ヘカトンケイル
私はこのメモを、医者たちの手で幕が開かれようとしているその会場で書いております。しかし、もうだめです。手が震えて、これ以上、うまく字が書けません。怖くてたまりません。手短に、でも、できるだけ詳細に書かなければ!
発端は十年前、一八九X年のパリ万国博覧会での開会式でのことです。世界の繁栄と文明の進歩を祝した宣言がなされている最中、無政府主義者が仕掛けた爆弾が貴賓席で炸裂したのです。爆弾の威力は相当のもので、貴賓席に座っていたフランス大統領、イギリスの首相、ドイツ皇帝、ロシアの皇帝、イタリア国王、オーストリア皇帝、トルコのスルタン、イランのシャー、インドの藩王、アメリカ合衆国大統領やラテンアメリカ各国の独裁者たち、エチオピアの皇帝、植民地の総督、それに清国の皇帝や日本の大君ら各国の国家元首に加えて、アメリカの鉄道王やロスチャイルド銀行の最高経営者ら世界経済の担い手たちまで総勢五十名が木っ端微塵に吹き飛ばされたのです。彼らの生存は絶望視されました。
そして、この爆弾事件から今日に至るまでの十年間、世界は暗黒時代を経験しました。世界中の政治的、軍事的、経済的指導者が一度に失われたため、権力をめぐる混乱が世界を襲ったのです。権力の空白が起こした統治機能の麻痺は、世界のありとあらゆる場所に内戦と経済危機をひきおこし、多くの人々の生活と財産、そして生命が失われました。先週のパナマ海戦で南北アメリカ大陸戦争の犠牲者が五百万を越えたのは記憶に新しいことでしょう。ロシアと清国の飢餓問題は深刻化の一途を辿り、アフリカとインドシナでは隔週ごとに勃発する独立戦争と植民地戦争で文明が崩壊、ロンドンでの株価大暴落によってヨーロッパ産業は虫の息、日本では鎖国制度が復活し、ちょんまげのないサムライたちが次々とセップクしていきました。
しかし、一九〇X年。ここで驚きの新事実が全世界にむけて発表されました。実は死んだと思われた五十人の国家元首たちが、世界的な名医たちの処置により、一命を取り留めていたのです。この十年間、五十人の国家元首たちは手術につぐ手術の繰り返しでなんとかきわどく命をつなぎとめてきたのですが、ここにきてようやく彼らの容態が安定したことを受けての発表でした。五十人の国家元首たちは政務に復帰し、これにより世界の秩序は正しき権能のもとで快復に向かう……世界人類はそのように期待しておりました。
ただ一つ、気になることがあります。
爆発による身体損壊を結合手術でカバーした結果、国家元首たちは頭が五十、腕が百本の合成人間となってしまったそうなのです。つまり、五十の感覚、知性、民族、そして領土に対する正当な継承権がごちゃごちゃ組み合わさった合成人間が、世界の政務を司るのです。知識人たちはこれを世界政府の誕生だと誉めそやしております。これまで五十人の支配者で治められてきたこの世界をたった一つの知能と精神が治めるという新時代がやってきたからだそうです。
そして、世界政府のお目見えが、いま、このパリの特設会場で行われることとなったのでした。緞帳の裏には世界政府を統治することになる合成人間が控えております。
会場の見物人のなかには顔見知りもいます。私の隣ではM伯爵夫人が、いつも連れて歩いているプードルを膝の上において撫でております。みな、ほっとしたような顔をしています。世界政府の誕生が世界の混乱を一掃し、人類が救われると思っていたのです。封印されていた百手巨人がゼウスを助けてタイタンを打ち破りガイアを救ったように。ところが……
ねちゃ、ぐちゃ、ぼちゃ、べちゃん。
と、いった音が緞帳の後ろから聞こえてくるのです。この緞帳の後ろにいるのは本当に人間なのかしらん、と首をかしげたくなる、そんな音です。
さて、ここで椿事が起こります。M伯爵夫人のプードルです。狆も狆なりに会場の不安な空気を感じ取ったのでございましょう、プードルはM伯爵夫人の手から飛び出し、緞帳の裏に向かって、ウーッと吼えたのです。すると、緞帳の裾から目にもとまらぬ速さで触手のような鉤爪のようなものが飛び出し、あっという間にプードルを幕のなかへかっさらっていってしまいました。幕の裏からプードルの哀れっぽい鳴き声が聞こえてきます。
きゃいん、きゃいん……ギャン!……ぐしゃッ、ばき、ばりばり。
その音に、会場の全員が息を飲みました。押しつぶすような、へし折るような、引き裂くような物凄い音です。
M伯爵夫人は私の隣で顔面を蒼白にしています――ああ、でも、私はもっと顔面蒼白です。なぜなら、私は、プードルがぐしゃぐしゃにされる音のなかに世界人類が破壊される音を聴いたからなのです。ああ、神さま! この、粘液まみれの半魚人がぶつかり合うようなおぞましい音を発し、犬を生きたままバリバリ喰っていると思われる化け物が、世界権力の頂点に君臨しようとしている。だのに、我々はそれを食い止める術を知らないのです!