朽縄家の土曜日
扉が開く音に、ソファで雑誌を読んでいた女は顔を上げた。
リビングにやってきたのは眠たげに目を擦る少年であった。綺麗な肌をした童顔であり中学生か高校生かの判別は難しい。鶏でも乗っけたような酷い寝癖で、なで肩のせいかよれた寝間着は余った袖を垂らしている。いや、単純にサイズが大きいのだろう。足元の裾は引き摺られフローリングの埃を吸いつくしてしまっている。
「おはよー」
少年は間延びした声で、朝の挨拶をリビングにいる先客に投げる。時刻は午前5時。辺りは静かで、春とはいえ空気も少しばかり張り詰めている。
「おはよう。早いのね」
挨拶は返すものの、女は雑誌に目を落としたままである。
少年はのそのそと歩き、女の隣に座った。
「ねーちゃん、これなにー」
本当に開いているのかも怪しい薄目で辺りをキョロキョロと見回し、「これだ」と言わんばかりにニンマリと顔を綻ばせ傍にあったモノを引き寄せぎゅっと抱きしめたものの、違和感を覚えたのか疑問を呈する少年。
彼は幼少の頃からぬいぐるみの類が大好きで、すぐに抱きしめては中々離さないという癖があるのだが、最近ではぬいぐるみでなくともある程度の大きさであれば何でも抱き着いてしまうという悪癖と化している。成長につれてやがて消えるだろうという両親の考えはやがて希望的観測となり、今では願いとなっている。こないだは母方の祖父が背後から抱きしめられ骨の軋む音に悲鳴を上げたという。
「それパパ。ぬいぐるみじゃないんだから抱きしめるのやめなさい」
雑誌から目を離す事なく注意を促す姉と呼ばれた女は、二十歳前後と若い。化粧をせずともその美しさが分かる容貌をしており、なるほどよく見れば弟であろう少年もまた顔立ちは整っている。やや吊り上がった目は押しの強い印象を与え、綺麗な瞳は心の美しさを、鼻筋が通り、決して大きくはない高い鼻と口までの短い距離は美の原則とされるEラインをはっきりと浮かび上がらせ、陶器のような白い肌は艶やかで総じて誰もが美人と評するであろう人物がそこには座っていた。
読んでいる雑誌が女性向けファッション誌などではなく、トラクションを見出しにしたバイク雑誌である事もまた、ギャップを生み出し彼女の魅力の一つとなっている。
「わ。綿出そう!」
こぼれんばかりの朝一の良い笑顔を浮かべる少年の腕の中で、反して顔を青ざめる人物は彼らの父である。
昨晩も上司に付き合わされ三件のはしごをこなし、ぐったりとしながらも何とかタクシーで帰ってきた一家の大黒柱である。帰宅後、ソファにある大きな熊のぬいぐるみに上司の愚痴をこぼしながら殴りつける日課に励むも急激な運動の反動で一部をリバース。一瞬正気に戻った際、ぬいぐるみの所有者である息子に申し訳ないと思ったのか、よろめきながらも風呂場に持っていき浴槽に浸けようと試みたまでは良かったが前屈した際に再びリバース。嫌な臭いの漂う浴槽に浸けておくには忍びないと躊躇したのだろうが、もはや正常な思考が残されていない彼は風呂場の惨状を放置しふらつく足取りでリビングへ戻るとスーツを脱ぎ、シャツに靴下という哀れな姿で倒れこむようにしてソファで眠りにつく事を選択したようだった。
アルコールが体内に残り顔色も良いとは言えない体調最悪の午前3時。汗ばむ首筋、うなされる悪夢。数時間の浅い眠りを経てまた出勤しなくてはいけない、世のお父さんの苦心を一身に体現した姿である。
しかし現実はさらに残酷で、配慮のない娘には心配もされず、思慮のない息子にはぬいぐるみ代わりに抱き着かれ、締めあげられて中身の綿を出してしまいそうになっている。そんな哀れな男である。
「それ出ちゃまずいワタね」
流石にまずいと思ったのだろう。女は辺りを見回し、大きなため息をつくと膝をポンポンと叩き、少年にこっちへ来るようサインを送った。手慣れた様子から、これもまた日常の一コマであろう事が分かる。
「ねーちゃんんんんん」
その合図と同時に、ぬいぐるみから手を放した少年は女の腹部めがけてダイブした。よほど抱き心地が悪かったのだろう。一瞬にして捨てられた父はずるずるとソファから床に滑り落ち、浜辺に打ち上げられた海藻の様相を呈している。
「んん、んごっ」
飛んできたロケット頭突きを回避する術はない。およそ女性らしさの欠片もない断末魔を上げて横に倒れこみ、女は白目を剥いて気を失った。
原因は腹部へのダメージではない。想定外に素早く身を反転し突進してきた少年への驚き故である。雑誌に集中しすぎていた事もあるが、それ以上に、ただ単純に、彼女は巷でも有名なほどのビビりだった。大胆で気の強そうな彼女の持つ第二のギャップ。これもまた彼女の魅力である。何でもギャップになるから美人は得だというのが彼女の口癖だ。
そんな彼女の特性を思慮する事もなく、女の腹部に手を回し腰にもたれるようにして少年は寝息を立て始める。シスコンと誹られても仕方のない光景をもって、静寂が訪れた。
少年の名前は秀一郎。性格は穏やかで、よく笑う。16歳の高校生にして、学年最下位の点数を国語で取り続ける男である。
彼は勉強が嫌いではない。理科、社会の類は常にトップクラスの成績を誇る。数学と国語が全くできない。
これまで彼と関わった教師たちは頭を捻った。現教員も目下の悩みの種としている。
前教員は肩を竦め「お手上げね」とフッと虚無的な笑みを浮かべ鼻で笑った。洋ドラマに影響されすぎた痛々しい人と生徒からは人気だ。
それはそうと、彼の成績の差には理由があった。生まれながらにして、知能が低い。ただそれだけである。記憶力は人並みにある。持って生まれた障害ではない。ただただ、知能が低い。IQと言われる類に関しては皆無と言っても過言ではない。
それがこの、秀一郎という人物である。
女の名前は麗華。恵まれた容姿にやや派手好き、そしてその気の強さから豪気な性格と思われがちであるが、非常に小心者の20歳の大学生である。
ゴキブリの登場に気を失う確率は300%。突然の電話・インターホンで悲鳴を上げること、数えきれず。目覚ましは心臓に悪いので少しずつ音量の上がるスマホの目覚ましアプリを使用している。修学旅行で行ったアミューズメントパークのお化け屋敷では入場口で気を失い大騒ぎとなった。
とにかく驚き、恐怖の類が元来ダメで、父親譲りの肝っ玉の小ささに悩む女子大生である。
「おはよう。あらあら」
6時半。見るからにおっとりとした女性がリビングへと入ってくる。視界には地に伏した夫と、気絶した娘、そして娘に抱きついて寝息を立てる息子の姿。
「ごはんの用意をしましょうか」
しばし顎に手を当て首を傾げる仕草をし、熟考した様子だったが手を叩くとスリッパをぱたぱたとさせながら、キッチンへと姿を消した。状況を飲み込めなかったのか、飲み込まないのか。言わずもがな、少年の頭の悪さは、彼女譲りである。
蛇の家紋を持つ由緒正しい朽縄家の日常は、こうして朝を迎えた。
四コマ漫画を小説風にアレンジしたような作品です。シリーズ化するかもしれません。
某TRPGは好きですが、今後とも小説内にそのネタが大っぴらに出てくる事はありませんのでご了承ください。




