1.コロッケと烏天狗
暮れ六つどき。
町の空気を底から震わせ、響き渡る音がある。
叡生寺の僧侶が撞く荘厳な音色は、室町の昔から変わらない刻の声だ。
(もう6時か)
地下鉄駅の出口を抜けたつぐみは、響き渡る音の余韻を追うように目を上げた。
8月も終わりともなれば、空は明らかに昨日より濃い色を乗せ、暮れ行こうとしている。仕事帰りの肩掛けトートにパスケースをしまいながら、つぐみは足を速めた。駅前通りを過ぎれば、アーケードのついた商店街が見えてくる。文具屋、八百屋、肉屋に豆腐屋。昔ながらの店構えが軒を連ねる。
「トマトひと山、250円!」
「豆腐に、がんもどき。今日はこれで終いだ、どっちも80円で持ってけ泥棒!」
店じまいの時間が近づいているのだろう、威勢のいい声を掛けてくる八百屋や豆腐屋を過ぎて、つぐみが足を止めたのは、オレンジと白が縞になったビニールの庇の前。鶏肉と総菜の店、『鳥政』だ。
「へぃらっしゃい。今日は桜雲地鶏のモモ肉が100g 88円」
白い帽子に白い上っ張り、眼鏡をかけた店員が声を掛けてくる。奥の調理場では、父親だろうか、同じ上っ張りに白髪交じりの男がせっせと調理場を磨いていた。確かにモモ肉は魅力だが、つぐみの目はガラス・ケースの中を彷徨う。モモや胸肉、軟骨にせせり。総菜も豊富で、定番の照り焼きやつくねの他、蒸し鶏の入った色鮮やかなイタリアンサラダや、タレを別添えにした油淋鶏もある。唐揚げは醤油や塩のほかに、柚子胡椒、カレー、コチジャン味など何種類もあって、声を掛ければその場で揚げてくれるらしい。普段なら目移りするところだが、今日、つぐみの心は決まっている。
「すみません。鶏挽き肉のコロッケを、ひとつ」
「はい、コロッケね。食べていきます?」
白帽子は鳥の絵柄のついた小袋を開き、トングを軽やかに鳴らす。立ち食い客には慣れっこなのだろう。慌てて首を振る。
「いえ、持ち帰りで」
コロッケひとつ買って夕飯にする、しみったれた客だと思われただろうか。気後れしていると、白帽子はコロッケを鳥の絵柄の付いた小袋に入れ、飛び出さないよう上端をオレンジ色のテープで止めた。さらに小さなレジ袋に入れて手渡してくれる。コロッケひとつ、90円。割りに合わないだろうと思いながら、差し出された袋の取っ手を受け取った。
「ありがとうございました! 気をつけて!」
白帽子がにこやかに頭を下げるその向こうで、調理台を拭く父親の白髪頭も一緒に傾ぐ。ステンレスの調理場は、揚げ物をしているにも関わらず一点の曇りもなく輝いていた。
商店街を過ぎると、入母屋造の風格のある門が現れる。先ほどまで暮れ六つを伝えていた叡生寺だ。三間一戸の門を潜り、御堂の前で一礼すると、つぐみは迷いなく奥の墓地へと歩いていく。角を折れ、とある墓石の前に立ち止まる。
——木村家乃墓。
春先に他界した母方の祖父が、祖母と一緒に眠っていた。
つぐみはトートバッグに手を差し入れ、線香と着火ライターを取り出す。風上に背を向け慣れた手つきで火を点けた。線香を手向けしばらく拝むと、つぐみは再びバッグの中を探る。引っ張り出したのは、先ほど『鳥政』で渡されたレジ袋だ。乾いた音をたてて鳥の絵柄の小袋を開けば、小判型のコロッケが顔を出す。まだほのかに温かい。
(ごめんね、おじいちゃん、私ばっかり。いただきます)
つぐみは墓石に頭を下げると、頭からかぶりつく。軽く香ばしい衣を噛み切れば、滑らかな具が口の中に押し出されてくる。ふかしたじゃがいもをほどよく潰し、甘辛く煮た鶏挽き肉や人参が入っているのが『鳥政』流だ。
このコロッケは祖父の好物だった。お土産と称してつぐみたちにも買ってきて、誰より先に自分の分を平らげてしまう。土曜日に持って来てくれることが多かったので、つぐみたちの間では「土曜日のコロッケ」と呼ばれていた。
連れ合いに先立たれた祖父には子供が2人いたが、長男は仕事の都合で遠方に居を構え、実家にはほとんど帰らない。その妹であるつぐみの母は、老舗の和菓子屋の跡取り息子と恋に落ちた。父親をひとり残して嫁に行くのをためらう末娘を、『俺の為に破談になったら母さんに申し訳がたたん』と背中を押したのは祖父だった。住んでいた家を売りに出した祖父は、小さな古びた家を見つけてひとり暮らしを始めた。亡き妻の菩提寺、叡生寺までは地下鉄駅でふたつ。健脚だった祖父は地下鉄を使わず、趣味である俳句の題材を探しながら歩いて寺に通っていた。その墓参りの帰りに買ってくるのが、このコロッケだ。あたたかいうちに、と即座に手を伸ばす姉妹に、つぐみの母がいつも文句を言う。
『こんな時間からコロッケ食べたら、夕ごはん入らなくなっちゃうでしょ』
土曜の昼下がり。陽の当たる茶の間でテレビを見ながら、祖父と頬張るコロッケの味。
——思い出を辿っていたので、草履の足音に気付くのが遅れた。
「木村さんの、お孫さん?」
後ろから呼びかけられて、肩が飛び跳ねる。コロッケを頬張ったまま恐る恐る振り返ると、立っていたのは長身の僧侶だった。
「副住職、さま」
祖父の葬儀を務めた僧はまだ若く、30代くらいだ。先ほど撞木を握り、暮れ六つを知らせていたのは彼だろう。慌てて口の中のものを飲み込むが、手に持っている鳥の絵のついた小袋は隠しようがない。
「すみません、驚かせてしまいましたか」
そう言いながら、僧侶の目はさりげなくつぐみの顔と手を行き来した。
「すみません! ここのコロッケ、おじいちゃんの大好物で。よく私たちにも買ってきてくれたんです。お墓に食べ物をお供えするのはだめだから、私が……って、ごめんなさい、全然言い訳になってないですよね」
墓地の入り口には『食べ物は供えず、持ち帰るようお願い申し上げます』という立て札があった。叡生寺の同じ敷地内には、寺の経営する幼稚園がある。副住職はそこの副園長も務めており、こんな不作法を教育者である彼が許すはずがない。身の置き所がなく頭を何度も下げていると、僧の笑う気配がした。
「私も好きですよ。『鳥政』のコロッケ」
「え」
顔を上げると、僧の目は鳥の絵柄の袋に止まっていた。
「あの店の息子さん、私の幼なじみなんです。子供のころ、よく遊びに行ってはコロッケを奢ってもらいました」
意外なエピソードに目を丸くしていると、僧は墓石に視線を向けた。
「いろんなご家族がいらっしゃいます。お墓でお酒を飲む人、囲碁を打つ人、ハーモニカを吹く人。それぞれの弔いがあって、いいんじゃないですか。コロッケ、どうぞ食べてしまってください。ささ、早く」
散々促されて、しかたなく彼を納得させるためにコロッケを小さく囓る。これでいいだろう、とばかりに目を上げたが、僧侶は微笑みを浮かべたまま立ち去ろうとしない。なぜかコロッケを食べ終わるのを見届けようとしているらしい。
(うう。どうしてこうなった)
何事も穏やかに笑ってかわす、このつかみどころのない副住職がつぐみは少し苦手だった。
葬儀が終わっても寺とはなかなか縁が切れないもので、僧侶とは何度も会う機会があった。つぐみの母は、若く立ち居振る舞いの美しい彼をいたく気に入り、法事で会うたび捕まえてはお喋りに付き合わせる。家族の話はひとしきり済み、彼は遠い親戚より祖父のことに詳しくなったのではなかろうか。
俳句作りと読書が趣味だった祖父は、小さな家に山のような蔵書と共に暮らしていた。顎に白鬚を蓄えていたこともあり、ご近所では『仙人』などと呼ばれていたらしい。おじいちゃん子のつぐみは何かあれば祖父の家に逃げ込み、入り浸るうちにいつしか同じ本の虫になった。幼い頃から俳句や短歌、果ては詩、漢文まで諳んじる。落語や講談のラジオに聞き入り、祖父と同じタイミングで笑う。母親は祖父と幼いつぐみの様子をおもしろおかしく尾鰭を付けて僧に語った。
きっと副住職にはわかってしまっただろう、つぐみが家族のみそっかす的存在であることを。
ふたり姉妹の姉は、昔から明るく美人で人気者だった。年子の妹であるつぐみは常に比較される学生時代を送り、結果マイペースで自己評価の低い性格が形成された。姉は和菓子屋の跡継ぎになるべく製菓学校に入学。研修先で和菓子職人と恋に落ち、結婚した。うってつけの婿を連れてきて店も安泰、と両親ばかりか和菓子屋の常連客までその結婚を盛大に祝ったものだ。
大学の文学部を出たつぐみは、就職戦線に出遅れながらも何とか中小企業の事務職に就職した。和菓子屋家族の中ひとり異職種で、みそっかすには変わりない。何となく実家の居心地の悪さを感じ始めたころ、祖父が病に倒れた。無事退院はしたものの病弱になったことにかこつけて、つぐみは祖父がひとり暮らす家に転がり込んだ。祖父が他界した今も、荷物の整理などと理由を付けてその家に住み続けている。そんな生活もいつまで続くか。古い家はあちこち傷んでおり、先日、いっそ更地にしたほうが、と両親が話しているのを聞くとはなしに聞いてしまった。他意はなく、つぐみもいつかは結婚して新居を構える、と両親は思っているのだろう。つぐみ自身は、そんな未来は全く思い浮かばないというのに。
何とかコロッケを食べ終え、鳥の絵の小袋を折り畳んでポケットにねじ込む。
さっさと帰ろうとしたとき、一陣の風が吹いて、境内に立つ大きな白樫の木がざわめいた。
「すごい風」
つぐみが乱れた髪を押さえていると、僧侶が緑の葉を生い茂らせた白樫の梢を見上げた。
「烏天狗かな」
「は? 烏天狗?」
聞き違いかと思って顔を見ると、僧はもっともらしい表情を浮かべて語った。
「私の子供のころにはよく言われていましたよ。『風の強い日には山から烏天狗が飛んできて、叡生寺の白樫のてっぺんに止まる』って」
「……烏天狗、って牛若丸に剣術を教えたっていう、あの小天狗?」
確か祖父が買ってくれた絵本にそんな場面があった。赤い大鼻の大天狗と、鳥のような嘴を持つ小天狗。父の敵である平家を倒そうとする牛若丸の、剣術の練習台になってくれたのが烏天狗だ。飛びかかる烏天狗を躱し身を翻す牛若丸、それを見守る団扇を持った大天狗の絵が、未だに脳裏に焼き付いている。
「私より若いのによくご存じですね。この辺の男の子は、小学生くらいになると度胸試しに皆この木に登るんです。『唐栗川にかかった、橋の赤い欄干が見えるところまで登らなきゃ、男じゃねえ』なんて煽られてね。きっと登れなかったときの言い訳に、烏天狗が引っぱり出されたんでしょう」
「……副住職さまも登ったんですか?」
「もちろん。何とか兄貴分に助けてもらって、ですけど。橋の欄干が見えたときは『どうだ』って得意気に皆を見下ろしていたんですが、帰り、下りられなくなってしまって。皆大騒ぎですよ。父を呼んできてもらって、梯子を掛けてようやく下ろしてもらいました。未だに幼なじみの間では語り草です」
そつがなく落ち着いて見える副住職にも幼い時代があり、日常があるのだ。そう思うと、この動じない僧の表情もどことなく違って見える。
白樫の斑の浮かんだ木肌にそっと触れてみた。思ったよりざらついて手に痛い。これは登るのもひと苦労だろう。見上げれば枝葉の陰に、日焼けした子供たちの歓声が聞こえる気がした。
祖父が亡くなって半年。夏が、終わろうとしていた。