殺しの思想
暗い部屋だ。
パソコンの画面が映し出す、彼がいる部屋のことではない。
僕がいる、この部屋が暗い。
雨戸を閉ざした部屋で、僕は、独り、パソコンの画面を見つめている。
年を経たアパート特有の、湿っぽいカビと腐った生ゴミの臭いがする、陰気な部屋だ。
彼は、パソコンの画面の向こうで、木のイスに座り、膝の上で軽く指を組んだ前傾姿勢で、静かにこちらを見つめている。
何もない部屋だ。
僕がいる、この部屋のことではない。
彼がいる部屋が、何もないのだ。
背後の白い壁は、窓が大きく開け放たれ、眩しい陽光が部屋に射し込み、爽やかな風が窓際のカーテンを揺らしている。
白い壁と木のイス、木の床、窓、カーテン、そして、彼。
彼の部屋にあるのは、それだけだ。
連続殺人鬼――アルバート・ゲイン。
彼は、アメリカ本土で数百人を凌辱し、殺害し、死肉を食らったシリアルキラーとして知られている。
既に、死刑に処せられ、この世にはいない。
僕は、彼が僕らへと宛てたメッセージを収録した、この動画を見ている。
動画は、彼が逮捕前に自ら撮影し、動画サイトに上げたものだ。
彼が死刑に処せられたのは三十三才、動画撮影はその五年前だから、動画の彼は、二十七、八才になるだろうか?
画面に映る彼は、彫りが深い、精悍な顔つきをした好青年だ。
軽くウェーブを描き、肩までかかる金髪の隙間から覗いた、日に焼けた肌と青い目が印象的だ。
白のポロシャツにジーンズという姿で、足にはサンダルを履いている。
体つきはがっしりしているが、膝の上で組んだ指はしなやかで細長く、とても連続殺人鬼のものとは思われない。
彼は、白い歯を見せ、にこやかに笑いながら、流暢な日本語で話し出した。
「君は、君が幸せになるために、生きなくてはならない。君は、幸せになるために生きているのだ。君が幸せになれないのは、君が間違っているからではない。社会が間違っているのだ」
くだらない。
彼は、こんなことを言うために、日本語を学んだのか。
僕は、思わず失笑した。
ネットの噂を聞いて、興味半分で覗いたが、実にくだらない。
彼は、いくつか異なる言語で、同じ動画を撮影したそうだが、自分が何か大層なことでも言っていると思ったのだろうか?
馬鹿馬鹿しい。
彼は、幸せになるために、人を殺したとでも言うのだろうか?
あるいは、社会をよくするために、殺したとでも言いたいのだろうか?
実に、馬鹿げたことを言っている。
そんなことが、人を殺していい理由になるはずがない。
彼は、相変わらず笑顔のままだ。
いや、顔は笑っているが、目は笑っていない。
外国人特有の笑顔とでも言えばいいのだろうか?
あるいは、無表情?
口元を不自然に吊り上げた作り笑いを、ぺったりと顔に貼り付けている。
彼は、死刑に処せられた時も、いつもと変わらず笑っていたという。
きっと、その時の彼も、こんな顔をしていたのだ。
彼は、よく響く、透き通った低い声で喋り続ける。
「私のことを、悪人だと言う人も、いるかも知れない。でも、信じて欲しい。私が殺したのは、悪人だけなのだ。これは、調べれば分かる。私は、彼らが善人を虐める姿が、我慢できなかっただけなのだ。だから、私を信じて欲しい。君も、悪人を見逃さないで欲しい。悪人を見逃すことは、多くの善人を殺すことだ。だったら、悪人を殺した方がいいだろ?」
弁解かよ。
つまり、自分の犯罪を正当化したいだけだろ。
僕は、しきりに頭を振る。
彼は、立ち上がると画面の外へ出て、リンゴを持って来る。
リンゴを齧りながら、再び話し出す。
彼が悪人しか殺さなかったというのは、大嘘だ。
彼が老若男女を問わず、無差別に殺したことは、よく知られている。
それとも、彼らもまた、悪人だったとでも言うのだろうか?
年端のいかない子どもまで?
第一、すべての悪人を殺していたら、時間がいくらあっても足りないではないか。
悪人全員を殺せるわけがない。
善人は、悪人の仕打ちに耐えるしかないのだ。
■□■□■
しかし、それ以来、僕の頭の中で、彼の声が何度も響き渡るのだ!
あれから、一週間になるだろうか。
昼間、僕が出かけるために、ドアノブに手をかけると、ほら、聞こえてくるよ、あの声が――
『君が、この世界で幸せになれないのは、おかしい。君は、精一杯に、生きている。他人に気を遣い、機嫌を損ねないよう愛想笑いを浮かべ、やりたくもない作業をやり、理不尽な要求にも耐えている。謙遜しなくていい。君は、一生懸命に努力している。君が幸せになれないのは、おかしい』
僕は、胸元をこみ上げる不快感を感じると、慌ててトイレに駆け込み、嘔吐した。
無表情な笑みを、ぺったりと貼りつけた、死刑囚の顔がチラつく。
今朝、食べたものは、すべて吐いてしまった。
もう、何も吐き戻せない。
僕は、洗面所で口をすすぐと、ドアノブを回し、外へ出た。
いい天気だ。
初夏の太陽が、眩しく街を照らしている。
穏やかな風が、街路樹をゆったりと揺すり、道行く人々は、楽しそうに笑いながら、通り過ぎて行く。
その中を、僕だけは、彼の声とともに歩いていくのだ。
『殺してしまえばいい。邪魔になるのであれば、殺してしまえばいい。何もためらう必要はない。彼らは、君が今まで耐えた分、もう充分、幸せに生きたのだ。今度は、君が幸せになる番だ。何もためらう必要はない』
ああ、気が狂いそうだ。
つくづく、ナイフを持って来なくてよかった。
ナイフを持っていたら、うっかり、人を刺し殺してしまいそうだ。
僕は、再びこみ上げる不快感をこらえるため、道端にうずくまる。
右手で前髪を鷲掴みにし、左手で口元を抑える。
ふと、前方の工事現場に、こぶし大のレンガ片が置いてあることに気がついた。
〈ナイフがなければ、レンガ片で殴り殺せばいいではないか!〉
僕は、突如、閃いた発想に酔いしれた。
奇妙な耳鳴りや妄執、不快感も、レンガ片を拾い上げると、ピタリと治まった。
世界の隅々まで見渡せるかのような、クリアな気分だ。
また、彼の声が聞こえる。
『君は、正しい。間違っているのは、周りの人間だ。君がこれほど耐えているのに、彼らは君のために何かをしてくれたか? 彼らは、君に嫉妬し、嘲り、君が幸せになるのを邪魔しただけではなかったか? 君が、彼らのために犠牲になる必要はない。彼らが、君のために犠牲になるべきなのだ』
僕は、工事現場から失敬したレンガ片を手に持ち、歩き出す。
妙に気分がいい。
気分がよくて、笑ってしまいそうだ。
アハハハ。
『殺さなくてはならない。悪人を殺さなくてはならない。善人を救うためには、悪人を殺さなくてはならない。君のような、正しい者が救われるためにも、悪人を殺さなくてはならない』
交差点に、女が立っていた。
二十代後半だろうか?
紺のスーツ姿に、軽く茶色に染めた髪を首元で揃えている。
通り過ぎる車をじっと見つめながら、信号が青に変わるのを待っていた。
僕は、レンガ片を構えると、そっと女の背後から近づいた。
不意に、女が振り返った。
女は、僕と目が合うと、一瞬、驚いた表情を見せたが、すぐに、ニッと引きつった微笑を浮かべた。
つられて、僕も、ニヤッと作り笑いを浮かべる。
それだけだ。
たったそれだけで、僕の企みは、挫かれてしまったのだ。
いや、僕は、何を企んでいたのだろうか?
頭を掻くと、僕は、レンガ片を掴んだ手をブラブラと揺らしながら、女の側を通り過ぎた。
街は、何も変わらない。
いつもと同じように、人が歩き、車が走り、風が吹き、鳥が飛んでいる。
僕は、何をしようとしていたのだろうか?
ぼんやりしていると、また、彼の声が聞こえて来た。
『彼らを殺せば、他の人も救われるのだ。耐えているのは、君だけではない。彼らを殺せば、君と同じ境遇の人も救われるのだ。悪人を一人殺せば、何人もの善人が救われるのだ。善人が報われない社会はおかしい。悪人だけが報われる社会は間違っている』
また、交差点だ。
今度は、背広を着た男が立っていた。
四十代だろうか?
頭は禿げ、醜く腹が出ている。
男は、何かに気づいたのか、黒縁のメガネを掛けた顔をこちらへ向けた。
僕と目が合った。
男は、僕をジロッと見るなり、顔を歪め、「チッ」と舌打ちした。
瞬間、僕は、男に殴りかかった。
持っていたレンガ片で、何度も殴りつける。
男のメガネが砕け、割れた額から血が吹き出した。
逃げる男を引き倒し、押さえつけ、レンガ片を打ちつける。
何度も何度も、殴りつける。
僕の中で、何かが爆ぜた。
「痛い。苦しい。誰か、助けてくれ!」
僕は、男の絶叫とともに、彼の声を聞いていた。
『運が悪かっただけだ。彼らは、偶然、君に見つかったのだ。確かに、世界中の悪人を殺すことはできない。しかし、君が見つけた、悪人は、徹底的に叩き潰さなくてはならない。何も考えなくていい。ただ、殺せばいい。ぐちゃぐちゃになるまで、徹底的にだ。それが、正義だ』
彼の声は、まだ、鳴り止まない。