序章
できそこないの殺人事件 耀狐編
序章
走った。ただ、走った。捕まるわけにはいかないのだ。耀狐はまっしぐらに駆けていく。
四つの足のうらに、小さな石がいくつか突き刺さった。稲荷神社から、隠れ家になるであろう自然公園である葦山まであと少しだ。耀狐は小さく息を切らしながら、用心深くあたりをみまわした。
「うほっほほほほ!」
人間たちの、奇声があがっている。手に網や縄、ライフル銃を持っているものもいる。みんな飢えたような目で、耀狐を取り囲もうとしている。
「白い雌狐だ」
「動物園で保護しなければ」
なにが悲しゅうて神の使いが動物園などに保護されなければならないのか。不敬にもほどがある。神通力さえあるならば、こんなやつら、一網打尽にしてくれるものを。天から稲妻を落として、黒焦げにしてやるものを!
今日は朝からかんかん照りで、この近くには、逃げ隠れできるような木々も残っていない。少子高齢化のため、万代村を開発するという名目で、この辺の木は切り出されてしまった。人間たちの魔の手は、どんどん近づいている。
耀狐は、犬歯を見せて脅して見せた。もう少し力があれば、人間の言葉をしゃべって度肝をぬいてやれたのだが、出てきたのは動物そっくりの、シュウシュウいう声ばかりである。
「よーし、いい子だ、いい子だ。きみに危害を加えるつもりはないんだよぉ。ちゃんと、暖かい食事とふかふかのベッドを用意するからねえ」
ひょろひょろした青年の声に、耀狐は、フーッと毛を逆立てたが、腹はぐうっと鳴った。
蒸し暑い七月の葦山で、上空を照らす太陽が、黒い雲から急にのぞいた。光り輝く毛並みが太陽を反射し、人間たちはおおっとどよめいた。
「なんと美しい。よその連中に毛皮を取られてはまずい」
と、そばの無骨な中年が言った。その顔は、浅黒くてイノシシみたいである。
「大西さん、ともかく、この狐を捕まえましょう」
青年は、手を差し伸べた。
耀狐は、フーッと歯を見せた。と、同時に、ばさっとなにかが被さってきた。
ぎりぎりとしめつけるその物体は、網であった。耀狐は暴れた。
「ご協力ありがとう、荒木くん」
中年がそう言うと、いきなりライフル銃を耀狐に突きつけた。
「これで、カネが、がっっぽりだ」
耀狐の前で彼女をなだめていたリーダー格の青年は、驚いて目をしばたかせた。
「な、なんのつもりだ? おれはカネなど持ってないぞ」
「おまえじゃない、その狐の毛皮をこっちによこすだけでいいんだ。業者とも話はついている」
荒木は、愕然として口をぱっくり開けた。
「じゃ、いいバイトがあるっていうのは、そういうことだったのか!」
「いまごろ気づいたのか、バカだなぁ。いまどき、動物園のために働くようなお人好しなんか、いるわけないだろ」
相手は、カチリとライフル銃の撃鉄をあげた。
「一緒に行動すればいい獲物が見つかると思ってた。その狐を殺して毛皮を売って、こいつらに分け前をやらにゃならん。そこをどけ」
「いやだ」
荒木は、鼻息荒く大西の前に立ちふさがった。
「大西さん。こいつを殺すなら、おれをたおしてからにしてください」
「おいおい、本気かよ。たかが狐一匹じゃねーか。なに血迷ってるんだ?」
くっくっく、と相手が笑う。背後の男たちも、いやな笑い方をした。荒木はざっと人数を数えた。五対一。ちょっとばかり、分が悪い。
大西は、余裕たっぷりの態度で言った。
「いいから、そこをどけ。見逃してくれたら、あとで分け前をくれてやる」
「いやだ」
荒木は、燃えるような目でにらみ返した。
「この狐は、神の使いなんだ。神社をよそにうつすあいだ、動物園で保護しなきゃいけないんだ」
荒木は、いきなり男に飛びかかった。
銃声が響き渡った。
硝煙のにおいが漂うと、荒木は肩を抑えて地面にうずくまっていた。
「く……、なんて無茶なヤツなんだ」
大西は、あきれたようにそう言った。
じわーっと肩のところから血が広がり、みるみる荒木のTシャツは上半身が血だらけになってしまった。
それを見て、子分の一人が大西にささやいた。
「大西さん、ヤバいっすよ。狐いっぴきで前科者になんか、なりたくないっすからね!」
「このくらいの危険は、折り込みずみだろうが! 目の前に、ひとり四十万が転がってるんだぞ」
イノシシのような大西の顔が、みにくくゆがむ。
「たかが四十万っしょ!」
子分のひとり、三枝は、ほかの子分たちを振り返った。
「ひとを傷つけるほど、困っちゃいねえ」
そう言い捨てる。
「みんなぁも、もうやめようやぁ。人を殺したら、殺人だぁ」
それを聞いた周囲は、ばらばらとライフル銃を捨てた。三枝は、荒木に近づくと、
「大丈夫かぁ? ひでえ目にあったなや。早く山を下りましょうや」
と、肩を貸してくれたり、話しかけたりする。周りは、すべて荒木の周囲を、護るように取り囲んだ。
「この、裏切り者めぇ」
大西は吐き捨てると、くるりと背を向けた。
「出直してくる。今度その狐を見かけたら、二百万はすべてオレのものだ。後悔するなよ」
それだけ言って、藪の向こうへ消えてしまった。
「この……罰あたりめ……」
三枝に支えられ、膝をついて、うわごとのように繰り返している荒木。
耀狐は、ルビーの瞳をきらめかせた。
信仰心。神通力の源だ。
だが、圧倒的に、量が足りない。稲妻も、変身も、普段あやつれるはずの人語さえ、この量じゃ、難しい。
仕方ない。動物園で保護されよう。そのうち、量が増えてくることもあるかもしれない。耀狐が思っている間に、荒木は左肩を押さえて気絶していた。たぶん、痛みと緊張が極限まで行ったのだろう。
荒木に感謝のまなざしを向けながら、耀狐は山のふもとへ降りていった大西に、思いを馳せた。
二百万。大金だ。このまま、黙って引っ込んでいるような彼ではないだろう。動物園で保護されるのは、最良の策とは言えないかもしれない。
しかし、人間たちがおこなっている工事のために、神社を失ってしまった彼女には、ほかに信仰心を集める場所のこころあたりが、まったくなかった。葦山は動物の避難所だ。神社が建つ見込みはない。
じゅうぶん力が戻ったなら、荒木には、特別の加護を与えよう。
耀狐はひそかに決意した。
しかし耀狐は知らなかった。
この事件が、後に起きるとんでもない事件の、発端でしかなかったことを―――!