シュレディンガーライフ(4)
あっという間に、僕たちは学部生という立場を終え、僕はドクターコースに進み、牧野さんは院生になった。もともとは、僕も牧野さんと同じく院に進学しているはずだったというのに、知らない間にそんな事になっている。言うまでも無く、教授の暗躍があったのだろう。いまさら何を言った所で、どうしようもない。
実際、このまま研究者としての道を歩む事を、僕自身悪い事であるとは思っていない。
だから、まあ、文句を言うようなことではないのだろう。院生ではなく、ドクターコースで博士号を取得することにも、教授なりに意味があっての事だろうし、説明する手間が面倒くさいと思ったのなら、それはいつもの事だ。
学部生としての卒業論文は、はっきり言ってあまり出来のいいものであるとは言えなかった。結論を言ってしまえば、ただ、光速で動かした結果質量が増えました、というだけである。その結果を外に持ち出す事が出来ない以上、結果に誤りがあるという疑いは、免れる事が出来ない。
カレー記念日以来、僕たちの研究は一つのブレイクスルーを超え、順調に進んでいると言えるのだろう。加速器を改良し、改良を重ねて、問題に突き当たる度にそれを繰り返してきた。
質量は二倍、三倍、四倍、その速度に達するたびに増加する。勿論それは、実際に観測してしまえば即座に霧散する幻以上のものではない。箱を開ければ、可能性が重なり合う状況は霧散し、ネコが生きているか死んでいるか、そのどちらかに収束するように。
見通しが明るいとは言えないのだろう。勿論、そんな事ははじめから分かっていた事だ。分かっているものを追い求めるのなら、きっと僕はここまでそれに魅力や価値を見出していない。それは、相手の答えが分かった上でする告白のようなものだ。
折しもクリスマス。今日も今日とて、我らが希望を載せて、加速器は廻り続けている。中に希望が入っている。開ければ何が出てくるか。パンドラの箱のようなものだ。深く考えれば、僕たちは危険な事をしているのかもしれない。
勿論、教授の考えによれば、この規模での実験であれば危険は大きくないらしい。せいぜい、実験棟が吹き飛ぶ程度。そう言った教授の顔が笑っていたので、僕はそれを冗談であったと思う事にしている。
全くもって大丈夫ではない。原子爆弾の上に立って、爆発しなければ安全と言っているようなものではないだろうか。しかも、その気爆ボタンは、絶対に押してはダメ、と言われた幼稚園生辺りが握っているのである。
死ねば同じと思って諦めている。ドクターコースに進んだ時点で、僕の運命はある意味、教授と一蓮托生になっているのだ。もしものときは、せめて牧野さんを格好良く庇って死ぬ事にしようという事だけ、心に決めているのだ。
カレー記念日以来、僕と牧野さんの関係が変化したという事は無い。そんな暇は無いだなんて、そんな事は言いたくないのだが、忙しくてそれどころではなかったのだ。そう言えば、やる暇がなかった、なんて言い訳は、時間を使うのが下手であると言っているようなものであると、どこかで聞いた事がある。しかし、実際、それだけ忙しい時だってある。忙しすぎて、頭が回らないのだ。
例え話をすれば、忙しさがピークの時であれば、牧野さんが裸でいたとしても全く気にとめないだろう。どれだけ忙しいのか、分かってもらえたと思う。それは、それは、凄い事なのだった。
計画を立てて取り組んだ所で、計画通りに物事が進まないのは、世の常である。もしも、僕の人生が計画通り進んでいるのであれば、今頃僕は大企業に勤めて、牧野さんをお嫁さんにしている頃である。現実はままならないものだ。全くもって、どうにもこうにも。
クリスマスに二人きりと言えば聞こえはいいが、結局、ただ実験のために過ぎない。牧野さんの手を握った事さえ、僕は無い。その辺りは、僕に責任があるのだろう。むしろ、責任があるのは僕だけなのだが、しかし、人には出来ることと出来ない事がある。光粒子が増えても、それで僕の何かが変わったわけではないのだから。
「今年のクリスマスは何とも地味だね……」
「去年と変わらないと思うのだけれど」
ふうむ。
牧野さんはあっさりとそう言ったわけだけど、考えてみれば昨年もこうして二人だったのか。忙しすぎてそんな事を考える暇も無かったから記憶に残っていないだけで、別に今年が特別という事でも無いらしい。
「そう言えば、教授も予定は無いのかな」
あの人はあの人で、いい加減、良い年である。奥さんが居ても驚かない。
「あの人は研究が恋人でしょう。寂しいとか、虚しいとか、そんな事を感じる心は、ずっと昔に退化してしまっているわ」
「仙人みたいだ。退化というか、進化してそうだね」
僕がそう言うと、牧野さんは首を振った。
「そんな事は無いわ。決して一人では生きて行けないのに、それが必要ないと断じるのは、欠陥よ。そんな事は、進化ではない。必要なものすら切り捨てないと生きて行けない。あなたは、あんな風になっては駄目よ」
言われるまでも無い。牧野さんがそう断じるまでも無く、教授は、そうなりたいと思わせるような魅力は、全くと言っていいほど持っていない。実際、一年以上、二年近く一緒に居て、憧れた事は一度も無い。凄いと思う事はあっても、それ以上に、そうでない部分が多い。
まあ、僕だってあまり人の事を言えた立場ではないのだろう。ただ、若いというだけであって、教授も僕と同じ年齢の頃は、僕と同じように過ごしていたのかもしれないのだ。ドクターコースに進学したことで、同じ道を進む可能性は高くなっているような気はする。
しかし、それにした所で、教授ほどの情熱を僕が持ち合わせているとは言えないのだ。教授の行っている研究があったからこそ、今、僕はこうしているだけである。もしもの話をした所で意味は無いが、しかし、もしも教授がいなければ、僕は普通に就職していただろう。何も無い状態から、何かに熱中できるほど、僕は自分をロマンチストであるとは思っていない。
「やあ、やあ。御苦労様、何の話だい?」
暢気な顔をして実験室に入って来た教授を軽く流しつつ、僕たちは実験気を眺めた。あんた頭おかしいよ、なんて、いくらなんでも面と向かって言えることではない。血の通った人間はそういう事をしない。
「無視は酷いなあ。傷つきやすいハート、つまりグラスハートなんだぜ。気をつけてくれよ」
「教授が頭おかしいという話をしていました」
牧野さん容赦ない。
「それは酷いなあ。真っ当な人生を真面目に歩んできたというのに。税金だってしっかり修めている、社会人だよ?」
「税金を納める事は魔人間の前提条件であって、税金を納めているからと言って真人間であるとは言えませんよ」
たたみ掛けるなあ。こんなやり取りは日常茶飯事だけれど、これで怒ったりしない教授は大人だと思う。あれこれ言っておきながら、牧野さんも結構なものだ。まあ、言っても大丈夫な相手にしか、こんな事は言わないのだろう。
遠慮のない関係と言えば聞こえはいいけれど、一向に羨ましくない。こう言う所が、凄いと思っても尊敬できない所以である。
「教授も来たのだし、わたし達は休憩させてもらいましょう」
そう言って僕の手を引く牧野さん。
「おいおい、せっかく来たのに寂しいじゃないか。せめて、一人ずつ休憩しておくれよ」
背後から聞こえる教授の声に耳を貸すことなく、揃って、実験棟の外に出た。容赦ない牧野さんも素敵。
毎度毎度、こうも繰り返してしまうと予定どおりみたいな話だが、知らない間に夜になっていた。研究室に入ってからという者、僕の体内時計は完全に機能を停止してしまっているようだ。それもまた、仕方のない事なのだろう。
「寒い」
「もう少ししたらお正月だもの、当然よ」
はあ。そう考えると、今年ももう終わりという事だ。研究室に置かれている、牧野さんが準備したクリスマスツリーのおかげで、クリスマスは認識できたけれど、それどころじゃない。一年の終わりがもうやってくるのだ。
この一年、何か僕は変わったのだろうか。積み上げてきたものに意味はあるだろうか。努力はしてきたと、本当に胸を張って言えるのだろうか。現実に振り回されていただけではないと、言えるのだろうか。
むむう。思いのほか、来年に向けていろいろと考えなおさなければならないようだ。
「クリスマスか、思い出が無いのは毎年の事だけれど、そのうち良い思い出が出来るのかなあ……」
夜空を眺めて、何とはなく、そんな事を呟いた。僕ではなく、牧野さんが。なんとなく、珍しい事だった。相手の何を知っているわけでも無いくせに、珍しいなんて物言いが許されるのであれば、それは珍しい事だった。
「去年の記憶は無いけれど、一昨年は皆でお酒を飲んだりしたじゃないか」
「こんな事を自分で言いたくは無いけれど」
牧野さんはそう前置きをして、言った。
「それって、女性としてはどうかと思うわ」
ふうむ。まあ、そうかもしれない。僕は女性ではないのだから、あれこれ言える立場ではないし、良く分からないけれど。
けれど、そんな僕にだって、分かる事はある。
「でも、あれはあれで楽しかったよ。いつまでもああして居られるとは思わないけれど、いつまでもああしていられたら良いと思うくらい」
「そうかもしれないわね…」
でも、と。
僕の手を握ったまま、言った。
「楽しかったけれど、それだって何時までも続くわけじゃない。去年のわたし達がそうだったように、皆、それぞれの理由で集まる事は無くなるわ。勿論あなたは、そんな事を言わなくても、最初から分かっているのでしょうけれど」
「永遠なんてない、なんて。あんな研究をしておいて言う事じゃないけれど、今でも僕はそう思っているよ。でも、だからこそ今が楽しい。楽しかった事が永遠に続く事は無くても、去年のクリスマスを覚えていなくても、けれど、去年だって、そう悪いものじゃなかったはずだよ」
その時何をしていたのか、思いだす事は出来なくても。それでも、充実した毎日は残っている。その日々は、今日まで続いている。忙しくて、振り回されていたとしても、止めたいとか、逃げたいと思った事は無い。
自分で選んだ事だから。そしてきっと、牧野さんと一緒だったからだ。もう、そのどちらが上だとか、そんな事は言えないくらい、それは大切な事になっている。
情けないだろうか。
不純だろうか。
浮ついているという人も、居るのかもしれない。牧野さんが欠陥であると断じた教授の在り方だって、ある意味ではストイックという言葉に置き換えられるだろう。
「永遠なんてない」
反復するようにそう言った牧野さんの顔を、僕はその時見ていなかった。
真っ暗な空から舞い降りてくる雪を眺めていた。手を繋ぐのではなく、牧野さんが僕の手を引くばかりな、僕たちの関係。
「けれど、わたしは、来年もその先も、あなたと一緒にクリスマスを過ごす事が出来たら、本当に嬉しいわ」
ふむ。
牧野さんがこんな事を言う以前に、僕は考えていた事がある。あなたの事が好きだ、と。そう言うべきタイミングを、探していた。出鼻をくじかれたというか、先を越されたのだった。
出鼻をくじかれたことで、いよいよ、僕は行き先を見失ってしまう。シュレディンガー的に言えば、箱の中の猫が自分から出てきてしまったようなものである。観測者もへったくれも無く、可能性は収束してしまっているのだ。
けれど、曖昧模糊なものに挑む事なら、任せろ。
「うん。僕も牧野さんと一緒に、ずっと居られたら嬉しい」
さて、これが果たして、本当に告白になるのかどうか。そんな話を、僕や、まして関係のないそれ以外の人間があれこれ言った所で、仕方がないだろう。告白を向けられた人間が、判断するべき事なのだから。
結果については、だから、言うまでも無い。僕たちは、この程度の言葉で分かり合える程度には、一緒に居たのだ。
「……」
「……あ」
無言で見つめあって、ロマンチックなクリスマスになろうとしたその時。間抜けな声を出したのは僕である。この時ばかりは、牧野さんも恨めしそうな顔をしたのだけれど、そんな珍しい表情を見せられても、それ以上の事だった。
「なんか実験室が凄い事になっている……」
「光っているわ」
「教授は生きているかな」
「あの人は殺しても死なないわ」
そんな感じで。牧野さんは僕たちの関係が変わっても、教授に対しては容赦がないままだった。そう考えると、いつか僕もそんなふうに遠慮のない関係になる時が来るのかもしれない。一足とばしでそうなった教授を、凄いとは思っても憧れる事は、やはりないけれど。
言うまでも無く、その日、その時、永久機関の根幹部分ともいえるものが完成したわけであって、教授も、その後元気に生きて、研究を続けている。あの人は殺しても死なない、という牧野さんの言葉通り、何度かそんな危険に見舞われながらも、死ぬ事は無かった。
僕は僕で、その後教授とは別の方向に進みはしたものの、研究を続けている。永遠があるとは、未だに思えないから。だからこそ、僕は、僕だけの目的を見つける事になったのだろう。
それはきっと悪い事ではないと、僕は思うし、教授も牧野さんもそう言っていた。だからやはり、悪い事ではないのだ。
もう、あの記念すべきクリスマスから何年もたっているけれど、あのすでに遠い日々と同じく、僕は牧野さんと一緒に居る。牧野さん、と彼女を呼ぶ事はもうないけれど、時折、こんな夜にはそう呼んでしまいそうになる。
あの日開いた箱の中にあった愛は、今日まで続き、明日もまた続くだろう。けれどそれが、永遠に続くとは思わない。僕が愛しているから、そこには愛があるのだし、彼女が愛してくれるから、そこには愛があるのだろう。だからそれは、僕たちが生きている間のものだ。どちらかが生きている限りそれは続くのだとしても、いつか終わる時が来る。
それで良い。それこそが僕たちの愛なのだと、彼女も言う。
僕たちが死んだ後でも、そこには世界と共に続いて行くものがあるだろう。僕が目を閉じようとも、世界は廻っているように。地球がいつか滅びても、そこにある宇宙が無くなるわけではない。宇宙が消える時が来ても、時間はきっと止まらない。シュレディンガーの猫は、自分が生きている事を知っている。
僕たちの日々は続いて行く。あの日見た光のように、いつかその日々も闇にまぎれて消えるだろう。それでも、輝いていた日々が無かった事になるわけではなく、そこに残るものもある。例えば、それは僕の残す研究の結果であり、彼女と共に育む命だ。
物語が終わっても、世界は続く。そこにはきっと、僕たちの知らない箱があり、輝いているものがある。その箱を開けるのが僕ではないとしても、羨むつもりはない。僕には僕の宝物があり、それを開けるのは後に生きる人間の仕事なのだから。




