2、虫喰い穴が垂れる
冗談みたいに長い車の中で政府高官の男が連絡を終えるのを待って、声をかけた。
「あのう、僕はこれからどこへ」
「君の名前はなんと言ったかな」
「……ニール=レプリカです」
「よし、今度は完全に記憶した。ニール=レプリカくんだね」
あの「余興」のときは覚える気もなかったのか、と僕は彼をじっと見つめる。だが、彼は機嫌の良さそうな笑みを返してくるだけだった。
「それで、あの」
「今から君を連れて行くのは国立科学研究所だ」
なんて暴力的なまでに抽象的な名称だ、と僕は隠れて舌を突き出す。
「君にやってもらいたいことがある」
「やってもらいたいこと?」
重い球を動かせただけのでくのぼうの僕に? という言葉を飲み込んだ。あのとき鎌首をもたげた有能感が居心地良さそうに身体の中央に居座っていたからだ。
想像する。あの役立たずのニール=レプリカがクラスの誰よりも先に政府に声をかけられて、バルトたちはどのように悔しがるだろうか。もしかしたら、学校に帰ることなく、このまま重用されるかもしれないぞ、と妄想が膨らむ。
「君にやってもらいたいことは先ほどと似たようなことだ」
「球を動かすんですか。それとも岩とか、そういうのでしょうか」
「どちらも不正解だ」
にべもなく否定して、男は続ける。
「君に力を行使して欲しいのは私たちが作った装置に対して、だ」
「装置?」計器に向かい合う自身の姿が脳裏を過ぎり、鼻で笑いそうになった。
「……テレポーテーションを君は知っているね」
話題のテレポーテーションだ、と僕は批難したくなる。しかし、男の有無を言わさない表情にたじろぎ、口を噤んだ。
テレポーテーション、ですか、と間を埋めるように発音する。
古くから物語に出てくる超能力――その中でテレポーテーションは未だ為し得た者がいない力だった。理由は簡単だ。超能力とは別次元に干渉するもので、別次元に肉体を送る力ではない。肉体はあくまでこの次元に根付いているものである。そうである以上、テレポーテーション、というのは不可能な事象であるとされていた。
大体にして、もしテレポーテーションが実現したとしたら、それは技術的にも、軍事的にもこの世界に多大な影響を及ぼすだろう。
「荒唐無稽だと思うかもしれないな」
「それは、まあ……」
「ならば、その認識を改めてもらいたい」
極めて難しいことを簡単に言うものだ。男の平坦な口調に僕は頭を抱えたくなる。
「テレポーテーションはもう机上の空論ではないんだ。……君は超能力応用技術にどれだけの知識がある?」
「人並み、です。サイコキネシスを車の動力源としたりだとか、テレパシーを用いて言語の壁を越えたりだとか、その程度です」
「じゃあ、掻い摘まもうか。私たちが作った装置に君がサイコキネシスを流す」
「そうするとどうなるんですか」
「空間に穴が開く。ワームホールだ」
空間に穴? ワームホール?
その時点で僕は両手を挙げ、降参の意を示したくなった。途中の過程が抜け落ちた絵描き歌を歌われた気分だ。サイコキネシスが何を経由すれば空間に作用するのだろうか。
不理解が表情に出ていたのか、男は小さく笑い声を上げた。詳しい説明を受けても理解できるとは思えなかったので、黙ったまま、彼の話題転換を待つ。が、いつまで経っても彼は次の言葉を発しなかった。僕は痺れを切らし、結論が出たわけでもないのに「つまり」と要約しようとする。
「つまり、サイコキネシスを使えば、空間に穴が開いて、その穴を通れば、別の空間に移動できる、ってことですか?」
「物わかりがいいじゃないか」
その口ぶりに辟易しながら、続けた。「でも、何をするんですか? まさかサイコキネシスで重いものを動かしたらその、ワームホールが開くとかじゃないんですよね。だったら人数を集めればできますから」
「そうだな」と男は頷く。「もちろん、重いものを動かす、というわけではない。それに匹敵するだけの力が必要なだけだ。そして、君が言ったように私たちも人を集める、という方法は試した。だが、君に頼んでいることからも分かるとおり、失敗した」
「なぜですか?」
「認識のずれだ。各個人で力を与える対象に微妙なずれが生じていたために装置は上手く作動しなかった。二人だけで試してもだめだったんだ。一人でなければならないが、装置を作動させるにはかなり大きな力がいる」
「でも、僕より大きな力を持った人は他にもいますよね」そう言ってから僕には及びもつかない大人物の名前を挙げた。そのときには既に先ほどまで胸の中央に居座っていた有能感など吹き飛んでいた。「僕なんか学校で一番とかその程度です」
「その通りだ。君クラスの力を持った人間なら他にもいる。だが、その多くが今や重大な任務に就いていて、自由に動かせる、基準値を超えた人間は数人しかいなかった。君がその一人だ」
「……そういうことでしたか」
僕はそこですべてを理解した。
これは危険を伴う実験である、と。
きっと彼に確かめても否定されるだけだろうが、これはもしかすると生命にも関わる実験なのかもしれない。そうでなければ、重大な任務に就いている人間を避ける理由がない。各部署の政治的なせめぎ合いもあるのだろうが、それ以上に失うべきではない人間を巻き込めないから僕のような人間を探していたのだ。
どうするべきだ。僕は隠れて唇を噛む。死の危険がある実験に喜んで参加する自殺志願者になるつもりは毛頭なかった。確かに、現状には大いに不満がある。バルトたちの悪意に晒される生活は死にたくなるほど惨めだった。だからといって、死んでしまおうとは思ったことすらない。
僕の隣で、男が何か小難しい説明をしている。耳には入っていたが、頭には入っていなかった。音もなく進むサイコキネシス・リムジンの豪華な革張りの座席に座っていると宙に浮いているような気分になった。併せて、僕の迷いもふわりと浮き、ぐるぐると旋回を始める。
もし、断ったらどうなるのだろうか。
ぶるり、と身体が震えた。今、対峙しているのは気さくに実験内容を話す政府高官の男ではない。国家、という得体の知れない黒々とした大きなものだ。それが身を揺すったとき、僕はとても簡単にふるい落とされるだろう。まるで、僕など初めからいなかったかのように。
そのことに気がついたとき、僕の中にどうしようもない恐怖が広がった。
数時間前まではいつも通りの日常だったんだ。老先生の困ったような視線、バルトたちからの侮蔑、それがどうしてこんな局面に立たされているのだろう。調子に乗って球を動かしてしまったからか?
落ち着け。落ち着け。僕は心中で叫び、自分に言い聞かせる。
まだ、そうと決まったわけじゃない。
それに、これはチャンスでもある。実験が成功し、僕も無事だったら、それは大いなる一歩だ。確実に歴史に残る。偽物、でくのぼう、と揶揄されてきた僕が、だ。かけがえのないものを得ることができるだろう。
前向きになれ。前向きになるんだ。僕は冷静になったふりをして、もう一度自分に言い聞かせる。
「あ、あの」
訥々と語っていた男の言葉を遮り、僕は訊ねた。
「装置に力を流すってどういう風にするんでしょう。物理的に動かすわけじゃないですよね」
「ん、ああ、そうだ。実際に装置を移動させるわけじゃない」
「じゃあ、どうやって」
「簡単に言えば、装置を作動させる触媒があるんだが、そこに力を流し込むんだ。運動エネルギーではない、別次元の、もっと原始的な力だ。……君は別次元のエネルギーがどの時点で発生していると思う?」
「それはえっと」思いも寄らない質問だった。「サイコキネシスなら物質に触れた瞬間に」
「不正解だ。正確に言えば君が〈腕〉を展開した瞬間に莫大なエネルギーが発生している。物質に触れた瞬間に発生するのであれば窓を通過したとき、影響が出るだろう。だがそうじゃない。別次元では絶えず計測するのも難しいほどのエネルギー量が生まれているんだ。それを触媒に流し込む。私たちが開発したその触媒は物理的影響を受けないまま、エネルギーを溜め込むようになっている。そこに君の見えざる腕が触れた瞬間、装置は起動するようになっているんだ」
「つまり、僕の苦手な細かい操作は必要ないんですね」
「そうなるな。ついでだ、他に質問があったら答えるが?」
「……いいえ、大丈夫です」
僕は答えながら、確信している。
やはり、彼には、あるいは、彼の組織には僕の意向を聞くつもりなどないのだ。参加する意志をいつまで経っても問おうとしない彼の姿勢から、それだけは理解できた。
薄まりかけていた恐怖が濃度を増し、喉を締めつける。内臓の奥深くが重くなった。痺れるような黒々とした塊が胃の奥でじわりと蠢く。
〇
目の前にある装置がそれだ、とスピーカーから男の声が流れた。
やはり意見を聞かれないまま、僕は実験施設に通されていた。だだっ広い、白い施設の中で僕は立っている。金属のチューブによって持ち上げられた球体の前に、立っている。清潔感のある真っ白な壁は実験動物にされたかのような心象を僕に与え、恐怖心を強く煽った。服も制服のままで、能力拘束具は外されたものの、お為ごかしの防護服すら与えられなかった。
成功した場合、僕はきっとそれなりの待遇で迎え入れられるだろう。だが、失敗した場合はどうなるのだろうか。
僕は男が触媒であると説明した液体に目を向ける。球の中央、暗い青色の液体がシリンダーに詰め込まれている。装置には動きがないというのに、触媒は渦を巻くように、静かに揺れていた。
力を送った途端、ガラスが砕け、液体に身体を飲み込まれるような不穏な気配がした。質量を増やした液体に閉じ込められて肌を蝕まれながら毒に溺れる自分の姿がぶわりと想起される。根拠のない妄想だ、そんなはずはない。だけど、考えるだけで僕の肌は痛覚を伴って溶けていくように感じた。皮膚を爛れさせ、筋肉を分解し、骨を蒸発させる、その様子が瞼に貼りつく。身体の至る所が痒くなって、耐えきれず、僕は必死になって腕を擦った。
「さて、準備はできたね」
「……はい」嘘だ。
「君のすることは単純だ。見えざる腕を伸ばし、触媒に触れる、それだけだ」
それだけで、どうなるというのだろう。
僕は球体の向こうにある防護ガラス、そのさらに奥にいる政府高官の男と研究員の顔を眺める。きっとここで何か起こったとしても彼らにはなんの影響もないに違いない。想定された危険が彼らに降りかかることのないように万全を期しているに、違いない。
なら、僕はどうなる。ただ一人、装置を目の前に、盾一つなく向かい合う僕は。
こんな扱いには慣れている。生まれたときからそうだった。記憶にはないけれど、僕の人生は実験と観察に満ちていたから。だけど、それは僕に気付かれまいとする配慮があった。バルトたちですら老先生を含めた教官など、学校にいる大人たちに知られないようにする加減があった。
今、僕が相対しているのは剥き出しの、「蔑ろ」だ。
一切の遠慮なく向けられるその感情に僕の身体は凍り付いていた。
「どうした、早く」と男が急かす。「指示を待つ必要はない。君の思ったタイミングでやってくれていい」
「……わかり、ました」
どうして、僕はここにいるんだ? 数時間前までは日常だったじゃないか。
困惑が沸騰する。が、もうやるしかないことは分かっている。
僕はゆっくりと息を吐いた。肩甲骨の後方に意識を集中させる。視界が若草色の光で塗りつぶされ、その瞬間、暗い青色をしていた液体が強く輝いた。
反応、している。
唇を噛む。
輝く触媒を睨み、僕は〈腕〉を突き出す。球形の中央、ガラス管を透過し、液体に触れた瞬間、エネルギーの奔流が僕の身体を後方に押し飛ばした。
もんどり打って転がる僕に歓声が降ってきた。
「起動しました!」
「成功だ!」
僕は這々の体で球体を見つめる。沸騰した触媒が管を通り球体を覆い尽くしている。絶えず揺れる液体はやがて収束し、球体の天頂から溢れ、床に滴って黒い穴を形作った。
「素晴らしい、ニール=レプリカくん! 君は今、私たちの世界を――」
彼の言葉がそこで途切れた。
「制御不能領域に到達します!」
女性の、慌てた声が響いた。
制御不能? 僕は目を疑う。床に垂れた黒い穴が膨張している。これは正常な稼働ではないのか?
「どういうことだ!」
「装置を停止しろ!」
「信号を受け付けません! 制御不能です!」
僕の内側から漏れた恐怖が声となった。「……逃げなきゃ」
「おい、ニール=レプリカ! どうにかしろ」
どうにかしろ、だって?
何も知らない僕にどうにかできるはずなんてないじゃないか!
逃げるべく、立ち上がろうとして、愕然とする。
足が動かなかった。恐怖心が肉体を縛っている。一週間前に床に倒れたままクラスメイトに拘束されたことを思い出し、乾いた笑いが漏れた。
そして、気がつく。僕の身体を縛っているのは恐怖心ではなかった。
ワームホールだ。球体の下にある黒が膨張し、歪に端が伸び、その触手の一つが僕の足下まで到達していた。ずぶずぶと、右足が沈む。飲み込まれた膝から下はもう感覚がなかった。
「とうさん、かあさん」
僕は恐怖心でめちゃくちゃに叫んだ。喉が痛くなるほどの声の大きさで、助けを求める。だが、ガラスの向こうの彼らはその場を離れようとはしない。
「助けてくれ!」
ワームホールは僕の身体を飲み込むべく、さらに大きさを増して迫り来ている。
「誰か、誰か、神様、ニ――」
そうして、僕はワームホールの中に全身を浸した。途切れゆく意識の中で虫食い穴の、残酷なまでにあっさりとした収束を目にした。