2.鶏ハムとソフトモヒカン
「いらっしゃい」
カウベルの鳴るドアを開けると、小太りなマスターが人懐っこい笑顔でつぐみを迎える。入り口に置かれた大きな花瓶には、秋の訪れを告げるコスモスが無造作に生けられていた。
つぐみの住む祖父の家から私鉄でひと駅、ここは学生街にあるライブハウス、『空師堂』。
テーブル席がいくつかと天然木のカウンター、奥には猫の額ほどのステージもあって、プロ・アマ問わずコンサートや演劇などに貸し出されている。壁には屋久杉、白神山地のブナなど、マスターが日本各地で撮ってきた巨樹の写真、その間を縫って劇団員や近くの大学生が持って来た演劇公演や美術展、コンサートのポスターが所狭しと貼られていた。
テーブル席はほぼ埋まっていて、ひとりの客がつぐみに声をかける。
「よ、楢橋、調子どう?」
「ぼちぼちです。先輩、本番前に飲んでていいんですか?」
「むしろ飲まないと調子出ないんだって」
挨拶を交わしたのは大学時代の同じサークルのメンバーだ。この近くの国文科を卒業したつぐみは、在学当時からこの店の常連だった。いつものカウンター席に陣取り、中にいるマスターに声をかける。
「ああ、お腹空いた。今日の『晩ごはん』なあに?」
「……俺は実家のおかんか」
文句を言いながらもマスターの手はすでに冷蔵庫を開けている。ここには常連が『晩ごはん』と呼ぶ裏メニューがあり、マスターが安くてうまい食事を見繕ってくれる。
「とりあえず、これでも食べときな」
目の前に差し出されたのは黒い小皿で、かまぼこくらいの切り身が6切れほど盛られている。よく見れば素材の違う2種類、乳白色のスライスとやや透明な白のスライスが、ひと切れずつ交互に重ねてある。その上にかかっているのは黒胡椒とドレッシングか何かだろうか。
「お刺身? サラダ?」
「まずはひと口。種明かしはそれから」
マスターは口の端を上げて小皿を押しやってくる。仕方なくひと組を箸で摘まみ、黙って口に入れた。
「ん」
まず舌に感じたのは、ざらついた表面と甘み。上に乗ったもうひと切れは、上顎に吸い付くような滑らかさだ。思い切って噛むと、小気味よい歯触りと弾力のある食感が混じり合う。溢れる瑞々しい果汁、そのあとから角の取れた塩気と凝縮された旨味が追いかけてくる。黒胡椒の爽やかな辛みとドレッシングの酸味もいいアクセントだ。
「ああ、これ、果物の梨だ。あともうひとつは何だろ」
「自家製の鶏ハムなんだわ。胸肉を塩麹で揉んでからラップで固く包んで、沸騰した鍋ん中に放り込む。あとは火止めて、少しほっとくだけ」
「へえっ。胸肉にしちゃすっごく柔らかくてジューシー。梨とお肉って意外な組み合わせだけど、合う、合う。マスターが考えたの?」
「いや、元はと言えば、故郷のお袋から梨がひと箱届いてさ。腐らすのも忍びないな、ってぼやいてたら、あいつが」
マスターの親指がすぐそばのテーブル席を指す。そこには、ふたりの対照的な男が座っていた。
小柄なソフトモヒカンと、背の高いスキンヘッド。
後ろを向いているソフトモヒカンは、光沢のある黒いジャンパーを羽織り、その背には銀糸で刺繍された鳳凰が、長い尾羽をたなびかせている。スキンヘッドのほうは黒のライダースジャケット、狭いテーブルからはみ出した足にはごついブーツ。まだ蒸し暑い初秋だというのにふたりとも黒ずくめで、いかにも近寄りがたいオーラを醸し出していた。
「あ、レシピ伝授してくれたのは、小さいトサカ頭のほうね。大学の同級生で」
マスターの声に、栗色のソフトモヒカンが弾けるように振り返る。どんぐり眼に小振りの鼻、拗ねたような口元。一瞬目を眇めるようにしてつぐみを見たが、すぐにマスターに視線を移した。
「……てめ、チビとか、トサカ頭とか。それがレシピ教えた恩人への態度かよ」
ウイスキーグラス片手に凄んでも、少ししゃがれたその声にはどことなく愛嬌がある。マスターと同級生ならば30代後半のはずだが、幾分若く見えた。
「チビまでは言ってねえし。あ、ちなみにトサカ伸ばしたって身長には加算されないから。今日はでっかいお連れさんのせいで、小ぶりなそのお身体がまた一段と引き立ちますなあ」
「この、減らず口。お前こそ酒止めて、その腹なんとかしろや」
「うっ……あのさ、この辺でお互い身体の欠陥を言うのはやめよっか。悲しくなるから」
「わかればよろしい」
ふたりの掛け合いに、のっぽのスキンヘッドも笑いながら顔を向けた。厳つい顔かと思いきや、意外に穏やかな面差しをしている。涼しげなその目元に既視感を覚えた。坊主頭の知り合いなんていただろうか。さりげなく視線を向けると、相手が瞼を伏せるようにしてゆっくり頭を下げる。その品のいい所作で、ようやく誰だか思い当たった。
「……副住職、さ、ま?」
「奇遇だね、こんばんは」
いささかばつが悪そうにウイスキーのグラスを掲げる男は、まさしくあの叡生寺の僧侶であった。
「わかんなかった……」
思わず漏らした素の言葉に、僧侶はいたずらがばれた子供のように肩をすくめた。
「わかんなく、してるんだもん。坊主頭でハードなカッコしてると、みんな勝手に強面だと勘違いしてくれるから」
「ったく、わっるい坊主だよ」
ソフトモヒカンはウイスキーを舐めながら笑みを漏らした。
「人聞きの悪い。俺、何もしてないし。あ、でも寺の外で『副住職さま』は勘弁して。俺は、谷崎顕生。えっと木村さんのお孫さんは確か、楢橋さん、だったよね」
「はい、木村は母方の姓で。楢橋つぐみ、です」
「つぐみさんね。で、この人は」
そのままソフトモヒカンを紹介しようとすると、
「……俺は、いいって」
顔の前に手のひらをかざして、顕生を制する。小さな身体に似合わぬ、分厚い大きな手だった。僧侶は素直に引いて苦笑いする。
「ごめんね。この人、単に自分の名前言いたくないだけで他意はないんだ。俺は、『まぁ兄』って呼んでる。子供の頃からの兄貴分でね。こう見えて面倒見いいんだよ」
「『こう見えて』は余計だっつーの」
不平を唱える兄貴分を顕生が笑う。
まぁ兄、マーニイ、マーニー。口の中でその呼び名を転がす。その丸い音の響きは、何となく彼に合っていると思った。
「マーニーさん」
頭に浮かんだまま口に出すと、呼ばれた本人が豆鉄砲を食らったように目を見開いた。
「なんだそれ。そんな呼び方されたの、初めてだわ」
「まぁ兄が名前を教えないからだろ?」
「……嫌なものは嫌なの」
よほど名乗りたくないらしい。退散した方がいいだろうか。つぐみが気を揉んでいると、
「じゃ、いいよ。マーニーさんで」
ふて腐れたような呟きが返ってきて、思わず顕生と顔を見合わせ笑ってしまった。
「——テス、テス」
そのときマイクの声が場の空気を破る。照明も少し暗くなり、舞台ではスポットライトの調整が始まった。顕生は乗り出すようにしてその様子を見つめる。
「まぁ兄の言うとおり、小さいけどいいステージだね。内輪のライブならこれくらいがお客さんといい距離感かも」
「だろ」
何の話だろうかと思っていると、マスターが鍋を揺すりながら口を挟んだ。
「お坊さんの彼、ここでライブをやりたいんだってさ。今日はその下見に来たんだと」
「ライブ?」
「うん、ブリティッシュ・ロックのコピーバンドやってるんだって」
「ロック? え、副住職さまが?」
「だから『副住職さま』はやめてってば」
苦笑する顕生の代わりに、マーニーが説明した。
「こいつ、学生時代からバンドやってて、今でも倉庫なんかで地味に練習してんのよ。一度ライブをやってみたいって言うんで、ここを紹介したわけ」
副住職が、ブリティッシュ・ロック。それもかなり気になるが、つぐみの頭は今別のことでいっぱいだった。
「ということは、顕生さんたちは今日、このままステージを見ていく?」
「まあ、そうだね。音響とか照明の感じとか見ておきたいから。今日の催しは何だったっけ、何か長い名前の」
「——悪い、つぐみちゃん、遅くなった。『晩ご飯』お待ちどう」
マスターが割り込んで来てつぐみの前に料理の皿を置く。エスニック風の海老と春雨の和え物、豚バラ大根、麦飯、牛すじとねぎのスープ。
「もうすぐ時間だろ。こいつらはいいから、さっさと早く食べちゃいな」」
「あ、はい。じゃ、すみません」
つぐみはふたりの男に頭を下げるとすぐさま食べ始めた。時間がないので大口を開けて構わず掻き込む。その見事な食べっぷりを黙って見ていた顕生が、食事の終わるころを見計らって口を開いた。
「時間って、楢橋さん、もしかしてこれからステージに立つの?」
そのとき、司会者役の男がマイクをもって舞台の中央に上がった。
「それじゃ、今夜も始めます! 即興ポエトリー・リーディング!」
皆の視線は司会者が持つ四角い箱に集中した。箱の中に手を入れた司会者は、ぐるぐるとかき回したあと3枚の紙を引き当てる。
「厳正なるくじ引きの結果、今夜のメンバーに選ばれたのは……楢橋つぐみ、加藤大、宮間誠! 3人は速やかにステージに上がってくださーい!」
観念して立ち上がったつぐみは、視線を振り切るようにステージへと駆け上る。置いてある3つの椅子の右端に腰掛ける。
「今日は初めてのかたもいらっしゃるようなので、説明しますねー」
司会者の眼差しは顕生たちに向けられる。彼ら以外はほとんどがここの常連か、この会の参加経験者だ。
「参加希望者の中からくじで選ばれた3人が、今からこの場にあるものを使って詩を作ります。制限時間は15分。パソコンや電話、紙などを使った事前メモはNG。ズルがないように、今から渡す紙と鉛筆だけを使ってもらいます。出来た人から手を挙げて、朗読を始めてください。ではスタート!」
顕生とマーニーが、つぐみを見ながら何か話している。気になりながらも題材を探すため、必死で辺りを見回した。題材を決めそれを見つめているうち、頭の中に言葉が湧いては溢れ、その流れを辿るのに夢中になった。いつしか観客のことを忘れ、鉛筆を走らせる。
「出来ました」
白いシャツにジーンズ姿のつぐみが、手を挙げて立ち上がる。いつもなら目立つことは極力避ける質なのに、詩を書くうちに気持ちが高揚し違う自分になっていく、その過程が好きだ。部屋の隅にある観葉植物の前まで大股で歩くと、鉢を持ち上げ舞台まで運ぶ。広げた葉にゆるいプリーツの入った、腰の高さほどの植物だ。マイクの前に観葉植物と一緒に並び立つと、文字を書き留めた紙を広げる。背筋を伸ばして息を吸った。
「……『クワズイモ』」
タイトルは鉢植えの観葉植物の名前だ。その響きに場内から小さな笑いが漏れた。そのさざ波が落ち着くのを待って、つぐみは自らが記した鉛筆の文字を読み始める。
「——はじめから否定された、その、名前。食われるために生まれたのではない。芋だ、と身分を偽った覚えもない」
その語勢の強さに、観客は静まり返った。
「おそらくは私たちと同じ、いのちの始まり。平等に生を授けられ、雨や陽の光を浴びるまま身の丈を伸ばして。瑞々しい葉を精一杯開きながら、知らず識らず蓄えていたのだ、人にとっての、毒を」
口を大きく開け、胸を張って。つぐみは詩を奏でる楽器になる。
「『お前は食えぬ』と人は言う。不名誉な名のもとに生まれ、その名のまま息絶える。毒を含むその根から子孫が芽吹き、また同じ名で呼ばれる、『お前は食えぬ』と。途方もないいのちの繰り返し、引き継がれる運命。いつしか人は、自らが付けた名前に潜む、毒さえも忘れてしまう。纏足のように、小さな鉢で自由を奪い、鮮やかな葉の緑だけを愛でようとする」
クワズイモの葉は、空調の風を受けささやかに揺れた。
「幼子のように残酷な、その仕打ちには続きがある。人が『食えぬ』と吐き出した罵声を、クワズイモは二酸化炭素として抗いもせず吸う。さらに自らを見下すその相手に、酸素を吐いて惜しみなく与えるのだ。それは大いなる犠牲か。否。土の下では根が太る。虎視眈々と、毒を、蓄えて」
つぐみはその植物を指差しながら最後の台詞を吐く。
「それは密やかなる復讐。クワズイモの毒は、人間、自らが生んだ毒。その毒の由来も知らず、今日も私たちはクワズイモを愛でる。物言わず隷属しているかのような、つつましやかなその緑。私たちは何も知らずに、今日もまた蔑みの名を呼ぶのだ、『クワズイモ』と」
言い終わった声の余韻が消えるころ、つぐみは深く頭を下げる。
「終わり、です」
そそくさと植木鉢を戻して椅子に座る。遅れて会場から拍手が湧いた。その中に、やけに熱意の籠もった響きを聞く。見ればマーニーがさかんに手を叩き、指笛まで吹いていた。そんな大袈裟なレスポンスは初めてで、恥ずかしさに思わず下を向く。血が上ったように顔が火照り、そのあとに朗読したふたりの詩は頭に入ってこなかった。
朗読会が終わりカウンター席に戻ると、そこにはウイスキーソーダのグラスがある。いつも朗読を終えた後つぐみが頼む酒だ。マスターが気を効かせたのかと思っていると。
「彼のおごりだってさ」
テーブル席を見ると、ひとりで座っているマーニーがにこやかに手を上げた。
「となり、いい?」
自分のグラスを持ってカウンター席にやってくる。小柄だと思っていた彼は、近くに来ればさすがにつぐみより大きい。その分厚い手が表すとおり体つきも筋肉質で、ジャンパーに包まれた二の腕やジーンズの太腿も、はち切れそうな張りがあった。
「あの、ご馳走さまです」
こんな形で男に酒を奢られるのは初めてで、口ごもってしまう。マーニーは、大したことじゃない、というように手を振った。
「副住……顕生さんは」
「さっき帰ったよ。檀家さんに不幸があったみたいで」
「そう、ですか」
自分が身内を亡くしてみると、ことさらに『不幸』という言葉が胸に響く。通夜、葬儀、埋葬。あんな日々を、顕生はずっと繰り返しているのか。マーニーも同じことを思ったらしい。
「よく息が詰まんないよな。だからこそ、あんなカッコして酒飲んだり、ロックがなったりしてるんだろうけど。まあ、でもヤツは最近女子大生と婚約して、頭に花咲いてるから、いっか。独り身の俺の前で、堂々と惚気てきやがって、あの野郎。ま、そんなことより」
マーニーは椅子を回転させてつぐみに向き直った。
「さっきの、ポエトリー、リーディング? あれ、すごかったわ。鉢植えひとつを、たったの15分で、どえらいとこまでもってくのな。俺、頭わりいから、難しいことはわかんないけどさ。何ていうか、見事だった」
微笑みながら、乾杯を促すようにグラスを差し上げる。つぐみにとっては最高の賛辞だ。真っ赤になりながら奢られたグラスを合わせると、思いの外軽やかな音がした。
「顕生も感心してたぜ。ヤツの分も、飲んでやってよ」
歯を見せて笑うなり、グラスを煽る。思えば彼がこの店に訪れたのも、弟分の僧侶のためだった。少し気難しいところもあるけれど、気のいいしゃがれ声の兄貴、トサカ頭のマーニー。
酔いも手伝っていつしか心を許し、余計なことまで話してしまっていた。使う言葉も考え方も、祖父からの影響があまりに大きく、今もってその死をきちんとうけとめられないこと。祖父の看病や葬儀で仕事を休みがちになってから、職場にあまり溶け込めていないことも。
「大した仕事もしてないくせに、会社から帰るとどっと疲れちゃって。家に帰っても、おじいちゃんの作った俳句帳とか、残してくれた大量の本を片っ端から読んで、眠るだけなんです。人とまともに話すのは、空師堂にいるときくらい」
自嘲的に笑うと、マーニーは首を振る。
「爺さまのことだけでも、相当な心労だったんだろうよ。うちもじいばあの葬式出してるからわかるけど、一周忌までって、やれ四十九日だ、初盆だっていろいろあんじゃん? あれってさ、悲しい気持ちに少しずつ踏ん切りつけてく儀式なんだよな、きっと。そのうち良くなってくよ。気持ちも、状況もさ」
彼が言うと、本当にそうなるような気がして、少し心が軽くなる。
「マーニーさんのことも、何か話してください」
「俺? 何にも引き出しがねえよ、毎日、商売ばっかで」
マーニーは父親と一緒に飲食店を切り盛りしているらしい。昔ながらのやりかたを頑なに守る父親と、よく衝突するのだという。
「不景気だもんよ、現状維持じゃどうしたって先細りだろ。必死で新しいアイデア考えると、親父はまず1度は頭ごなしに却下するわけ、『お客は今の味が好きで来てくれてんだ』って。だからつい売り言葉に買い言葉で、『時代遅れの店継いだだけでも感謝しやがれ』って悪態ついちまうのよ。実際のとこ俺は、店と親父に守られてて、ひとりじゃ何もできないっていうのにさあ」
先ほどの梨と鶏ハムの料理から察するに、おそらく居酒屋か小さなレストランでもやっているのだろう。つぐみの実家も和菓子屋で、姉が跡を継いでいるから、その辺の葛藤も少しはわかる。親の背中を見ながら一人前になり、その親を越えようと自分なりの歩みかたを模索するから衝突もある。決してスマートではないが自分の立場を弁えた真面目な姿勢に、かえって好感が持てた。
話し込んでいるうち夜は更け、客はふたりきりになった。
「おーい。意気投合してるとこ悪いけど、もう閉店なんだわ。『まぁ』、お前、つぐみちゃんのこと送ってってくれるか。この子いっつも『ひとりで大丈夫』とか言って、真夜中に電車の駅ひとつ分、平気で歩いて帰っちまうんだよ」
初対面の相手にそこまで迷惑はかけられない。つぐみは断ったが、マスターにふたりまとめて深夜の街へ放り出され、結局一緒に帰るしかなくなった。
幸い、帰る方向は同じだった。喋りながら外灯に照らされた通りを歩く。今日初めて会ったばかりなのに、彼の隣は思いの外居心地がよかった。異性で、年齢も10は違い、共通の趣味もないのに、会話は途切れることがない。はじめはマスターと同じ『ちゃんづけ』と呼んでいたマーニーも、最後には『つぐみ』と呼び捨てになり、つぐみも遠慮のない物言いになっていく。夢中で話しているうち、気がつけば家の前に立っていた。
「あ、ここです。ありがとうございました」
少し名残惜しい気持ちもしたが、慌てて頭を下げる。外灯の光に、ちっぽけな祖父の家が浮かび上がっていた。築何十年になるのか、煤けてひびが入った壁には蔦が這い、母親には『みすぼらしい』『若い女の住む家じゃない』と散々けなされている。すぐ帰るかと思ったマーニーは、つぐみが鍵を取り出す間、家の佇まいを興味深げに眺めていた。
「おんぼろでしょ。中もひどいもんなんですよ。本だらけで、もう足の踏み場もなくて」
言い訳しながら玄関を開ける。電気をつけると、靴箱の上まで積み上がった本の山が見えた。赤い地に金色のタイトルが刻まれた重厚なトルストイ全集、外箱がつぶれかかった句集の数々、茶色に変色したパラフィン紙にくるまれた文庫本。マーニーは感嘆の息をついた。
「すっげ。外の年季の入った感じもいいけど、中も本が煉瓦みたいに詰まってて。いい味出してるよなあ。昭和の文豪の家みてえ。さぞかし頭の切れる、いかした爺さまだったんだろうな。俺も、ゆっくり話を聞いてみたかったよ」
そう言って笑うマーニーを見たとたん、鼻の奥を突き上げるものがあって、慌ててハンカチを探す。手にしていた鍵が音を立てて玄関の三和土に落ちた。
「ほら」
マーニーはその鍵を拾って、つぐみに差し出す。受け取るときさりげなく顔を覗かれて、泣いた顔はばれてしまったらしい。うつむいているつぐみの頭を、彼は宥めるように軽く叩く。無骨な手の感触に、なんだか小さな子供になったような気がした。
「じゃあな。おやすみ、つぐみ」
扉が閉まるまで、マーニーはその場に立って見送ってくれた。大きな両の手をジャンパーのポケットに入れたままで。