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6.除夜詣

 除夜詣に来たらしい夫婦が、急ぎ足で叡生寺の門を潜って行く。

 門前で待っているかも、と思ったが、マーニーはいなかった。義兄まで巻き込んだせいで出発に時間が掛かってしまい、電話をしてからゆうに1時間近くは経っている。鳥政から叡生寺までは、ゆっくり歩いても10分とかかるまい。この寒い中、彼はどこで待っているのか。

 つぶさに辺りを見回しながらも先を急ぐ。腕時計の時間は11時半。そろそろ顕生が今年最後に撞木しゅもくを握る時間だ。いてもたってもいられなくなり、なり振り構わず駆け出した。

 参拝客は皆、本堂でお参りをするか顕生の勇姿を見に行くのだろう。墓に行く道を折れたつぐみの先に人影はなかった。

 息を切らして辿り着いたのは、いつもの白樫の木の下だ。

 傍に立つ1本の外灯が大樹の周囲を照らしている。

 ここにも彼の姿はない。

 電話の着信も確認したが、かかって来た形跡はなかった。こちらからかけようかとも思ったが、臆病風が吹き土壇場で指が止まってしまう。

(気が変わった、とか、遅いから帰っちゃった、なんてことはないよね)

 彼はそんな無責任な男ではない。それはわかっているのだが、こんな夜更け、自分に会いに来てくれるという事実がまだよく飲み込めていない。自分にそんな価値があるとはどうしても思えないのだ。寒風にさらされた目尻に涙が浮かんだ。


「マーニーさん!」


 我慢しきれず彼の名を呼んだそのとき。

 頭上の白樫の梢がやけに大きくざわめいた。


(まさか)


 見上げる間もなかった。

 ぬばたまの夜をまとい、流れ星のように栗色の尾を引いて、目の前に落ちてくる人の影。

 地面が重く震えた。


「呼んだか」


 外灯の光に白い息が煙のように浮かび上がる。

 膝を折って屈み込むようにしていた男が、ソフトモヒカンの頭を上げて不敵に笑った。

 

「烏天狗参上、なんてな」


 自分で言ったあと、照れくさそうにはにかむ。その顔を見ただけで、喜びが体中をほとばった。

「なんてな、じゃないでしょ。夜中に木登りなんて、怪我したらどうするの」

 たしなめながらも口の端が上がってしまう。彼に会えてうれしい。うれしくて、しかたがない。

「落ち着かなかったんだって」

 マーニーは拗ねたように唇を尖らせた。

「そっちが時間かかるのはわかってたから、すんげえ時間かけて身支度して、靴はいて。でもうちから叡生寺までなんて、あっという間だもんよ。着いたらもうじっとしてらんなくて。境内駆けずり回ってるわけにもいかないだろ。しょうがないから、登ってた」

 軍手を外してポケットに突っ込むと、マーニーはかがみ込んでつぐみに顔を近づける。あまりに近くて、反射的に上体を反らした。

「ごめん、俺、目、悪くて。つぐみの顔、よく見たかったんだよ」

「そういえば、お店で眼鏡してたね」

「ああ、肉のグラム間違えると、親父にどやされるからな」

 そんな話をしながらも彼の顔がまた近づく。熱っぽい眼差しにあぶられ、めまいがしそうだ。

『落ち着かなかったんだって』

『つぐみの顔、よく見たかったんだよ』

 それはどうして。もしかしたら。ううん、そんなわけない。とりとめのない思いが渦巻く。言葉にならなくて、ただ彼の瞳を見つめ返した。息が上がって苦しい。マーニーも同じなのか、大きく息を吐いた。

「ここ来る前に、言うこと考えてきたつもりなんだけど。いざ顔見ると、何から話したらいいのかわかんなくなってくる。いや、とにかく、謝るのが先だよな」

 殊勝に頭を下げたあと、再び顔を上げたマーニーは、心底すまなそうな表情を浮かべていた。

 

「騙してて、ごめん。実は俺、つぐみの爺さまのこと、子供のころから知ってた」


「えっ」

「この辺りでは有名人だったんだ。亡くなった奥さんの週命日なのかな。土曜日になると叡生寺に墓参りに行って、帰りに商店街へ寄ってってくれる。白い顎髭生やして土曜日に来るから、『土曜日の仙人さん』って呼ばれてた」

 間違いない。つぐみの祖父のことだ。

「店の跡取り連中はほとんど俺の幼なじみだから、飲み会でもよく『仙人さん』の話題になったよ。『高野文具店』で俳句帳や万年筆のインク、『八百初』では果物を買う。うちには寺に行く前に声を掛けてってくれた。『鶏挽き肉のコロッケ揚げといて。帰りに寄るから』って。個数はその日によって2個だったり、10個だったり。今思えば10個は、つぐみたちの分だったんだな」

 孫の自分も知らなかった、在りし日の祖父の姿。マーニーが、この町のみんなが、見守ってくれていた。湧き上がる涙が、大粒のまま地面に落ちた。

「去年の秋頃から姿を見せなくなって、皆で心配してた。そしたら顕生が、春先に葬式を出したと。切なかったよ。『仙人さん』のために、帰る時間見計らってコロッケ揚げることはもうないんだな、って」 

 祖父がお土産にくれたコロッケはいつも仄かにあたたかかった。その影に、マーニーや彼の父の、心を尽くした仕事ぶりがあった。

「空師堂でつぐみと初めて会った日な。顕生から『あの子、仙人さんの孫で、墓の前でコロッケ食べてたよ』って聞いて、ほんと、胸が熱くなった。商売やっててよかった、って思う瞬間だよな。顕生は散々『名乗れ』ってけしかけてたんだけど、いきなり『鳥政です』ってご本人登場みたいなのも、何かわざとらしくてなあ。そのうちポエトリー・リーディングが始まった」

 マーニーのごつい指が伸びてきて、ハンカチの代わりにつぐみの涙を攫う。

「舞台に立ったつぐみは、腹から響くような声で、毒だの、復讐だの、次々怖い言葉を吐いて。度肝抜かれたけど、胸張って朗読してるとこは痛快で、かっこよかった。話してみたくて酒奢ってみたら、結構ウマが合うし、やっぱり爺さまのことから立ち直ってないこともわかって。興味半分、心配半分で空師堂に通うようになった」

 心配半分。その言葉が棘のように引っかかる。

 マーニーがつぐみに目を向けてくれたのは、まず祖父のことありきだった。常連客の孫だから目を掛けてくれていた。そう考えると今までの彼との関係が違うものに見えてくる。顔を曇らせたつぐみに、『ほらな』とマーニーは笑った。

「勘違いすんなよ、俺がつぐみに構ってたのは同情なんかじゃない。はじめこそ照れくさくて名前隠してたけど、つぐみを知るうち、なおさら名乗りたくなくなっちまった。だって爺さまのことが絡むと、つぐみはどうしたって爺さまを通してしか、俺を見てくれなくなる。それじゃつまんねえし……悔しいだろ」

「悔しい?」


 マーニーは分厚い手のひらで自分の胸を叩く。

「生きてここにいる俺と話して、俺自身を、俺だけを見て欲しい。そう思ったんだよ」


 その気持ちには覚えがある。マーニーに亡くなった恋人がいると誤解していたときだ。

(それって)

 無言で見つめれば、彼の胸に当たっていた手がつぐみの頭に降りてきた。彼の指が、宝物を扱うように優しく、つぐみの髪を撫でる。


「臆病で、人に気を使うけど、変なとこ大胆で。すげえ物知りなのに、俺のつまんない話も一生懸命聞いてくれる。声がいい、笑い顔がいい。同情かな、とか、俺こそ爺さまフィルター通してつぐみを見てんじゃねえか? とか、いろいろ考えてたんだけど」


 突然、つぐみの頭に乗っていた手が、思わぬ力強さで動いた。

 気がつけば、倒れ込むように、マーニーの胸の中。


「理屈じゃ、ねえんだよ」


 彼の胸の鼓動が聞こえる。それはまるで自分のものかと思うほど早く、激しく。

「会いたくて、会いたくて。空師堂に行く日は、馬鹿みたいにうれしくて。寺で会えるってわかってからは、ほとんど毎日通ってた。慰霊碑の当番なんて、月いちくらいしかねえのに」

 彼の声が聞こえる。耳から、頭にくっつけた頬の動きから、抱き寄せられた胸から。

「ほんとは家に送ったとき、上がり込んじまおうかと思ったけど。酒も入ってたし、あの家で手ぇ出したら爺さまに怒られそうで。気持ち持て余しながら、つぐみと一緒に爺さまの墓に手を合わせてた。『きっと大事にするから、化けて出ないで』って」

 思わず頭を起こして、マーニーの顔を見る。彼の顔はあまりの照れくささからか、苦しそうに歪んで。

「俺はつぐみが思ってるほど大人でも、いい奴でもねえよ。こんな俺でも、いいか?」

 つぐみは彼の目を見て迷いなく答える。

「マーニーさんがいい。マーニーさんじゃなきゃ、やだ」

 唸るような声と一緒に、力いっぱい抱きしめられた。

「後悔したって、もう遅いぞ。今日も、『初デートの中坊かよ』って自分で突っ込みたくなるほど歯磨いてきたし。下心だらけなんだからな」

「歯磨き?」

「あ、わかんなきゃ、いいよ」

 マーニーは苦笑いして、つぐみの頭をまた自分の胸に押しつけた。

「マーニーさん?」

「それもいいけどよ。俺の名前。顕生から聞いたか」

政親まさちか、さん?」

 つぐみが答えると、マーニーの身体が一瞬、震えた。

「そうだ。やっぱりいいな、つぐみの声」

 彼はつぐみの耳元の髪を掻き上げると、露わにした耳に顔を近づけた。くすぐったくて肩をすぼめると、高音のハミングみたいな声が聞こえてくる。

「え、何?」

 戸惑うつぐみの目の前で、マーニーが人差し指を立てて揺らした。


「邪なマサチ『カ』は狙っているのだ。たたなづく柔膚を刺し、赤い血潮を盗み出す機会を」


 彷徨っていた人差し指はつぐみの額に止まり、そのままこめかみを通り、頬の稜線を辿る。『たたなづく』、その意味を知らしめるように、彼の指先が顔の上を滑っていく。その感触だけで背筋が戦慄わななき、つぐみは思わず瞼を閉じた。

 やがて指は唇の先で止まる。その柔らかさを確かめるように何度か押し当てられたあと、指が遠のく。

 代わって、静かにマーニーの顔が近づいてくる気配がした。

 少しずつ強くなる、歯磨きのミントの香り。

(あ、もしかして)


 先ほどの答えを探し当てたときには、口づけられていた。


 少しかさついた唇を重ねられたあと、軽く啄むようにつぐみの唇の上下を交互に挟む。あまりにやさしくむから、小さな声がこぼれてしまう。

「つぐみ」

 次第に口づけは深くなり、合間にマーニーが感じ入ったような声を漏らしたとき。


 厳かな青銅の響きが辺りを包んだ。夜気を震わせ、町一帯に広がる、重く清らかな音色。


 マーニーが顔をしかめながら唇を離した。

「顕生め、どっかで見てるんじゃないだろうな」

 つぐみが笑うと、マーニーは益々苦虫をかみつぶしたような顔になる。

「こんな状況で煩悩なんて払えるかよ、阿呆」

 そんな声を戒めるように、ふたつ目の音が鳴る。

 おかしくなって、つい吹き出してしまった。悔しげに舌打ちしながら、彼の口の端も笑っている。その唇が、時を惜しむようにまた、落ちてきた。


 今年に別れを告げる音が、ひとつ。余韻を待って、また、ひとつ。


 遠慮も、わだかまりも、少しずつ遠のいて、ふたりの口づけは煩悩の数だけ深くなってゆく。マーニーの腕が腰に回って、強く抱き寄せられた。つぐみも彼の背に手を回してしがみつく。

 もういくつ鳴ったのか。唇が融けてしまうかと思ったころ、夜空が弾けるような音がした。

 音だけの花火が上がり、高らかに時を告げる。

 新しい年になったのだ。

 賑やかな祝砲が鳴り終わり、境内に静けさが戻ってくると、顕生が最後の108つ目を撞いた。逞しくも格調の高いその音は町の隅々まで流れて行く。


「年が、明けたな」


 マーニーはようやく唇を離すと、つぐみの目を覗き込むようにした。

「年が明けたら、仕事探すんだったよな」

「うん。でもまあ、ハローワークだってお正月はお休みだろうから、松の内が明けてから」

 つぐみの声をマーニーが遮った。


「うちに来いよ」


「え?」

「うちの店で働けばいいだろ。給料はそんなによくないかもしれないけど、食いっぱぐれだけはない。うちの両親、俺が一生身を固める気がないと思って諦めてたから、来てくれるだけで御の字でうるさいことは言わないと思うぞ。コロッケだって死ぬほど食わしてやる」

 それって。胸が詰まって返事ができずにいると、焦れた彼が、いいだろ、と言うようにつぐみの身体を揺する。駄々をこねる子供のようでつい笑ってしまった。

「その仕事、マーニーさんもついてくる?」

「もれなく、ついてくる。やだ、って言ってもついてくる」

 必死で食い下がる彼の身体を剥がすと、つぐみは神妙に頭を下げた。

「じゃあ、よろしくお願いします」

「やった!」

 マーニーは小さく呟いたあと、つぐみを力いっぱい抱きしめた。

(これからは一緒にいられるんだ、この人と)

 泉の様に涌いてくる幸せを持て余して、マーニーの胸に顔を擦りつける。そんなつぐみの頭に熱っぽい息がかかって、ゆっくりと身体を引き離された。

「じゃあ、行くか」

 マーニーはつぐみの手を取ると、門のほうへと歩き出す。

「え、行くか、って、このまま『鳥政』に?」

 慌てて叫ぶつぐみをマーニーが笑い飛ばした。

「まっさか。親父たちが酔いつぶれてるうちなんかに連れていけるか。つぐみんだよ。実家じゃねえぞ、爺さまの家のほうな。鍵、持ってんだろ?」

「えっ、うち?」

 確かに持ってはいるが。

「こういうとき、どこ行けばいいかなんて、わかんねえし。とりあえず、なっ」

「なっ、て」

 目を白黒させているつぐみを、マーニーは笑って。


「行こうぜ」


 分厚い手、太い指の1本1本がつぐみの指に絡んだ。 

 向かい風が吹いて、ふたりは肩をすくめて寄り添う。

 背後に立つ白樫の木が、生い茂る木の葉を鳴らした。まるで、笑うように。



FIN.









 

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