3.たたなづく柔膚(にきはだ)
以来マーニーは、即興ポエトリー・リーディングの定例会に、必ずと言っていいほど顔を出すようになった。
「だっておもしれーじゃん。緊張感半端ないし、誰がどんな詩を作るか、いつだって予測不能だし。15分であそこまで文章作れるってすげえよな。つぐみが朗読してるとこも、なんつーか、雄々しくてかっこいいわ」
マーニーはカウンターでウイスキーを飲みながら、楽しそうにステージを見ている。常連や仲間内で評価されることには慣れていたつぐみも、真新しい彼の視線は何となく照れくさい。それでも回数を重ねるうちに見られることへの張り合いが出てきた。
空気も冷たくなった10月のある日、空師堂のカウンター近くに、季節外れの蚊が飛んでいた。
「うへ、最近の蚊はしぶといな」
さっそく叩き潰そうとするマスターを、マーニーの大きな手が押し留めた。
「何とか生き延びてきたんだから、見逃してやれよ」
その夜、ポエトリー・リーディングに選ばれたつぐみは、マスターを証人にして命拾いした蚊を詩の題材にした。
『邪な思いは、越冬する蚊のように狙っているのだ。たたなづく柔膚を刺し、赤い血潮を盗み出す機会を』
「蚊まで詩にしちまうなんて、ありか。ちょっと、それ見せろや」
カウンターに戻るなりマーニーに突っ込まれ、詩を書き出した紙を奪い取られた。太い指が詩の中の一節を差す。
「そう、この『タタナヅク、ナントカ」。よくわかんなかったんだよ、呪文みたいで」
「そうだよね、ごめん。聞き取れなくちゃ朗読として失格だよね。万葉集なんかに載ってる古い言葉なんだけど、独りよがりだったわ」
「いや、そんなに謝らんでも。で、何て読む?」
「柔らかいに皮膚の膚で、『柔膚』。文字通り、女性の柔かい肌のこと。『たたなづく」っていうのは、その『柔膚』と『青垣』の枕詞。『たらちねの母』とか『ぬばたまの夜』みたいな」
たたなづく柔膚
たたなづく青垣
つぐみはマーニーから紙を返してもらって、単語を書き並べた。
「『ニキハダ』と『アオガキ』ねえ。へえ、枕詞って1対1対応じゃねえんだ」
「うん。『たたなづく』は山並みが連なるっていう意味で、『青垣』は緑の山々が垣根みたいになってる様子。『たたなづく青垣』っていうと、青い山脈が連なって囲んでる土地、つまりは奈良盆地の辺りを指すみたい。じゃあ『柔膚』の『たたなづく』は何、っていうと諸説あって。着物が折り畳まれた状態から流れる様子だとか、身体を折り屈めた状態だとか。私が推すのは、女性のたおやかな身体の曲線を山並みに例えてるっている説」
つぐみが両手で波打つ曲線を描くと、マーニーが、ほう、と感じ入ったような声を上げた。
「なるほどねえ。その意味聞くと蚊の詩も、俄然色っぽく聞こえるな。大人じゃーん、つぐみ」
「うるさいな。大人だもん。万葉集の時代なんて、今よりもっと大らかだったんだよ。とくに枕詞の使い手、柿本人麻呂はそういう歌ばっかでしょ」
「ばっかでしょ、って言われても、俺、知らねえし」
「『たたなづく柔膚』の歌は、亡くなった皇子様を弔う、挽歌なんだよね。なのに人麻呂は、よりによってその皇子の未亡人の前で『ぬばたまの夜床も荒るらむ』、つまりは『亡くなった皇子さまは、さぞかし独り寝が淋しかろう』って歌うわけ。現代の葬儀じゃ、ちょっと考えられないよね」
そこまで淀みなく持論を展開して我に返った。今にも笑い出しそうなマーニーの顔。煽られた、と気がついたが後の祭りだった。男性である彼を前にして、自分こそ大らか過ぎる。たちまち火照る顔を誤魔化したくて、さらに早口になった。
「ああ、もう、ごめん。そんなのどうだっていいのに、つい突っ走っちゃって。つまんなかったでしょ」
「いーや、面白かったぜ? つぐみが大人だってことは、よーくわかった。どうせ万葉集も、あの膨大な『爺さまコレクション』に入ってるんだろ。本に埋もれてるつぐみを想像すると、なお楽しい」
屈託なく笑うと、つぐみの書いた紙をまた眺める。
「うーん、俺、『たたなづく青垣』って、何か聞いた気がするな。どこでだろ、教科書とか?」
「ああ、教科書だったら、もしかして、古事記に載ってる、ヤマトタケルの『国偲び歌』かも」
「今度は古事記か」
「うん、ヤマトタケルはお父さんである天皇から命をうけて、荒れてる諸国を制圧する旅に出るの。后を失いながらも、やっと厳しい戦いが終わって故郷に戻る途中、病に倒れてついに伊勢で力尽きる。『国偲び歌』は帰れなかったふるさと、美しい奈良の風景を思って詠んだ歌」
つぐみは紙にその歌を書き足すと、声に出して読み上げる。
「『やまとは くにのまほろば たたなづく あおがき やまごもれる やまとしうるはし』」
ポエトリー・リーディングのくせで、つい感情を込めて歌い上げてしまった。顔を上げると、マーニーは真顔でつぐみを見つめている。
(まずい。呆れた、っていうより、引かれたかも)
万葉集だけで止めておけば良かったのに、彼が何でも受け止めてくれるのをいいことに、ひいては古事記、さらに調子に乗って朗読まで。恥ずかしくてその場から消え入りたくなった時、マーニーの口元に笑みが浮かび、さざ波のように顔全体に広がった。
「つぐみの声は、いい声だよな。ポエトリー・リーディングのとき、いつもそう思って聞いてる。よく響く太い声なんだけど、耳障りがよくて、柔らかい膨らみがあるっつーか。読み方もいいのかな、内容がよくわかんなくても、なんかいい景色が浮かぶわ」
「そんな、こと、ないよ」
照れくさくて、古事記を淀みなく諳んじていたはずのその口が回らない。動転するつぐみを余所に、マーニーはまた紙を手に取り、眺めては唸る。
「うーん、何だったっけなあ、やまと、青垣、……ん? あ! そうか、わかった!」
ふいに立ち上がって、マスターを顎で差す。
「あいつと行ったんだ、『巨樹ツアー』で! 奈良の、大和青垣国定公園!」
壁に掛かっている何枚もの巨樹の写真に目をこらすと、その中のひとつを選び出した。
「これだ。300年物のイチイガシ。国定公園にある、何とか神宮っていう由緒正しい神社の中に、大昔からの古道が通ってて。その古道にイチイガシが立ってんだ」
「マーニーさんて、マスターと旅してたの?」
「おうよ。ここにかかってる写真、半分以上はふたりで行ってる。巨樹を求めて、日本全国どこまでも。最近は仕事があるからあんまり行けないけど、学生時代は青春18キップ使って、よく旅したな。夜通し鈍行乗って座ったまま寝るから、もう翌朝身体痛くてさあ」
つぐみは学生時代から何年もこの店に通い、飾られている写真も見てきた。巨樹の向こうに、マーニーがいたのだ。それは不思議な感覚だった。
「大きな木が好きなの?」
「うん。なんていうか、敵わねえんだよな。何百年もそこに立ってるんだもん。嵐で枝へし折られたり、雷が落ちて黒焦げになったり、それでも毎年同じ時期に葉を茂らせて実を結ぶ。高々と、天を突いて。すごくね?」
マーニーの目がいつにまして輝いている。
「大きい木見ると、てっぺんまで登ってその景色を見てみたくなる。ま、無理なんで、代わりに素手で木肌を触ってくるんだ。木の底力みたいなもんを、自分の身体の中に残したくて」
自分の分厚い手のひらを開いては見つめる。その手は今まで、どれだけの巨木に触れてきたのだろう。
「全部の木、覚えてる?」
「たぶん。空師堂に来れば写真もあるし、復習になって忘れないのかもな」
「すごいね」
「つぐみのほうが物知りじゃん。『たたなづく』とか、世の中には知らない言葉がいっぱいあるよなあ。どうせなら、言葉を使って勝負したいとは思わねえの? 詩人になろう、とかさ。今の仕事に気持ちが入んないなら、好きな詩を本職にしたらいいのに」
世間話のついでみたいな軽い口調だが、彼の目は真剣だ。すぐに首を振った。
「詩1本で食べてくなんて、有名な人だって厳しいんだから。無理、無理。三好達治がね、萩原朔太郎の妹に結婚申し込んだとき、朔太郎の家族に『詩人は稼ぎがないからだめ』って反対されたくらい。つまり朔太郎も貧乏だったってわけ」
「出たよ、つぐみの蘊蓄」
「とにかく、仕事が辛いのは当たり前でしょ、食べるためだもん。今のご時世、お金がもらえるだけありがたいと思わなきゃ」
「なんか、なあ。無理矢理納得させてるみてえだな。ポエトリー・リーディングのときのつぐみ、すっごく生き生きして見えるんだけど。でも、まあ、そうか。俺だって仕事、全面楽しんでるわけじゃねえしな」
ウイスキーを舐めながら、残念そうに笑った。
マーニーは会話の引き際や責めどころをよく心得ていた。こちらの話によく耳を傾け、粗野な口調なのに傷つけるようなことは言わず、さりげなく笑わせる。黙っていれば黙っていたで、気まずくなることもなかった。マスターに閉店の時間を告げられるまで飲んでは喋り、割り勘で勘定を払って一緒に帰る。
私鉄の駅ひとつ分、他愛ない話をしながら夜の街を歩く。車のヘッドライト、信号、コンビニの明かり、自動販売機。いくつもの灯りをやり過ごせば、夜を遡っているみたいだと思った。ゆるい光の川に逆らい、ふたりだけで泳いでいるような。
家に着いたとき、マーニーはいつもつぐみが中に入るまで見届けてくれた。名残惜しくなって、『コーヒーでも飲んでく?』と何度言いかけたことだろう。結局言えたためしはなかった。
「じゃ、気をつけて。鍵しっかり閉めろよ。おやすみ」
気をつけるのはこれからさらに家まで歩くマーニーだと思うのだが、必ずそう口にして、ドアが閉まるまで待っている。
ただ、そこまで、だった。
別な場所で飲み直すことも、昼間、約束して会うこともない。
マーニーは親しくなってもつぐみに本名を明かさなかった。『もし俺が帰った後何かあったら』と電話番号やアドレスを教えてくれる一方で、住んでいる場所すら教えない。そのことがつぐみを臆病にさせていた。
(結局、私にはそれだけの価値がないんだ)
飲み友達、その域を越えたくないのだ、彼は。
死んだ祖父の部屋にしがみ付いて、熱意もなく日々の仕事をこなす、つまらない自分。人として、女としての魅力もなく、マーニーにとっては、詩を作って朗読する物珍しい存在、ただそれだけなのでは。
(それでもこうして、このままいられたらいい)
祖父を失ってからついぞ感じたことのなかった、居心地の良さ。ようやく見つけたその場所を失うことが怖かった。
秋の深まりと共に早朝はかなり冷え込んでくる。
朝6時半。つぐみは手を擦りながら叡生寺の門を潜った。
日が短くなり仕事帰りはさすがに暗いので、あのコロッケ事件以来、朝の通勤途中に地下鉄を途中下車して、祖父の墓参りをすることにしたのである。朝ではさすがにコロッケを買うこともできず、線香だけの墓参となった。線香やライター、昼食の弁当箱まで入ったトートバッグを肩から提げて本堂の前を通ると、中から低く唸るような読経の声が聞こえてくる。
(顕生さんかな)
ご苦労さまです、と本堂に礼をして祖父の墓に向かう途中、あの白樫の大樹の前に差し掛かった。木の下にはたくさんのどんぐりが散らばっている。長細いつややかな実には、縞模様の帽子を被ったままのものもあった。
(子供のころは、よくおじいちゃんと山へどんぐり拾いに行ったっけなあ)
夢中で木の実を拾う孫たちの脇で、祖父は手帳に思いついた俳句をしたためていた。今思えば句作のための散策で、どんぐり拾いのほうがおまけだったのかもしれない。帽子を被ったままのコナラの実や、太っちょのクヌギの実を見つけるとうれしくて、宝物にしてジャムの空瓶に入れた。そんなことを思い出しながら足元のどんぐりを見つめていると。
——突然、風もないのに白樫の梢が騒いだ。
横に張り出した大ぶりの枝が軋み、鬱蒼と茂った葉が激しく揺れる。どんぐりが土に叩き付けられ、弾けるような音を立てた。
鳥か、猫か。いや、頭上に感じるのはもっと大きな気配だ。
(え、まさか、ほんとに烏天狗?)
馬鹿げたことを思って、怖々葉陰に目をこらしたとき。
——ふいに風を切るような音がした。
目の前を黒い影が横切り、重い音を立て地面を揺らす。
悲鳴を上げてつぐみが後退ったとき。
「——おはよう、つぐみ」
落下した黒い塊から、声がした。
「へっ」
よく見ればその塊は黒い服を着た人間だった。君主に呼ばれた忍者のように跪き、頭を低くしている。黒いジャンパーの背には、見覚えのある銀色の鳳凰。頭を上げると、燃える炎のような栗色のソフトモヒカンが現れた。
「……マーニー、さん」
へたりこみそうになったつぐみの腕を、軍手をはめた彼の手が支えた。
「おっと。大丈夫か」
腕に感じる力強い握力に思いの外狼狽する。怒ったふりをして、すぐ手を払った。
「もう! 脅かさないで!」
「ごめん、ごめん。登ってたらつぐみが見えたからさ」
マーニーは笑いながら謝ると手を離し、自分の身体についた葉や土を払う。どのくらい上まで登っていたのだろう。小柄で筋肉質なのはわかっていたが、木登りができるほど身軽だとは思わなかった。そう言えば彼は言っていた、大きな木を見るとてっぺんまで登ってその景色を見てみたくなる、と。
「ほんとに烏天狗が山から下りて来たのかと思った」
「烏天狗? ははーん、顕生から聞いたな。あいつ、鈍くさくてなかなか登れなくてさ、俺が手取り足取り教えてやったのよ。ま、この歳になっても登ってるのは俺くらいだけどな」
ガキ大将みたいな目をして、マーニーは得意げに笑った。
「唐栗橋の赤い欄干、見えた?」
「赤い欄干? よく知ってんな。見えねえよ、もう。10年以上前、川沿いに高層マンションが建っちまったから。ま、どっちにしてもガキのころよか身体が重いから、そんなに上のほうまで登れねえけどな。枝折っちまったら、和尚に怒られる」
それでも彼が姿を隠していた梢の先は、驚くほど高い。上からの景色はどんなものなのだろう。多分登れはしないだろうが、自分も一緒に同じ景色を見てみたくなってくる。
「この木は相当な年代物だけど丈夫だし、いいとこに枝の張りだしや瘤、洞なんかがあって、白樫にしちゃ結構登りやすいんだ。町で記念物にしようって動きがあったらしいんだけど、住職が断ったらしい。子供たちが木登りできなくなると困るからって」
軍手を取った手で、幹を頼もしげに叩く。
「マーニーさん、木登りするためにこんな早くからお寺に?」
「いや、まあ、それはお参りのついで、っつーか」
お参り。それを聞いてそうか、と思う。マーニーは顕生の『子供のころからの兄貴分』だ。ならば昔からこの界隈に住んでいて、叡生寺の檀家なのだろう。
「マーニーさんちのお墓は、どこ? うちはあの角を行った奥」
さりげなく言ったつもりが、彼はとたんに硬い表情を作って首を振る。
「いや、うちの墓参りってわけじゃ」
歯切れの悪い言い方のあと、唇を一文字に結ぶ。これ以上追求できる雰囲気ではなかった。
(自分んちのお墓じゃないとしたら、誰の)
こんな朝早くから墓に来るのだ、その思いの深さも窺い知れる。
(もしかして、亡くなった恋人、とか)
そう思い当たったとたん、胸が絞られたみたいに、痛くなった。
ぶっきらぼうで扱いにくいところもあるけれど、あったかなマーニー。楽しげに笑ってウイスキーを飲んで、いい詩を読んだときは手放しで褒めてくれる。家まで送っても、決して触れたり上がり込んだりしない。つまらない愚痴も黙って聞いてくれて、その励ましはさりげないのに、静かに心に沁みてくる。
そんな男がずっと独り身のはずがない。
恋人ができないのではなく、忘れられない人がいるのだとしたら。
(やだ、私)
いるかどうかもわからない、彼の架空の恋人に嫉妬している。自覚したとたん、居たたまれなくなって顔を伏せた。
「つぐみ?」
顔を覗き込まれて、必死で笑顔を取り繕う。
——こんな気持ちを抱いてはいけない。
本名すら教えてくれない彼が、自分をどう思っているかなど火を見るより明らかだ。
「私、おじいちゃんのお墓参りいかなくちゃ。そのまま仕事に行くから、ここで」
「……おう、行っといで。ごくろうさん」
うまく誤魔化せただろうか。背中に視線を感じながら、つぐみは逃げるように祖父の墓へと急いだ。