ハピネス
教室に入ると、私に向けた好奇の目が突き刺さった。嘲笑、侮蔑、その他の薄汚れた視線。それらを、チラチラと横目に、机に腰掛けてゲラゲラと笑う声が、私に向けて放たれる。
私にとって教室とは、恐怖と嫌悪の温床だ。心地よい朝日と、爽やかな挨拶。そんな安楽な朝など、ここには微塵も存在しない。あるのは、汚れきった空気と、卑しい声音だけだ。
目を伏せて、足早に自分の席へ向かう。早まった鼓動とともに、息が詰まるのが分かった。
無限にも思えるほどに遠い自分の席にたどり着く。しかし、そこにあるのは、私を貶めるためだけに机に書かれた、汚れた言葉だった。
いつもの事だ。このような「いじめ」が始まったのは、新学期が始まってすぐだった。クラスのグループができはじめ、カーストが如実にできあがってきた頃。女子を牛耳るグループが、どのグループにも属さなかった私を、八つ当たりの標的にしたのだ。
最初の頃は、少し無視をしたり、仲間外れにしたりする程度だった。しかし、私があまり反抗しないことをいいことに、彼女らの嫌がらせは、みるみるエスカレートしていったのだ。
油性ペンで机に描かれた彼女らの言霊は、今回だけで描かれた物ではない。消しても消してもきりがないので、ここ数回は放置しているのだ。
その甲斐あって、私の机に書かれた文字は、殆ど判別できなくなってくれていた。
私は席に着こうと、全体重を椅子に乗せる。
――その瞬間、腰に、鋭い電撃が走った。
慌ててお尻に手を当てると、手に生暖かい、ぬめりのある感触。私の椅子には、画鋲が仕込まれていたのだ。嫌悪と痛みに顔を歪める。
皮膚を突き破って、肉を引き裂いた金属を、思い切って引き抜く。太ももから背骨にかけて、鈍い痛みが駆け巡った。さすがに、少しだけ身じろぐ。そして傷口から、不快な感触が広がっていくのが分かった。
その始終を見ていた傍観者たちは、何にも気づかなかったかのように、おのおのの行動に移っていく。
これらを仕組んだ彼女らだけが、こちらを薄ら見て、高笑いをあげた。その表情には、一切の陰りも見られない。彼女らは、純粋に楽しんでいるようだった。
と、そこに担任が入ってくる。中年の、どこにでもいるような、無気力な先生。教卓に立った先生は、簡単な出席をとると、無難な挨拶をして、授業の準備を始めた。
もちろん、私の状況には気づいているだろう。こんなに真っ黒に汚れきった机に気づかない人などいない。しかし、それでも彼は私を気に留めることはなかった。
私は汚物と化した机に突っ伏して、授業が始まるのを待つ。
胃が収縮し、握りつぶされるかのような感覚。耳鳴りが劈き、心臓が跳ねまわり、気管が悲鳴をあげる。
辛くない。私は、ただ、恐れているだけなのだから。辛くないんだ。
しかし、私の祈りはどこにも届かない。一番恐れていることが、否が応でもやってくる。
「おい、お前。尻、痛そうじゃねえか。何があったんだ? ウチに言ってみろよ」
肩が、ビクリと跳ねる。しかし、ここで顔を上げるわけにはいかなかった。
「あぁ? ウチが、嫌われてるお前のために話しかけてあげてるってのに、とうのお前は、無視をしようってのか?」
無視、という言葉に、私は動揺した。彼女らと同列になってしまっていいのか、と。
私は、意を決して顔をあげた。
「……貴女に、仕掛けられた画鋲が、刺さって、出血、しました」
私は、冷静を装ってそう言った。しかし、唇は震え、血の気が引き、思うようには声が出せない。彼女を直視しようと見開いた目は、どうしようもなく泳いだ。
いつもなら彼女らに反逆するような事はしない。しかし、思わずボタンを掛け違えたかのように、無意識に彼女らに反抗していたのだ。
「おい、今なんて言った? ウチがその画鋲を仕掛けたとか言ったのか?」
彼女は鬼気迫る形相でこちらを睨み付ける。私は、蛇に睨まれた蛙のように萎縮する。しかし、彼女の目顔はすぐに薄気味悪い笑みに変わった。
「ハッ、そんなことあるわけないだろ。だって、ウチらは『友達』だもんな」
吐き捨てるようにそう言って嘲笑を浮かべる彼女は、視線をチラリと動かし、私の椅子を思い切り蹴り上げた。
――ガタン、と耳を劈く、大きな音。椅子が跳ね、机と衝突し、辺りを震わせた。
私は、ちょうどだるま落としのように取り残され、尻餅をつく。
抉るような痛みが走る。先の傷から、再び血がにじんだ。
彼女らの低俗な笑い声が頭に響く。ズキズキとした鈍痛に耐えながら、倒れた椅子を戻し、席に着いた。
もう、彼女らに盾突く勇気は、どこにも残ってはいなかった。私のささやかな反抗は、完膚無きまでに打ち砕かれたのである。
――それでも。私は負けない。私は折れない。自分に言い聞かせる。
……しかし、思考は止まらなかった。いつまで、このいじめが続くのだろう。私は、いつまでこのいじめに耐えればいいのだろう。
歯止めが利かなくなった思考をいったん真っ白にしようと首を振り、黒い机にノートを広げる。
しかし、この思惑は無駄に終わった。
……机上に広げられた私のノートには、見開きに、
――死ね――
……それだけが書いてあった。
*****
それから、彼女らが話しかけてくることはなかった。そして放課後まで、私は汚れきった教室の空気から耐え抜いたのだ。
私は授業が終わってすぐに席を立つ。そして、彼女らが話しかけてくる前に教室から飛び出した。
跳ねるように階段を駆け上がる。息が上がるが、その息苦しささえ心地よい。
教室は三階。すぐに最上階までたどり着く。階段を上りきると、劣化して毛羽立ったプラスチックのチェーンが行く手を阻む。私は躊躇いなくそのチェーンをくぐり、錆び付いたドアノブに手を掛けた。
鮮烈な外の空気は、私を淀みから解放してくれた。曇天とはいえ、目に日の光が焼き付く。一歩、また一歩と足を踏み出すたびに、心の陰りが祓われていくようだった。
……何故、屋上に来たのかは分からない。何かに追い立てられるように、気がついたら屋上に向かっていたのだ。
――自殺――
その言葉が脳裏に浮かび、すぐさま打ち消した。
私が、自殺?
……そんなことは、断じて無い。だって、自殺をする理由が、どこにも無いじゃないか。
思考を振り払い、歩みを進める。薄暮の中、どんよりとした雲が、めくるめくように揺れ動く。扉を開いたときのような爽快感は、もうどこにもなかった。
新鮮な空気を求めるように、立ち並ぶ室外機の隙間を抜け、ついに視界が開けたその瞬間。
――私は、歩みを止めた。目の前には、一人の少女。柵のない屋上の縁に立ち、足下には黒猫のワンポイントが付いたスニーカーが整然と揃えられている。制服の色を見る限り、同級生だった。
「ちょ、ちょっと! 何をしようとしているの!」
私はそう叫ぶ。彼女が何をしようとしているのか、それが、私には分かってしまったから。
彼女は私に気づき、徐に振り返る。その表情は、痛ましいほど悲痛に歪められていた。
同級生のはずなのに、初めて見る少女だった。
しかし、私と彼女は、他人とは思えなかった。彼女は何者か。彼女は誰か。それは、私にだけははっきりと分かった。分かってしまったのだ。
――止めなければならない。
私は、焦燥に突き動かされた。なんとしてでも彼女の自殺を、私自身で止めなければならないのだと。
私はゆっくりと近づく。哀愁を纏い、無言で私を見つめる彼女の瞳からは、涙が止めどなく溢れていた。
私は手を伸ばす。できるだけ、暖かい笑みを浮かべて。優しい笑顔を浮かべて。
「わたしは、どうすればいいの?」
彼女は小さく呟く。一歩を踏み出し、その瞬間に消えてしまう。そんな彼女の姿が脳裏に浮かんだ。
私は消え入りそうな彼女に、同情していたのかもしれない。私にそんな権利はどこにもないはずなのに。
「私の手を取ればいいのよ。さあ、早く」
その無責任な自分の言動に嫌気がさした。
「なんでわたしを止めようとするの?」
彼女はそう言って、私の手を振り払う。
……それでも私は彼女を止めなければならないのだ。
「私が生きているのに、あなたが自殺するのは、到底許せないから」
……私の口からは、そんな言葉が放たれていた。
彼女に、驚きの表情が浮かぶ。その瞬間、私は彼女の手を取り、こちらに引き寄せていた。
「それは、なんて言うか、その……、とても利己的な理由ね」
彼女はそう言って笑った。優しく、暖かい、懇篤な笑顔。
私もつられて破顔した。最初に手を伸ばしたときの引きつった笑みとは反対の、本当の意味での笑顔。
私と彼女は一笑を共有した。その共有は、私たちにとって、「特別なこと」だった。
そして、室外機を背に腰掛け、語り合う。
「それで、何で自殺なんかしようとしていたの?」
私はできるだけ角が立たないような声音で尋ねた。私の思いがけない一言で自殺をやめたところを考えると、彼女の心のどこかにも生きる希望があるはずだ。
「わたし、学校でいじめられているの。毎日、毎日、いつまで続くかも分からないいじめに、もう、わたしは耐えられない」
――私と同じ。あまりにも似すぎたその境遇に、この邂逅は必然だったのだと思わざるを得なかった。
たまたま私が屋上に来た日に、たまたま彼女もいて。そして……
彼女は目を伏せたまま続ける。
「そんな先が見えない恐怖を、苦痛を、もう味わいたくはない!」
――だから、死にたいの。
真摯に私に向けられた彼女の瞳が、そう伝えていた。
私は少しだけ勘違いをしていた。もう、彼女の自殺を止められたのだと思っていたが、決してそんなことはなかった。ただ、彼女の自殺を中断させることができただけ。まだ、彼女が自殺するという運命を変えることなどできてはいなかったのだ。
……ふと、私をいじめる彼女らの醜悪な顔が思い浮かぶ。きっと、彼女らが私をいじめる理由など無いのだろう。ただ、純粋に楽しんでいるだけ。彼女らにとって、私などただの玩具でしかない。別に、私でなくとも、誰でもよいのだ。
なら、私が彼女に言ってあげられる事は一つしか無い。
「『あなた自身』は何をしたの? いじめに対して、何か対抗した?」
彼女は少し目を赤くして言った。
「そりゃ、もちろんしたよ! いじめてくる人たちに反抗してみたり、他には……」
そこまで言って、彼女は押し黙ってしまう。私はたたみかけるように言葉を紡いだ。
「それだけ? あなたはそれしか自分で行動しなかったの? それなのに、自分を棚に上げて、自殺の理由を他人に押しつけて、『わたしが辛いから死にます』なんて、責任放棄も甚だしい!」
「じゃあ、どうすれば良かったっていうの!? 私は、精一杯反抗したよ! でも、彼女らには通じなかった」
「別に、あなただけで行動する必要は無いでしょ。担任の先生とか、誰かに頼ればいいじゃないの」
「担任の先生と言っても、あの人は……」
私は少しだけ声音を抑えた。
「担任じゃなくても、信頼できる人なら誰でもいいのよ。とりあえず誰かに相談してみなよ」
彼女はふっ、と顔を上げる。腫らした瞼を開き、私を見つめる。
私は、少しでも彼女の琴線に触れる言葉を言ってあげられたのかもしれない。今は、そう信じたかった。
「分かった。そうしてみる。今日のところはやめておくよ。それまで、わたしの逃避行はお預けね」
彼女は微笑んだ。瞼に、枯れた涙を溜めて。その表情はあまりに複雑で、暖かくも、憂いをはらんでいるようにも見えた。
私も微笑み返す。私だけでも純粋な微笑を浮かべられるように、精一杯努力をして。
ありがとう、の一言だけを残して、彼女は風のように去っていった。
私は空を仰ぐ。雲居は薄暗く、地には雨脚がどんよりと伸びていた。頬にポツポツと雫が弾けるのをよそに、私はしばらくの間、ただその場に立ちすくんでいることしかできなかった。
*****
それから二日が経った日の放課後。私はまた屋上に向かっていた。あのときと同じように、授業が終わってから、すぐさま教室から飛び出したのだ。しかし、一昨日とは違い、階段を上る足取りは重かった。
節々、その他体中が激しく疼く。一段、足を踏む出すたびに、骨の軋むような痛みが頭上に駆け抜ける。私は呻きを堪え、必死に階段を上っていった。
幾分か経過し、チェーンをくぐり、屋上にたどり着く。痛む足を庇いながらも、私は先を急いだ。
そして、彼女を見つけた。夕刻を背に、屋上の隅に佇む彼女。足下には、黒猫のワンポイントが付いたスニーカーが揃えられている。
彼女はまた自殺の縁に立っていたのだ。一歩踏み出せば空を切り、死に向かって落ちていく、不可塑の断頭台。
私はなんと声を掛ければ良いのか分からずに、ただその場に立ちすくんでいた。
しかしその逡巡は長くは続かなかった。私が声を掛けるよりも先に、彼女が私の存在に気づいたのだ。
振り返った彼女の顔は、目を背けたくなるほどに青く腫れ上がっていた。そして、痛々しく顔を歪ませる。その悲痛の表情は、どこか一昨日の別れ際の、あの複雑な表情を思わせた。
暫しの沈黙。彼女と私だけの世界が、曇天の元で揺れる。言葉のない会話が交わされるこの空間は、彼女のためにあるような気がしてならなかった。
その場を破ったのは、意外にも彼女の声だった。
「やっぱり、だめだった。どうにもならなかったんだよ、わたしは」
彼女のその言葉は、この状況が何よりも物語っていた。彼女の現実からの逃避行が止められなかったというこの事態が。
「ねえ、わたしに教えてよ。どうすれば良かったの? どうすればわたしは助かるの?」
私は、思わず吹き出した。
「……ちょっと、わたしは真剣に訊いているのよ! それを、あなたはなんで笑うの!」
「いや……。だって、自殺をしようとしている人が、どうやったら生きることができるのかを聞いているのよ?」
彼女も気づいたようで、少し顔を赤くする。
「まあ、とにかく。こっちで話しましょう。そんなところじゃ、話すことも話せないでしょ」
彼女は無言で頷く。そして、足を庇いながらゆっくりと室外機に腰掛けた。私もそのすぐ隣に座る。
「それで、何があったのよ。一昨日に別れたときには、そんなではなかったじゃない。……もしかして、その傷と、何か関係があるの?」
彼女は無言で頷く。そして、静かに話し始めた。
「あなたと話した次の日に、わたしが虐められていることを相談したの。もちろん、担任ではなくて、他のクラスの若い、やる気のある先生に。そしたらその先生、すごく心配してくれて、すぐに行動を起こしてくれたの。わたしをいじめてくる人たちを集めて、もうわたしをいじめない、わたしに今までのことを謝りなさい、って言って」
彼女は青く腫らした瞼を開いて、先を続ける。
「彼女らも最初は先生に反抗していたけど、面倒くさくなったのか、結局素直に言うことを聞いていたわ」
彼女はそこでため息をつき、自嘲気味に言った。
「わたしって馬鹿よね。そこで悦に入って、『許してあげる』なんて上から目線で言っちゃって。あの彼女らが先生に注意された程度で、わたしのいじめをやめるなんて、到底あり得ないのに」
「案の定、わたしが意気揚々と校門を出たところで、彼女らが待ち伏せていてね。『お前、先生にチクったよな。身の程を弁えろ』って言われて。そしてこれよ」
彼女は痛々しい痣を指さす。その痣は顔だけではなく、全身そこら中に青いシミを形作っていた。
「これでもか、というほど殴られて、蹴り飛ばされて、ついには踏みつけられて。わたしは地べたに這いつくばって必死に耐えるしかなかった。悪いのは彼女らだ、わたしは何も悪くない、ってね」
「でも、だからといって痛みも苦しみも消えたりはしないのよ。少しだって薄くなることすらもない。そして今日、学校に来て、いつも通りのいじめ。いや、むしろ激しくなったくらい。何も変わらなかった」
痣だらけの体を丸めて、彼女は続けた。
「あなたが言ってくれた打開策をやってみても、何も変わらなかった。変われなかったのよ! 私は……。学校に来て、苦しんで、その苦痛のまま家に帰って、そして無理矢理眠る。それが無際限に続くだけ。そんな人生なんて、そりゃあ逃げたくもなるよ」
彼女はまたため息をつく。そしてだんまりを決め込んでしまった。
私は、できるだけ穏やかに話しかける。
「そうね。でも、だからといって自殺をする理由にはならないと思うよ、私は。確かに逃げたくなるのも仕方が無いのかもしれない。だけど、逃げる方法が自殺だけではないんじゃないかな」
……私がそんなことを言える立場でないことは、自分が一番よく分かっている。それでも、私は彼女にそう言わざるを得なかった。彼女の自殺は、なんとしてでも私が止めなければならないから。彼女を止められるのは私しかいないから。たとえ、自分を嫌いになってでも。
「――そう、別に学校に行かなくたっていいのよ。学校が辛いなら、マイナスにしかならないのなら、行ってもしょうがないじゃない」
彼女の背中に手を回して後を続ける。
「明日から、学校を休みましょう」
「でも、学校を理由もなく休むなんて、悪いことなんじゃ……」
私は首を振った。
「理由ならあるじゃない。学校に行くのが辛い、っていうのは、十分正当な理由だと思うわよ。しかも、自分の命を擲つよりはよっぽど良い」
彼女は黙って頷いた。彼女の瞳に微かな灯りが揺らめく。
「分かった。明日は学校を休む」
「明日だけじゃなくても別にいいんじゃないかな。自分で学校に行きたいと思える日まで」
彼女は顔にほのかな喜色を浮かべる。
「ありがとう。一昨日には言えなかったから、その分も」
その微笑みをふわりと残して、彼女は去って行った。
私は感情を押しつぶし、帰路につく。
――私の瞼から零れた滴が、淡い夕日に煌めいた。
*****
翌日の放課後。私は屋上にいた。目線の先には、彼女がいる。屋上の縁に立ち、一歩踏み出せば空中の、危うい距離。足下には、長く伸びた影とともに、黒猫がワンポイントとして付いたスニーカーが整然と揃えられていた。
彼女はこちらを見つめる。憐憫をも辞して許さないような、強い意志が込められた瞳。
私も彼女を見つめる。彼女の自殺を止められなかった自己嫌悪と、自嘲に苛まれた、汚れた瞳。
「じゃあ、またね」
彼女の震えた声が私の耳に届く。反響し、私の脳を駆け巡る。その一言が、私は怖かった。何よりも恐れていた。
「待って!」
……そう叫ぼうとした私の唇は動かない。ただ、闇雲にパクパクと開閉を繰り返すだけだ。
――そして、彼女は飛んだ。
深紅の夕日に照らされた彼女のシルエットが、私の網膜に焼き付く。その私に残された残滓は、彼女の苦痛を、そのまま写し取ったようだった。
――私も虚ろな瞳で断頭台に立つ。
すで私の靴は揃えてある。――黒猫のワンポイントが付いたスニーカー。今、人生にけじめを付けるのだ。
直前になって、私は怖じ気づいてしまった。昨日より増えた痣をさすりながら、今日の朝を思い出す。
私の家庭は母子家庭だ。私が小さい頃に実の母が病気で亡くなり、小学生まで父一人に育てられた。そして、中学生になると同時に、今の母が母になった。つまり、父が再婚したのだ。中学生の時の母は優しかった。そんな母が変わったのは、私が高校に入るときの春休みだった。
――父が死んだのだ。不慮の事故だった。……いや、「私が殺した」と言ってもいいのかもしれない。車に轢かれそうになった私を庇って、父は道路に飛び出したのだ。
母が愛していたのは父だけだったのだろう。嘆き、私を恨んだ母は、ついにいわゆるセルフ・ネグレクトになった。
それから、私は家事の全てを一人でやっている。私の家に、あの優しかった父と母はいない。虚ろな目をして、萎びきった母がいるだけなのだ。
今朝私は、自分で朝食を作り、カビた壁の隅でうずくまる母の元に、作った朝食を持って行った。いつもなら、朝食を床に置き、うわ言を繰り返す母を放っておいて学校に行くのだが、今朝は母に伝えておかなければならないことがあった。
「あのね、お母さん。私、学校に行くのが辛くなっちゃった。私、学校に行くといじめられるの。だから、今日は学校を休むから」
母は反応しないだろう。私はそう思っていた。だって、私が毎日母のためにご飯を作ってあげているのに、一言も話してはくれないのだから。
しかし、私が母にそう言った瞬間、爆ぜるように立ち上がったかと思うと、私につかみかかった。
痩せこけた母の体のどこにそんな力があったのかと思うほどの怪力に、私はすぐ押し倒される。
「私が、こんなにも苦しんでいるのに、あなたは学校を休むなんて言い出すのね。それは、絶対に許せない。お父さんもそう思っているわよ」
ゼエゼエと息を切らし、私に馬乗りになった母の窪んだ眼窩に嵌め込まれたギョロリとした眼球が、私を舐るように睨む。私は必死に抵抗するが、押さえつけられ、バタバタともがくだけだ。
「そんな子には、お仕置きが必要ね……」
口は茫然と開かれ、涎が滴っていた。私は、恐怖で力が入らず、無駄な抵抗を続けていた。
そして、私は殴られ続けた。何度も、幾度も。頬を抉る痛みのたびに視界は歪み、頭は揺れ、骨が捻れた。
……気がつくと、母はいつものように部屋の隅に縮こまるように座っていた。母の拳には血が滲んでいる。
「学校に行きなさい。電話を掛けるから、行かなかったらすぐにバレるよ」
呻くような母の声。
……私は母に従って学校に行くしかなかった。
足下に風が抜ける。下を見ると、まっさらなグラウンドが広がっていた。――彼女は、どこにもいない。
彼女を止められなかった。私は、私の自殺を止められなかった。
……覚悟はできているはずなのに、瞼から冷たい涙が溢れる。
――死ぬのが怖いのか。……いいや、違う。
――この世に未練があるのか。……いいや、違う。
……きっと、幸せに死ねないのが嫌なのだろう。「彼女」を止めるために自分を嫌って、結局、止められなくて、残ったのはただの自己嫌悪。
誰が悪かったのだろうか。いじめた彼女ら? 母? いいや、結局私が全て悪かったのかもしれない。だって、死のうとしているのは私なのだから。私がいるから、私が死ぬのだ。
日は必ず昇る。そんな言葉を聞いたことがあるが、私はそうは思わない。だってそうだろう? 理由もなく、ただの玩具としていじめられ、誰かに助けを求めても、また無限の苦痛が待っている。それから逃げても、永遠に懊悩煩悶。そんな世界の、どこに日が昇るというのか。
――ふと、後ろに気配を感じる。
「ちょ、ちょっと! 何をしようとしているの!」
私は徐に振り返った。目に映るのは、自分の立場を弁えず、ただ闇雲に、無様に言葉を撒き散らす、自己満足の塊。
――ただただ、滑稽。
私はそう思った。そう、思えてしまったのだ。
ああ、私は未練なく死ねる。そして躊躇いなく一歩を踏み出した。「明日に向けて」とかそんな格好のつかない一歩を。踏み出した先に待っているのは明日ではなく、ただの暗い死、そのものだ。
私は空を飛ぶ。風を切る音が耳に響く。逆さまの視界に、朱に染まった夕空が映る。沈みゆく太陽に向けて明るさの増す階調が、私の心に沁みた。
私は目を閉じる。そして、前言を撤回しよう。こんなにも美しい夕焼けが最後に見られたのだから、私は最高に幸せだ。いじめた彼女らより、母より、私を見捨てた傍観者より、この世の誰よりも、私は幸せだ。
――「私」は幸せ、なんだ。