはどんな作家になりたいの?」
ベテラン作家のような耀狐の台詞を聞いて、荒木は、ものが言えなかった。涙が出てきて、作家になりたいというのぞみをすっかりあきらめたからだった。ところで耀狐はまた口を開いた。力づけるようにして、こう言ったのである。
「あきらめることないわ、荒木くん。タランチュラは、あなたが決着をつけたのよ。たくさんの作品に結末をつけて、スキルをつけたあなたには、りっぱな作家になるよろこびが待ってる」
「でも、タランチュラは? すっかり消えてしまったのか?」
耀狐は、頭を振った。
「作家志望のひとたちが、半端な作品を書き続ける限り、また生まれるでしょうね。でも、あなたがそれに結末を付ける必要は、もうないの。その責任は、じゅうぶん果たしたものね。だからあなたはきっと、長い間読み継がれる、そんな作家になれるわ」
信じられない思いで荒木は、太陽の光が差してきた耀狐を見つめた。耀狐は、自信たっぷりである。
「さあ、帰りましょう。あたしのお話に、結末を付けるのよ」
きらきらと、太陽の光に照らされて、耀狐がきらめいている。
「決着をつけるって、おまえ、ほとんど役に立ってなかったじゃないか。いったい、なにがしたかったんだ?」
荒木が言うと、耀狐は微笑して言った。
「わかんない」
「ダメ狐め」
そのとき、背後から声がした。
「動くな」