続々々 存在感の証明
僕は、黙って彼女の話を聞いていた。
視界の端では太陽が半分顔を隠してしまっていて、赤青だけでなく黄や紫のグラデーションも空を覆って幻想の呈を模している。
まるで銀河だ。
僕は図鑑に載っている銀河の写真を見た時を思い出した。自然の美しさがどうとか、そんなことは解ってなかったけど、少なくとも人間の手で作り出せる美しさではないと、その時直感したのだ。
一番星はまだ出ていない。
しかしもうすぐ、金星は夜空の先駆けとなって現れ、釣られてやってくる星たちが世界の天蓋を光で覆うだろう。
しかし僕等の町に、星は瞬かない。
――僕がさっきまで憧れていた光の世界は、闇に包まれようとしている――
二人の間には、重い沈黙が腰を据えていた。
どうして僕はここにいるんだろう。
どうしてこんな話を聞いているんだろう。
どうして・・・どうして・・・・・・
どうして彼女は、泣いているんだろう・・・・・・?
「あっ、んー・・・あのぅ。あれ?」
嗚咽をかみ殺し、彼女は自分自身を強く抱きしめ、座り込んでしまっていた。雫が、絶えることなくコンクリートを濡らしている。
理解の外。
それも、外郭を囲む堀にさえ近づけていないような状況が、逆に僕を落ち着かせていた。
彼女の発言に驚きはしたものの、最初に思ったのは、
『感情の起伏が激しい人だなぁ・・・』だった。
現状、これ以上の間抜けな感想があっていいものか。
否、断じて否。
とりあえず僕は、彼女を落ち着かせねばと思った。詳しい話もその後だ。
僕が生まれて十数年間で獲得した全ての知識から『号泣している女性をなだめる方法』を検索し、実行した結果、導き出された解は『中空で両手をわちゃわちゃさせる』であった。
数秒間のわちゃわちゃ、わちゃわちゃ、わちゃわちゃ、わちゃわちゃ。
わちゃわちゃという言葉がゲシュタルト崩壊を起こす寸前、彼女はようやく顔をあげてくれた。
予想通り真っ赤に泣き腫らしている顔を見て、泣いている女の人もこれはこれでいいな、とかSっ気が芽生えたことはとりあえずわきに置いておこう。
できれば銀のボウルに入れて野犬にでも喰ってもらいたい。
「・・・事故、だったんですか?」
彼女の話に虚偽はないと、僕は直感で確信していた。
目の前に彼女がいるという現実との矛盾は、まだ埋められそうもないけど。
彼女を信じること、これが前提だ。
「いいえ、刺し殺されたのよ」
彼女は即答した。
「事故ならまだ、何万倍もましだった。
私を貫いたナイフは刃渡り23センチメートル。背中から侵入してきれいにあばら骨の間を抜け、心臓を一突き。刺さったとき、私の目からも左胸から突き出た先端が見えたんだから、相当よね。
・・・有り難いことに、私は即死だった。彼がすぐに抜いてくれたおかげで、血がドバドバ出て、すぐ意識を失ったから。楽に死ねたのは本当に良かった。・・・・・・でも、よくないことはその後に起こった」
彼女は一旦、口を閉ざした。
言い淀んでいるというよりはむしろ、これから言うことをまとめているように見えた。彼女の覚悟の顔を見ていると、自然と僕も肩に力が入り、身構えていた。
きっと今から、とんでもない話が彼女の口から語られる。
その、覚信にも似た予感が二人の場を支配しているようだった。
やがて、その後の顛末が語られた。
「目が覚めた時、私は自分の部屋で寝ていて、体もなんともないの。だから普通に起きたけどお兄ちゃんが無視してくるから、まだ怒ってるんだって思った。学校に行ったら校門の前が騒がしくて、大人の人がたくさんいた。それで私の友達とかがなんかインタビューとかされていて、変な感じがした。
教室も重い感じの空気で耐えられなくって、その日は一日屋上で過ごしたわ。それでみんなが帰ったころに私も下校して、商店街を歩いたの。何とはなしにぶらぶらしてると、噂話をする主婦が多いのに気が付いた。私、無性に胸騒ぎがして、雑貨屋を過ぎたあたりで異変に気が付いた時にはもう全力で走り出していて・・・道端に花が添えられてるのを見た。」
・・・そういうことか。
あれ、でもゴミ箱は・・・・・・
「全てに気が付いた後は、何もかもが鮮明で、色が付いたようで・・・。いつのまにか私はお兄ちゃんと彼氏の間をびゅんびゅん往復し始めた。二人とも沈んでて、声をかけられないのがもどかしかった。
私はここにいるよ。割と元気だよ。
おなかも空かないし、空も飛べるし、案外快適だよ。・・・・・・そう、言いたくても、言えないの。
兄はふさぎ込んでたけど、時々台所で包丁を眺めてるから、心配だった。テレビでは犯人の目星もついてないって報道してるのに、いったい何を考えてるのかって。心配で。怖くて。
彼氏の方は安心だった。数日寝込んだ後、ケロッと学校に行ってて、友達とも楽しそうに・・・
。落ち込まれるより、生きてる人には前を向いてもらいたいから、こっちの方がいい。・・・って、心からそう、思った。
彼、通訳になるって夢があったから、応援してたし、・・・新しく彼女でも作って楽しく生きてほしいなって。
週末、彼は私と行くはずだった夏祭りに一人で出かけた。でも彼、見たこともない顔してて、寒気がした。
しばらく屋台を冷かして歩いて、途中から雨が降ってきてもんで、みんな帰っちゃったのだけれど彼はずっと立ってて、びしょ濡れになってもまだ突っ立ってた。
そのあと一旦家に帰ってすぐ出てきたかと思ったら、彼は彼の親友の家をたずねた。その親友もただ事じゃないのを察したんだろうね。中が濡れるのも気にせず彼を家に上げた。
私も入ろうかどうか迷ったんだけど、ほら、壁ぬけとかも簡単だし。・・・結局悩んだ挙句入ってみたわ。
そしたら彼等、抱き合ってた。・・・と思ったけど、よく見たら違った。
彼が、その親友を、刺してた。
訳が分からなくて、息を潜めて見ていたら、親友の方が机の上の鋏を手に取ったの。だから危ないって叫んだ時にはもう、・・・彼の首から血が噴き出してた。
物音で何事かと見に来た家族が血の海の二人を見つけて、大騒ぎになって、それからはもう・・・・・・。
翌日のニュースで知ったけど、私を刺し殺したのはその親友だった。その人、一度私に気持ちを伝えてきたことがあったから、ああ・・・そういうことかって納得したわ。
二人が死んだ二日後、お兄ちゃんが自分で手首を切った。
・・・でも幸い傷が浅くて、お兄ちゃんはそのまま外出した。私は勿論ほっとしたよ。この上お兄ちゃんにまで死なれたら耐えられないって思ったから。
見てると歩いてくそばから道路にぽたぽた血が垂れて線を作っていて、道行く人がみんなお兄ちゃんを見ていたけれど、そんなことお構いなしに歩き続けた。
そうしたら私の花が置いてある交差点で止まって、しばらくじっとしてたら、
車が突っ込んできて、お兄ちゃんを撥ねたわ。
警察は事故と自殺の両面で捜査してたけど、そんなこと私にとってはどうでもいい。
ただ目の前にあるのは、私の愛した男が二人、私のために命を落としたという、事実だけ。
こういうのを魔性の女と、そう呼ぶのでしょう?
私はどこで間違ったのでしょうね・・・・・・・・・
告白の断り方が下手だった?
すぐ付き合うのは無遠慮だった?
ケンカなんてしなければよかった?
時計なんか買わなければ・・・・・・?
違う。違うのよ、きっとどれも。
私みたいなちっぽけな存在のために、消えていい命なんてあるはずがないのよ。
・・・ましてそれを肯定する理由なんて・・・」
彼女の話は、行き止まりにたどり着いたかのようにぷっつりと終った。
風が強く吹いている。
木の葉が舞い、砂埃が舞い、彼女のむなしい叫びも、宵闇の彼方へ飛ばされた。
事実は小説より奇なりとはいうけれど、これは流石にあんまりじゃないか。
どうして、どうしてこんなにかわいらしいお姉さんが胸を痛めなければならないのか。
「それで、その袋が・・・」
僕は彼女の手元を指さした。
「ええ、時計よ」
「あのう。僕っ、こういう時になんて言えばいいのかわからなくって。・・・すいません、とりあえず」
「いいのよ、君は気にしなくて」
「でも。きっと、答えなんてないんだと思います。・・・えっと、あなたが探しているものは、元から無いんだと・・・そう」
「・・・・・・うん、きっとね」
僕のつたない言葉にも、彼女は親身に答えてくれた。
慰めるべきは僕の方なのに、何をやっているんだ・・・。
「私の話はこれで終わったわ。まさかここまで来てまだ、僕は霊感なんてないはずなのに君のような存在が見えるんだ、とか愚かしい発言はしないでしょうね?」
彼女はせせら笑いながら僕の額を軽く小突いた。それは悪意というよりもむしろからかいに近いもので、僕自身悪い気のするものではない。
「ええ、まぁ、はい。・・・実感はわきませんが直感は答えを教えてくれました」
そう、この話を聞きながら僕はすべてを理解した。
なぜ彼女が存在感の話を振ってきたのか
なぜ実験と称して石を投げつけさせたのか
そしてなぜ、彼女が執拗なほど僕に興味を持ったのか
「・・・同族なんですね、いわゆる」
「そうよ。あなた最初に、おつかいに来たけどしょう油が売り切れていたからここで油を売っていたといったけれど・・・ふふ、スーパーでしょう油が売り切れるわけないでしょう。それに、ベビーカーに石を投げつけられて気が付かない親なんていない。
つまり元から石なんてなかったのよ。
実は私の方から見ると、あなたが何も持っていない手で何かを投げるふりをしているようにしか見えなかったのよ。正直滑稽で笑いそうになったわ。」
実際に笑ってましたよ、お姉さん・・・・・・
「中学に入ったころから存在感がなくなったって言ったけれど、それはきっと、中学校にも入ってはいないってことね。あなたの過ごした三年間の思い出はすべて幻想、まやかし。ただあなたが脳内で作り上げた空想小説のようなものね。
そこには何の実も伴わない、虚無があるだけ。
私は一日で自分の境遇に気づいたけれど、あなたは丸々三年かかった。・・・突き詰めて言えばただそれだけのこと。もしかしたら私も一歩間違えば、あなたと同じように帰る家もなく路地裏で腐っていたのかもしれない。そう考えると恐ろしいけど」
僕は思わず破願してしまった。
「腐るって・・・・・・僕も好きでこんな・・・」
彼女の笑みは絶えない。僕も何だか力が抜けて、一息をついた。
「はぁ、理解した今でもちょっと信じられませんね。夢ならいいのにって思う僕が心の奥にいますよ」
「だとすると、とびっきりのナイトメアね。同情を禁じ得ないわ」
そう言って彼女は楽しそうにカラカラと笑った。
僕もつられて笑った。
それは、僕が彼女と出会ってから見る、一番の素直で、正直な、素敵すぎる笑顔だった。
辺りはすっかり闇に包まれていた。僕たちはおそらく体感よりも長く話し込んでいたのだろう。楽しい時間は短く感じるというが、密度の濃い時間もまた然り、ということなのだろうと僕は妙に合点がいった。
月が出ていた。
今宵は満月だ。路地裏にさす月明かりが、彼女をより幻想的に見せている。
今気が付いたが、彼女の肢体が心なしか透けているように見える。これは長い幻想から覚めたことを意味しているのだろうか。
すでに、辺りに人影はない。不安げにまたたく街灯の光にも、僕らに影はない。
「こういう時って、アレですよね。お迎えとかその類がやってくるものでは?」
僕はきょろきょろと上空を仰いだが、それらしい気配はない。
「私たちはここから動けないわ。これは定められた運命。ま、思い残すことでもなくなれば別でしょうけど。少なくとも今の私たちには、ないない」
彼女はひらひらと手を振って否定した。
「そうですか、残念だなぁ。・・・ということはつまり、早く自分が後悔してることを探さなきゃ、ですね?」
僕の態度が明らかに気に入らなかったらしい。彼女が眉を寄せて詰め寄ってきた。
「な、なんでそんなにニヤニヤしてるのよ。普通は早々に天に召されたいものでしょう。なんだかルンルンはしゃいじゃって。君、変よ」
「そうですか?」
そんな冷たい言葉を浴びせられても、僕の態度は変わらない。
今ならわかる。なぜ彼女が僕に目を付けたのか。
なぜここまで回りくどいことをして僕に真実を気づかせてくれたのか。
すべて、僕を思ってのことじゃないか。
「な、なによぅ、人のことじろじろ見て・・・気味が悪いわ。早々に昇天してしまいなさい」
今では彼女の一挙手一投足が、すべて慈愛と思いやりにあふれたものに感じられる。
僕がこうなってしまった原因は、突き止めなくちゃいけないだろう。それが普通だ。
僕はこれから家に帰り、真実を写す眼で自分と、自分の家族の『いま』を見、受け入れる。
そしてテレビなり新聞なりで三年前の事件や事故をかたっぱしに調べ上げる。これは大したことにならないはずだ。なんせ時間は腐るほどあるようだし。
そうして僕は、僕という人間の最期を突き止め、自分の人生に区切りをつけるのだろう。
でも、その時になってもまだ、僕は来たるお迎えには応じないつもりだ。
それは、きっとその時になってもまだ、僕には思い残したことがあるだろうから。
それは何故かって?
考えてもみてよ。彼女と過ごす時間はきっと、死ぬほど、楽しいだろうからさ。




