第一章
第一章
『ワルキューレの騎行』が、コンポーネントから鳴っている。
荒木 穣は、パソコンに打ち込むキーボードのキー操作が、思いっきり乗ってくるのを感じた。
書いているのは、アクションシーンだ。
文字通り、『地獄の黙示録』的な場面で、このBGMはぴったりである。
「うーん、今日は五枚も書けたなぁ! 調子いいぞぉ!」
と言っても、相変わらず左肩は痛い。無理をするなと言われている。そろそろ、休憩でもするか。
半年前。白狐を救おうとして怪我をした荒木を見て改心した村人たちは、荒木を救急病院に担ぎ込んだ。荒木は警察と医者にたっぷり質問され、犯人でもないのにあれこれ聞かれてしまい、正直うんざりしていた。
しばらく養生しろと言われて半年。もう一人前なんだから干渉するなと文句を言ったかれであるが、母親からはガミガミ言われ、父親からはあきれられ、もう作家のネタのために仕事をするのはやめろとまで言われた。
けれど、肩が治るまでの間、荒木 穣は創作の禁断症状に苦しめられていた。かれにとって、創作することは、生きることと同義なのである。
現在大西は、傷害罪で警察から追跡されている。どんなにうまく隠れていても、きっと見つかって、犯した罪を償ってくれるだろう。お狐さまを殺そうなんて、そんなひどいことをよく思いつけるものだ。
荒木は二十三歳だが、定職にはついていなかった。もちろんいまは売り手市場、えり好みさえしなければ、仕事はいくらでもある。特に配送業や工場、道路工事現場などでは、かれのような若手を欲している。だが、荒木は高校時代にサッカーで足を痛めて以来、肉体労働は避けていた。今回のことで、足だけでなく、肩まで痛めてしまった。作家としては、不利かもしれない。
小説のネタになるかとはじめた仕事だったが、あんな目に遭ってしまった。大西をたおした衝撃で、発射された弾がそれて、肩をかすっただけだったのは、不幸中の幸いであった。
「弾をまともに食らっていたら、半年で怪我がなおるなんてあり得ませんよ」
医師は、怒ったように説教をかました。
「危険なことは、もうやめてくださいね」
仕方がないので、動物園までバスで通っている。ちょうど、二キロほど南に行ったところに、レッサーパンダと白狐で有名な動物園がある。自分がこの狐を救ったのだ、と思うと誇らしくて、毎日のように通い、
「どうか作家として一人前にさせてください」
と祈っている。
幼少期に、神社の神主にかわいがられてきたかれにとっては、神さまを敬うのはごく当然のことであった。父の仕事の都合でここに引っ越してきたわけだが、神さまを敬う気持ちには変わりはない。
卵焼きができそうな真夏の日ざしが、リビングで燃えている。
両親は仕事だ。母は介護の世話役をしているし、父はサラリーマン。定職につかないかれを心配して、普段からなにかとうるさい。
夢を追いかけて、なにが悪い。
休憩が終わったら、ネタのためにまた動物園に行こう。
うーん、と伸びをしすると、肩がずきりと痛んだ。リビングから台所へ行く。冷蔵庫のなかの麦茶に手を伸ばしたとき、インターホンがピンポンと鳴った。
のぞき窓から見ると、親友の中島 清が立っている。手に果物を持っていた。ありがちな見舞い品だ。もう退院したのにと思いながら、荒木はドアを開けた。
「おまえ、キーウィは嫌いだっけ?」
「それが?」
「この籠にたっぷり入ってるから、楽しみにしてくれ」
「おまえ、見舞いに来てくれたのか、いじめに来てくれたのか?」
軽口をかわしながら、中に入れてやる。中島は、黒縁めがねの銀行営業マンである。ふだんから、荒木の創作に文句を言うのを生きがいにしている。
「こんどは、どんな作品にするつもりなんだ?」
リビングにあがると、中島は勝手知ったる他人の家、台所へ直行してキーウィを剥き始める。やめとけ。
「そうだなぁ、白狐を主人公にしようと思ってる」
あいまいに答える荒木。
「途中でもいいから見せろよ。突っ込みがいがあるからな」
ニヤニヤ笑いながら、中島はそう言った。
底意地が悪いわけではなく、単に小説が大好きで、だから瑕疵を見つけると黙っていられない性格なのである。いい意味で、誠実な読者なのだった。それに、荒木にはほかにふさわしい読者はいない。厳しい批評でも、耐えなければならないのだ。言ってくれるだけマシである。一読してつまらなかったら、買ってもらえないのがプロの世界だ。
「そりゃそうと、肩の具合はどうなんだ?」 話の順番が違うのだが、中島にとってはそれが普通である。あくまでも、マイペースなヤツだった。
「すっかり青白くなりやがって。ちゃんと好き嫌いなく食べてるのかよ」
皿いっぱいのキーウィが出てきた。荒木は顔をゆがめた。
「なんでもよく噛んで食べてるよ、キーウィ以外は」
「今度、『緑色のビール』ってヤツを飲ませてやる。緑茶とキーウィが入ってるんだ」
「キショイ」
おおげさに身を震わせてみせる荒木。
中島は、笑い出した。
「その様子だと、肩はずいぶんいいんだな」
「おかげさんでね」
「大西のくそったれが、どこへ逃げたんだろうな。もとが猟師だし、鉄砲も持ってるから、葦山でウサギとか獲って食いつないでいるかもしれないな」
荒木は、疼く肩をすくめて言った。
「あんなの、どうってことないさ。お狐さまが殺されなければ」
「おまえも変わってるよな。狐ごときで怪我をするとは。長年つきあってきたが、いままでで一番みょうな友だちだ」
「類は友を呼ぶっていうからな、おまえも同類だ」
「朱に交われば赤くなるっていうからな、もとは真っ白だったんだよ」
「よく言うよ」
嫌そうにキーウィを口に運ぶ荒木を眺めながら、中島は真顔で言った。
「しかし、マジな話、新城動物園には、近づかないほうがいいかもしれん」
少し気圧されて、荒木はキーウィをゴクリと飲み込んだ。酸っぱい。同じ酸っぱさなら、レモンのほうがずっと好きだ。だいいち、つぶつぶがレモンにはない。急いで飲み下して、
「なんでだ?」
「営業で仕入れてきたんだが、あそこで、みょうな噂が立ってるんだ。死体を発見したと報告があったのに、警官がかけつけるとなくなってたとか、血が道に流れていたのに、しばらくすると消えていたとか」
「―――ガキのいたずらじゃねーの? ほら、ちょうど夏休みだし」
「そんな進学や就職に不利になるようなマネを、ガキどもがするかね。俺たちがガキだった頃だって、学校での素行について、親からたたき込まれて育ってるじゃん」
それもそうか。だとすると、だれの仕業だろう。
「ヤクザって線もあり得る。動物園には、行くんじゃない」
中島はそう言って、しばらく雑談して帰って行った。
新城動物園で、何かが起こっている。
何が起こっているにせよ、警察がのりだしているのなら、荒木 穣の出る幕ではない。不思議なことが起こっていても、被害届が出たわけでもないらしい。ニュース枯れぎみのマスコミも、この件を放置しているところを見ると、たいしたことじゃ、ないのだろう。
だからこそ、絶好のチャンスではないか?
荒木は、好奇心をかき立てられた。現場に行けば、なにかネタになることが転がっているかもしれない。それがなくても、白狐にお参りができる。お百度参りじゃないけれど、毎日続けてお参りすると、いいことがあるとかれは信じていた。もちろん、堂々とそんなことは言わない。特に、中島の前では、言うわけがない。いい年をしてと笑われるのがオチだからだ。
それに、自分がそんな、無邪気なことをいうのが、なんとなく気恥ずかしい。ファンタジー作家を目指していると言っても、現実は知っているのだ。荒木はもう二十三歳。大人としてふるまわなくてはならない。白狐にお参りすると願いが叶うなんて、プリミティブなことを、公言するのは憚れる。
でも、動物園には、行くんだけど。
荒木は、動物園でネタをゲットするために、手帳とペンとおサイフをGパンのポケットに入れた。
それからマンションの部屋に鍵をかけ、玄関へと向かっていった。
マンションの近くはJRの駅があり、ロータリーには寂れた商店街。魚屋、居酒屋、喫茶店、なぜか自転車屋まで入っていた。駅前からバスに乗って二駅ぐらいで動物園前に着く。中島は、すでに営業回りに戻ったのだろう、姿は見当たらなかった。
ジジジと油を焼くようなセミの声を聞きながら、いそいでバスの停留所に駆け込む荒木。ロータリーから停留所までの太陽の光が殺人的だ。
「おや、荒木さんじゃないっすか。行き先は動物園っすか? てことはあなたも同人誌の交流会?」
バスを待つ荒木に声をかけてきたのは、三枝であった。人の良さそうな笑顔をこちらに向け、ふくふくと笑っている。
「ええっ。同人誌?」
初耳だったので、荒木は三枝を検分した。猟師だと思っていたが、意外とものを書ける人だったのか? 三枝も、びっくりしている様子だ。
「いやー、あなたが文章を書くとはねぇ」
「それはぼくの言うことですよ。三枝さん。猟師だとばかり思ってました」
「わっしは、ごく最近参加したんっす。ほら、文章を書くとボケないっち言うっしょ。今回の交流会も、はじめてなんすよ」
「へー」
「同人誌の名前は『歯車』でして、娯楽系の小説を載せてるんすよ。推理小説とか、不倫小説とか」
おれの書ける傾向とは違うな、と荒木は思った。
「ぼくは、白狐に会いに行くんです」
ほくほく笑いかける三枝から目をそらして、荒木は、肩をすくめた。
バスはひたすら、動物園に向かっていった。