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3、穴の外、夜の道

 渦の色が黒から極彩色へと変わり、するりと消え、視界に飛び込んできたのは目映いほどに輝く星の灯りだった。星座などの知識はまるでなかったけれど、僕はその満天に広がる星空をとても綺麗だと思った。


 痛みは感じなかった。気怠さだけが重く身体の中身にのし掛かっていた。僕はなんとか身体を起こし、目を瞬かせ、周囲に視線を巡らせる。

 川だ。

 森の中を流れる、柔らかな清流のほとりに僕はいた。実験施設の面影はどこにもなかった。

 ボウリングの球のように重い頭でいちばんはじめに考えたのは「廃棄」だった。実験に失敗した政府の彼らは僕を街から遠く離れた森に捨てたのではないか、と。だが、その考えが的外れであることは薄々勘づいていた。彼らにとって、僕をどこかへ運搬するよりも消し去った方が早いに違いないからだ。


 沈殿する思考の中で、ワームホールのことを思い出す。「制御不能領域」――。つまり、ワームホールの生成には成功したが、その制御には失敗したのだろう。その結果、僕はどこか遠くに飛ばされたのかもしれない。彼らは最後まで僕にワームホールの繋がる先を明かさなかった。無論、彼らの想定していない地域にいる可能性もある。

 結局、僕がたどり着いた確信はたった一つ、どちらにせよ、ここは僕の日常からはかけ離れた場所である、ということだけだった。


 どうするべきだろう。

 廃棄されたにせよ、流転したにせよ、僕を探しに来る人はきっといない。得体の知れない不気味なうなり声も聞こえる。一刻も早く動いた方が得策に思えた。誰かに連絡しようにも頭に埋め込まれた通信装置はうんともすんとも言わない。

 僕は土を踏みしめ、足が動くことを確認し、適当な方角に向けて歩くことにした。


 まずは人を見つけなければならない。ならば、右手の川沿いに、下流へと向かって進んだ方がいいだろう。僕は川のせせらぎを聞きながら伸びた草の上を歩いて行った。

 しばらく進むと川の幅も広くなっていった。面積を増した川が二十メートルほど先で二手に分かれているのが見える。


 適当な方角――、それはどちらなのだろう。右に回る川沿いに進むか、左に弧を描く流れに沿うか、この決断が大きな意味を持つ気がした。方角を判別する材料を探し、空を見る。星の知識を持たない僕は北極星がどれであるかもわからなかったし、方角を知ったところで判断に影響を及ぼすことはないと気付き、項垂れた。静寂の中に獣の声が聞こえる。木々に反射しているせいか、渦を巻くうなり声の根源がどこであるか判断に困窮した。


「運任せ、か」


 僕は小さく呟いたあとでそんな呟きすら聞きたいほど心細かったのだと自覚した。だがその声も、闇に染みこんで、無情に消え去る。

 いつまで経っても自分で方向を決めることができず、結局、近くに落ちていた木の枝を地面に突き立て、倒れた方向に進むことにした。枝が示した先は左だった。根拠のない解決方法を信じることほど不安なことはないけれど、僕が縋れるのはその細い枝しかない。

 正解であるかどうかは別として、幸運ではあったのだろう。僕は野生動物に遭遇することなく、森を抜けた。木々の群れのない草原は星と月の明かりのおかげで森の中ほどの暗闇も、蹲りたくなるほどの閉塞感もなかった。


 だだっ広い草原、その中に一本の道が朧気に浮かび上がっている。土色の、舗装などされていない、道だ。公園以外で初めて目にしたような気がする。

 とにもかくにも、草が毟られるほど通行があるならばこの道はきっとどこかへ繋がっているのだろう。目をこらすとその先に光が、小さく、浮かび上がっていたようにも見えた。

 静かに息を吐き、道なりに進み始める。夜闇のせいで正確な距離はつかめないけれど、人工物と思しき光を目指して、歩を進めていった。


  〇


 もうだいぶ近づいてきているのだろうか、光の輪郭が明瞭になってきたとき、蹄の音が近づいてきた。音は後ろから僕の横を通り過ぎたあと、十メートルほど前で止まった。

 馬車だ、初めて見た。

 呆けていると、急停車した馬車から聞こえた知らない誰かの声が僕の胸を叩いた。


「――――!」


 馬車の上から響いた声は男のものだった。だが、その意味まではわからない。テレパシーを応用した翻訳装置は地球上にあるあらゆる言語を網羅し、僕に正確な意味合いを伝えるはずなのだけれど、信じられないことに彼の言語はその中には含まれていないらしく、角張った音の羅列、という印象以上のものを僕に与えなかった。

 一人の男が馬車の荷台から降りてくる。褐色の肌、赤黒い短髪、額から左のこめかみに走っている傷が特徴的な、鋭い印象の男だった。ローブ、と言うのだろうか、焦げ茶色の布に身を包んでいる。彼は訝しげに僕を見つめ、警戒を露わにしながら、もう一度、声を発した。


「――――――? ――――」


 やはり、何を言っているのか、分からない。テレパシーが組み込まれた翻訳装置が学習すれば簡単な会話ができるはずだが、規則性を掴めない内はそうもいかない。しかし、心細さは臨界に達していたようで、僕は人に出会えたうれしさのあまり、思わず訊ねた。


「あの、ここはどこでしょうか」


 意を決し訊ねたものの、僕の不安は解消されない。


「――。――――?」

「伝わって、ないですね」


 彼も彼で、僕の言葉を理解できないらしく、彼は馬車の中を一瞥し、肩を竦めていた。

 こうなったら身振り手振りで伝えるしかない。いくらか近づいたことで、光の傍には大きな何かがあることは想像がついていた。防壁――おそらくは円形の――が星明かりの下に浮かび上がっている。

 僕は自分を指差し、その後で光を指さす。短髪の男はしばらく渋い顔をしていたが、彼も同じようにジェスチャーをした。彼らの目的地も光の方向らしい。「お願いします」と頭を下げると、その仕草は共通の意味合いを持つらしく、彼は静かに頷いて、僕を指さし、馬車の幌を叩いた。

「ありがとうございます」と、僕はもう一度頭を下げ、彼に招かれるがままに、馬車の中に飛び乗った。


  〇


 彼の名前はフェンと言うらしい。これは僕の推測だ。馬車に乗っていたもう一人の太った男が頻発していた発音から、僕はそう結論づけ、試しに真似てみることにした。


「フェン、っていうんですか?」


 その途端、驚きを含んだ彼の顔がこちらに向いた。僕は彼を指さし、繰り返す。

 フェンと太った男は顔を見合わせ、頷きあい、再び僕に視線を送ってきた。


「フェン――。――?」


 彼は自分を指さして、それから僕の方に指を向ける。つまり、区切りの後が僕の名を訊ねる単語に違いなかった。


「僕の名前はニールです」名前を強く発音する。「ニール」


 そこで、僕に埋め込まれた翻訳装置がようやく作動した。


「俺はフェン、お前はニール」

 喉に埋め込まれた翻訳装置の端末がその発音を真似る。「僕はニール、あなたはフェン」


 その発音は正確であるようだった。彼の顔がかすかに柔らかになり、表情にはちょっとした親近感を滲ませてすらいる。太った男も面白いものを発見したかのように笑い、何か楽しそうに大きな声でフェンに対して話しかけていた。 

 街に着くまで、揺れる馬車の硬い感触に苦しみながら、僕は彼らの授業を受けることになった。太った男は演技過剰に黴びた毛布に包まり、それから目を擦りながら起き上がって何か言う。それが「おはよう」、だ。鍬を振る仕草をしたあとで手を上げて言ったのは「こんにちは」か、それとも「おつかれさま」か。毛布を被る前に言った一言は「おやすみ」に違いない。


 僕が覚えようとしなくても、翻訳装置はしっかりと学習する。挨拶の合間に重ねられる会話から一人称と二人称は完全に覚えていて、彼らの会話の先端だけは聞き取れるようになっていた。それを彼らは、特に太った、やはり褐色の男――ウラグは気に入ったようだった。彼は夜も深くなっているというのに、幼児に言葉を教えるような熱心さで、繰り返し僕に話しかけた。毛布を手に取り発音する。馬を指さし発音する。ナイフを、服を、身体の部位の名称を、彼は口に出した。


 ただ、それは僕にとっては気持ちがいい行動ではなかった。

 子供扱いされることに苛立ちを覚えたのではない。言葉も通じない若造に熱心に話しかける彼らの優しさは純粋に嬉しかった。

 僕が不安を覚えたのは彼らの行動そのものだ。言葉を教えてもらわなければならない――それは、僕が、僕の国から遠く離れたどこかへと飛ばされた事実を如実に示していた。

 地球上にあるどんな言語でもない言葉を操る彼らは一体どこで生きているのだろう。

 そして、僕は今、どこにいるというのだろう。

 作り笑いを浮かべながら、隠した手で床を掻きむしる。静かな恐怖が規則正しい馬の蹄とともに僕を包み込む。


   〇


 いびきがうるさくて目が覚めた。

 その主であるウラグから逃げるべく、距離を取る。僕は寒さをしのぐため毛布の端を握りしめ、必要以上の隙間が空かないようにしながら幌の外に顔を出した。外では鎧に身を包み、二振りの曲刀を持ったフェンが防壁に背を向けてじっと遠くを見つめていた。

 僕たちは街を大きく囲う防壁の外で一夜を明かしていた。街の名は「バンザッタ」というらしい。それはウラグが教えてくれた単語ではなく、人の背丈の三倍ほどもある門の前で番兵と彼の押し問答を盗み聞きして覚えたものだ。彼らの剣幕から察するに、門を開けてはならないのっぴきならない事情があるようだった。


「フェン、おはよう」

「ああ、ニール。――」 彼は横目でちらりと僕を見てすぐに視線を外す。それから思い立ったかのように毛布に包まる仕草をして「寒いな」と言った。

「そうですね、『寒い』です」


 僕は慣れない発音がくすぐったくて、はにかみながら馬車の外に飛び降り、彼の視線の先に目を向けた。

 遠くの山が朝ぼらけに霞んでいた。その横をうねった街道がかすめ、続いている。昨夜、僕が目を覚ましたであろう森は地平線の向こうに消えている。

 人間というものは睡眠を経ると、気持ちが穏やかになるらしい。

 僕も、静かに現実を受け止め始めていた。


 ――ここは、僕のいた世界ではないということ。

 僕のいた二〇九二年の世界にはこんな素朴な文明は現存していなかった。鎧や剣などといった物騒なものなど既に野蛮な文化となり果てていたし、街を石の塀で囲んだところで安心感など得る人など一握りもいないはずだった。僕たちが身を守るならばサイコキネシスドローンを使うし、街を囲うならば合成樹脂と金属のシェルターを用いる。


 そうでないことに鑑みれば、結論は揺るがない。

 あのとき、政府高官につれられて赴いた実験施設、そこに生まれたワームホールは僕を思いも寄らない世界か時代か、それとも異次元か、そういった場所に連れ去ったのだ。

 僕はもう一度、フェンではなく、自分に囁くように、「寒いね」と言った。それから、いつも使っていた言葉で続けた。


「ここはほんとうに寒い」


 春を終え、木々が花を散らし始めた夏の前の風景はどこにもない。冬が迫り来る秋の朝焼けを見ながら、僕は冷たい空気を吸った。


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