4.約束できないクリスマス
マーニーへの気持ちに気付いてから、つぐみはどう彼に接したらいいのかわからなくなった。
ポエトリー・リーディングの最中、彼の視線を感じるだけでどうしようもなく混乱する。まるで自分が彼の飲むウイスキーになって、グラスの中で揺り動かされているみたいに。いつもの調子が出ず、他ならぬ彼にだめ出しされることもあった。何度も距離を置こうと思うのに、朗読会での高揚やウイスキーのほろ酔いが、決意を曖昧に溶かしてしまう。結局空師堂の閉店まで彼の隣にいてしまい、家まで送ってもらうはめになるのだった。
朝起きれば後悔して、そのくせ会いたさばかりが募る。早朝の墓参りにも足繁く通った。マーニーはよく叡生寺に来ては木登りをしていて、つぐみが来るといつも白樫の木から降りてくる。そのうち祖父の墓参りにまでついてくるようになった。軍手を取り、分厚い手を合わせて神妙に拝んでくれる彼に、つい涙ぐんでしまう。
(おじいちゃんに、会って欲しかったな)
きっと祖父は彼を気に入ってくれただろう。家に呼んで、とっときの酒を振る舞い、自作の俳句を披露して。マーニーもそんな祖父につきあって、遅くまで酒を酌み交わすのだ。料理の腕を奮っておいしい酒のアテを作ってくれるかも知れない。
(馬鹿だ。おじいちゃんはもういないし、マーニーさんをうちに入れることもないのに)
「つぐみ? どうした、あ、ハンカチ、えっと」
祖父のことで泣いたと思ったのだろう。マーニーは慌ててジャンパーのポケットを探ったが、ハンカチはみつからない。代わりに、いつから入っていたのかと思うほどくたびれたポケットティッシュが差し出される。いつまでも涙は止まらず、『いいから、それ、やる』と言われてしまった。その使い差しを大事に持ち帰り見てみると、見知らぬ土地にある居酒屋の名前が書いてある。マーニーが巨樹を見に行ったかも知れない、その町の場所を調べながら、自分の女々しさにまた泣いた。
気付けば師走になっていた。
遺族には正月の準備も必要なく、年賀状の柄に悩むこともない。喪中葉書を出せば終わりで、年が終わる実感すら乏しかった。
朝6時半、まだ日の出前の町は底から冷える。その朝、叡生寺に向かうと、白樫の木の下にマーニーが立っていた。
「おはよ。さっみーな」
もう木登りは終えたのか、軍手を外した手を擦り合わせている。しもやけで荒れ、節が赤く腫れ上がった手。寒い中仕事に励んでいるだろう、男の日常が垣間見える手だ。大した自炊もせず、クリームばかり刷り込んでいる自分の手が、かえって恥ずかしかった。
「クリスマスまでもうひと月もねえんだな」
マーニーの視線は、寺から幼稚園へと続く、小径の入り口に注がれている。木で出来た掲示板に、赤と緑の鮮やかなポスターが貼られていた。
『つばめようちえん くりすますかい 12がつ24にち ごぜん11じから。けーき も ぷれぜんと もあります!』
「お寺なのに、クリスマス会やるんだ」
園児が描いただろう拙いトナカイの絵に、思わず笑みが漏れる。
「ま、子供にとっちゃ1大イベントだからな。毎年顕生もサンタのカッコしてがんばるらしい。お年寄りやご近所なんかも招待して、結構賑やかだって」
「ご近所、って、マーニーさんは行かないの」
「行けねえって。仕事だもんよ」
彼のサンタ姿も見たい気がした。
「マーニーさん、サンタ帽似合いそうなのに」
「もう被ってるようなもんだろ」
そう言ってソフトモヒカンのてっぺんを撫でる。
「つぐみこそ、クリスマスらしいことしないのか」
「私? なーんにも。なのに24日は偶然定休日が当たって会社も休みなの。予定がない人には、もう嫌みみたいだよね。マーニーさんは?」
「だから夜まで仕事だって。淋しい独り身は仕事するしかねえの」
密かに胸を撫で下ろした。
——彼にはイブの約束がない。
聖夜に彼を独占する人はいないようだ、たぶん、この世には。
そう考えて自分の身勝手さに呆れた。
祖父を失った悲しみが癒えていないくせに、マーニーの相手がここにいないことに安堵している。情けないことに、今つぐみを支えているのは、自分が今ここに生きていて彼のそばにいられるという事実だけだった。
魔が差す、とはこういうことを言うのだろうか。唐突に、いつもなら決して言わない言葉が浮かんで、そのまま口を衝いた。
「夜、遅くだったら、空いてる?」
「ん?」
目を細めるようにして聞き返すマーニーに、さりげないふりで畳み掛けた。
「イブ、遅くてもいいから一緒に食事でもどうかな、なんて」
できる限り軽く聞こえるように言ったつもりだった。なのにマーニーはどんぐり眼を見開いてつぐみを見る。心臓が飛び出しそうだったが平静を装った。全身を耳にして返事を待つ。やがて彼の目が空を泳いだ。
「あー、たぶん、無理、だわ。ごめん」
眉根を歪めるようにして、本当にすまなそうにする。言ってしまった後悔と断られた悲しみで胸はきつく痛んだが、慌てて首を振った。
「ううん、こっちこそごめん。そうだよね、忙しいよね」
「あ、つぐみ、あのさ、俺」
さらに何か言いかけたマーニーに気付かぬふりをして、祖父の墓へと歩き出す。もうこれ以上、気を遣わせたくない。
(言うんじゃなかった)
足下が涙で歪む。それでも今、彼の前では、絶対涙はこぼすまいと思った。
その日以来、マーニーは空師堂にあまり顔を見せなくなった。
「ごめんな、ここんとこ立て込んでて。ポエトリー・リーディング、なかなか行けないな」
と、彼は言うが。
(距離を、置かれた)
そう思わざるを得なかった。立て込んでいると言いながら、早朝の寺にはやって来るのだ。やはり、土の下に眠る彼の恋人には敵わなかった、ということなのだろう。
それでも律儀に祖父の墓参りにはつきあってくれる。きっと、まだ祖父の死から立ち直っていないつぐみを気遣っているのだ。最愛の人を亡くした、その気持ちがわかる彼だから。
同情でもいい、一秒でも長く一緒にいたい、と願う自分は、なんと浅ましいのだろう。今日もふたり、祖父の墓の前に並ぶ。拝む彼の横顔を、薄目を開けて伺っては、また目を瞑った。
12月24日。せめてひと目会えないかと、会社もないのにいつもの早朝に叡生寺に向かったが、マーニーの姿はなかった。
「おはよう、つぐみちゃん。相変わらず早いね」
通りがかった顕生が声をかけてきた。空師堂で会ってからは、法衣姿でもつぐみには敬語を使わなくなっている。この時間はちょうど朝の勤めを終える時間らしく、マーニーとふたりで墓参りをしているところも何度か目撃されていた。
「おはようございます」
「まぁ兄は……って、さすがにいないか。24日だもんね」
当たり前の様に言って白樫の木を仰ぐ顕生に、聞き返さずにはいられなかった。
「『さすがに』って、今日、何か、あるんですか?」
つぐみの問いに、顕生が首を傾げて曖昧な笑みを浮かべる。
「え、だって、イブだよ? 当然、1年で1番の書き入れ時じゃない」
「書き入れ時?」
ようやく合点がいったのか、顕生は思い切り顔をしかめた。
「まさか、まぁ兄、まだ自分の正体、つぐみちゃんに明かしてない?」
顕生には他意はないのに、その言葉は深く胸に突き刺さる。それでも無理に笑ってみせた。
「私、未だにマーニーさんの本名も知らないですよ。何ですか、『正体』って大げさな。まさかクリスマスなだけにサンタクロースとか?」
おどけてみたものの勢いは続かず、後ろを向いて顔を隠した。
「つぐみちゃん」
背後から真っ白なハンカチが差し出される。受け取ったら、マーニーへの恋心を肯定してしまうようで、黙って首を振る。慌てて指で涙を拭った。
「ごめんなさい。おじいちゃんがいなくなってから、なんか涙腺ゆるくなっちゃって」
顕生は小さな息を吐く。
「こっちこそ、ごめん。よく一緒にいるから、その、勝手に……恋人、同士だと」
「違いますよ。マーニーさんも、私みたいなのと勘違いされて、かわいそう」
「そんな言い方」
首を振る僧侶の袈裟が揺れる。ふいにその芥子色の衣が滲んで、見えなくなった。もう隠しようもない。涙が溢れるままにしゃくり上げる。もう一度差し出されたハンカチは、ありがたく使わせてもらった。
顕生はそのまま黙ってつぐみの傍に立っていたが、はたと顔を上げた。
「つぐみちゃん。今日これから、予定あるかな」
「え、今日は、仕事もっ、休みで、何も、ありませんっ、けど」
途切れ途切れになる言葉を辛抱強く聞き取ってくれた顕生は、静かに微笑んだ。
「じゃあ、クリスマス会のお手伝い、頼んでもいいかな?」
午前9時半。幼稚園の名前の入った軽自動車を運転するつぐみの姿があった。自分の車はないが免許は持っており、目的の店は目と鼻の先だ。
『電話は入れておくよ。10時に開店しちゃうと店の前に車停められなくなるから、10時前までにはもらってきてくれる?』
頼まれたのは園児や参加者が昼食に食べるローストチキンだ。歩いて行ける距離ではあるが、持ち帰る量が多いので顕生が車を貸してくれたのだった。
オレンジと白が縞模様になっているビニールの庇、その両脇には『クリスマスはおうちでチキン』と書かれた幟が盛大にはためいている。車を近づければ、『年内、大晦日まで営業いたします』と店の意気込みを伝える張り紙が見えた。
お使い先はあの『鳥政』。
思えばコロッケ事件の日以来かもしれない。朝に墓参りをするようになったので、買いに行くこともできなかったのだ。
「あ、つばめ幼稚園さん! 毎度どうも!」
つぐみが車を停めると、白髪頭の店主がすぐに駆け寄ってきた。開店前でシャッターは半分降りているが、ガラスケースの中にはローストチキンや唐揚げが山と積まれている。
「お忙しいのにすいませんね。ほんとはうちが配達すればいいんだけど、おかげさまで、今日ばっかりは、てんてこ舞いで。あ、開けますよ、よいしょっと」
話しながらも慣れた調子で車のバックドアを上に持ち上げ、開けてくれる。
「そうでしょうね。クリスマスですもんね」
相槌を打ちながら調理場の方に目をやると、白帽子に眼鏡の店員と三角巾を被った女性がローストチキンのパック詰めの真っ最中だった。
「おーい、マサチカ! つばめ幼稚園さんのローストチキン、出来てるか!」
店主が声をかけたとき、マサチカと呼ばれた白帽子はちょうど最後のパックを閉じて、プラスティックのコンテナに乗せたところだった。
「今、上がったよ!」
そのしゃがれ声に、息の根が止まるかと思った。
(マーニーさんの声に、似てる)
白帽子はチキンを並べたコンテナを、手際よく何段も重ねる。それを一気に持ち上げると、つぐみの方へ向かってきた。積み上げられた荷物に隠れてその顔は見えないが、コンテナを持つ手は分厚く、しもやけで荒れて赤い。あまりに会いたくて、都合のいい幻が見えるようになったのかと思った。
(まさか)
動悸が、いよいよ激しくなる。つぐみは胸を押さえて、ただ立ちすくんでいた。
「後ろ、のせちゃいますねー」
彼が屈んで、車の中へと注意深く荷物を下ろす。背を伸ばしながら後退ったとき、店主が開けたバックドアが中途半端な位置で止まっていたらしく、頭がぶつかった。
「つっ」
被っていた白帽子が、引っかかって、落ちる。
——現れたのは、少しつぶれた、栗色のソフトモヒカン。
落ちた帽子を拾い顔を上げた彼と、目が合った。眼鏡の奥のどんぐり眼が、さらに大きく開く。
会いたかった男が、そこにいた。
「マーニー、さん」
何かもっと、言いたいことがあるのに、言葉にならない。
頭の中の記憶が、電子信号の様にめまぐるしく交差した。
初めて会ったときの、梨と鳥ハムの料理。親と言い合いながら、それでも親と店がなければ自分はないのだ、と殊勝なことを言っていた彼。白い帽子に眼鏡、白い上っ張り。そうだ、コロッケを丁寧に包んでくれた店員はつぐみに言ったではないか、『気をつけて』と。
——あの日、コロッケを売ってくれたのは、マーニーさんだったんだ。
「マサチカ! 何、ぼさっとしてる! つばめ幼稚園さんも忙しいんだぞ!」
店主の声で、はっとして我に返る。
「あいすいません! ここにサインを」
マーニーは慌てて納品書を差し出す。預かってきた印鑑を押す手が震えた。
「確かに」
納品書を確認したマーニーはバックドアを閉めてくれる。つぐみに向かって深々と礼をした。
「ありがとう、ございました!」
頭を上げて、つぐみと眼差しが合うと、少し切なそうな色を浮かべて付け加えた。
「気を、つけて」
言い終えるや否や、マーニーは踵を返して店に戻っていく。調理場では彼の父親であろう店主が、新たに焼き上がったローストチキンを運んでいた。
幼稚園までの道はまったくの上の空で、よく事故に会わなかったと思う。
つぐみがようやく入り口に車をつけると、ジャージに着替えた顕生が待っていた。
「ご苦労さま」
顔を見てすべてわかったのだろう、顕生はそれ以上何も言わなかった。バックドアに回ってコンテナを下ろしてくれる。すぐに他の職員たちがやってきて一段ずつ運んで行った。職員たちがいなくなるやいなや、顕生はつぐみに頭を下げる。
「ごめん。きっと、俺のせいだ」
顕生の顔は申し訳なさそうに歪んでいた。
「まぁ兄に連れられて、初めて空師堂に行った日。実は俺、つぐみちゃんが店に入ってきたときから、気がついてたんだ。『木村さんのお孫さんだ』って。しかも俺の脇には『鳥政』のまぁ兄が」
「え?」
「だから、まぁ兄にこっそり言ったの。『あの子、おじいさんのお墓の前で、鶏政のコロッケ食べてたんだよ』って。コロッケが木村さんの好物で、よくお孫さんにまで買っていってたらしい、ってことも。まぁ兄、嬉しかったくせに、つぐみちゃんの前ではわざと知らんぷりして」
そんな会話が交わされていたとは夢にも思わなかった。マーニーは知っていたのか。
「名乗れなかったのもきっと、その辺の事情だよ。まぁ兄の名前は、屋号みたいなもんなんだ。あそこは苗字が『鳥井』で、代々長男の名前には『政』の字がつく。おじいさんが一政、親父さんが政孝で」
そこで気がついた。彼が呼ばれていた名前は。
「マーニーさん、お店で『マサチカ』って」
顕生は頷いた。
「鳥政の『政』に親子の『親』って書いて、『政親』。『鳥井政親』、略せば、まんま『鳥政』でしょ。子供のころから『鳥政』って呼ばれるのを嫌がって、俺たちには無理矢理『まぁ』とか『まぁ兄』って呼ばせてたんだ。だから」
顕生の慰めを皆まで言わせず、つぐみは首を振った。
「顕生さんのせいじゃないから、気にしないでください。所詮マーニーさんにとって私は、名乗る価値がない人間だってことですよ」
「価値がないって、何」
声が幾分低くなった気がする。黙っていると、さらに促された。
「ねえ、何、って聞いてるんだけど。どうしてそんなこと思うの」
なぜ不機嫌になったのだろう。普段穏やかな顕生しかみたことのないつぐみは、怖じ気づいて語気が震えた。
「忘れ、られない人が、いるから」
「まぁ兄の忘れられない人? 何だよ、それ。どこからそんな話が」
「だってマーニーさん、いつも朝早く来てお墓参りしてて。『自分ちのお墓じゃない』って言うだけで、誰のお墓か、隠して教えてくれなかった。きっと、好きだったひとのお墓なんだろうって」
顕生から唸るような声が漏れる。
「うう、そうですか、そう、きましたか。つぐみちゃんの想像力はポエトリー・リーディングで実証済みだもんな。はあ、ほんっと面倒臭いね、このふたりは!」
癇癪を起こしたように自らの肩を大きく揺さぶると、顕生は吠えた。
「ついて来て!」
あっけにとられながらも、その長身の背中を追う。彼が向かった先は墓地の一角だった。
「まぁ兄がお参りしてたのは、ここ!」
顕生が手を指し示した先には、石碑のような物が立っており、その両脇に花が手向けられている。
——石に刻まれた文字は、『鳥獣慰霊碑』。
「昔は唐栗川の近くで鴨を獲る猟友会の人たちも一緒だったんだけどね。時代の流れで解散して、今この慰霊碑を守るのは、商店街の鶏政と近藤肉屋、焼き肉店と焼き鳥屋が何軒か。持ち回りで掃除したり花を供えたりしてるわけ。わかった?」
畳み掛けられて、まずは聞き取るだけで精一杯。少しずつ事情が飲み込めてくると、ようやく自分のとんでもない思い込みだったことに気付いた。
(馬っ鹿じゃない。勝手に勘違いして)
顔から火が出そうだ。穴があったら入りたい。恥じ入ってうつむくつぐみに、呆れたような顕生の声が追い打ちを掛ける。
「お互い、ひと事言えば済む話だったのに。まぁ兄もまぁ兄なら、つぐみちゃんもつぐみちゃんだよ」
盛大なため息が吐かれた。
「でも、まあ、うん、そうか……怖かったんだよね、ふたりとも。端から見るより、こういうことって、そんなに単純じゃない」
悩ましげな声で語る副住職も、かつてそんな思いをしたのだろうか。彼の恋愛事情に思いを馳せようとしたとき、顕生は急に意味ありげな笑みを浮かべ、つぐみに顔を近づけた。
「いいこと教えてあげようか。鳥獣慰霊碑の当番は回ってきても1か月に数回。まぁ兄はどれだけ寺に来てる?」
「ええっと、3日に1度、くらい?」
つぐみが墓参りに来るのは週に2日程度だが、そのほとんどのときに、木登りをしている彼に出くわしている。だから同じようなタイミングでお参りに来ていると思い込んでいたのだが。
「まぁ兄、ほとんど毎日来てるよ。しかもここ1、2ヶ月くらい」
顕生は俺の手の内はこれでおしまい、と言うように笑って、両手を大きく広げてみせた。