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シュレディンガーライフ(3)

「ちょっと、大丈夫?」

 牧野さんの声に、手だけ振ってこたえた。あまり大丈夫ではない。

 実験が始まってから、すでに半年以上たっている。序盤こそ、計画通り、予想通り、上手く推移していたはずだったのだが、途中ですっかり止まってしまっている。そもそも、教授の作成した円環型の加速器は、光の速度を超えた後の交流誌の状態を観測する物だ。光の粒子性から、光の粒子そのものを抽出すること自体は、すでに数十年前に成し遂げられている。元より光であるのならば、それはその速度で動いてしかるべきである。

 まあ、人の限界として、抽出された光粒子の中から、本の少ない数だけを動かすのが限界であったわけだが。その意味で言えば、教授の加速器は、一般的なものよりも限られた、ほんの少しだけの光粒子を加速するだけで精一杯である。これに関して言えば、状態を観測するという目的から言って、少ない方が簡単である事、より小さな規模で完成させる事、それらの事情の方が技術的な面で言うよりも大きい。

 さらに言えば、最終的に、加速した光粒子が自分自身に追いついてしまうほどの速度を得なければならないのだ。円環が小さいほど、その速度が小さく済む。

 技術的な意味での問題はクリアしているはず、なのだそうだ。教授の言葉を、丸ごと、全て信用するのもどうかと思う。半年以上、こうして同じ場所で同じ目的のために頭を働かせたうえで、そう思う。良くも悪くも、あの無精ひげは信用できない。翌日の実験開始時間を告知しておいて、それを自分が忘れて僕たちをやたら早い時間絡まっていたりする。この話だけならば、まあ、馬鹿なだけだろう。しかし万事においてその調子なのだから、プライベートにおいて距離を詰めようという気に全くならない。

 そんな教授であっても、研究においてはしっかりしている。しっかりしているというか、執念を感じる。なぜそこまで情熱を燃やしているのか、その理由は知らない。というか、興味も無い。男の話だし、個人的に興味をそそられるような話でもない。

 閑話休題。なにはともあれ、研究は今現在、立ち往生している。

 光速を超えてある程度の速度に至ると、明らかにおかしな現象が起こる。質量異常と、速度の低下。そもそも何が起こっているのか分からない、というのが現状である。教授にわけが分からないというのなら、必然的に僕にもわけが分からない。計測器の異常かと思われたが、そういうわけでもない。

 勿論、全てコントロールできる実験だとは思っていなかった。僕は自分自身の卒業論文の題材として、この辺りの事を取り上げようと考えている。実験を開始する上で、卒業論文をどうでっちあげるかという教授の悪巧みを、拒否してしまっている。その辺りは、ズルをしない事に関して一貫したいという、自分自身のための選択だった。そうした事情もあって、僕はこの問題について真剣に考えなければならない。

 質量が増大するというのが、計測器の異常でないとしたらどういう事なのだろうか。例えば、ううむ。光速を超えた世界が未知数である事は確かなのだが、しかし、この程度の速度での観測は過去に行われている。その結果を顧みれば、あり得ないはずの現象、なのだそうだ。

 個人的な意見を言うならば、あくまでも無知な素人に毛が生えた程度の若造の意見として捉えてもらいたいのだが、あり得ないはずの現象という言葉を使うこと自体、誤りだ、と思う。

 起っているのだから、そしてそれが繰り返されているのだから、それはそういうものであると受け止めなければならない。

「牧野さんは何か考えついた?」

「いいえ、さっぱり」

 ううむ。あっさりだ。その事に関して、大して悩んでいる事を感じさせない。実際の所がどうなのかよく分からないが、男二人と比較したら、その辺りは歴然である。

 あー、もう。ここ数週間に至っては、実験自体中止して、答えを探している。数値を眺めて、グラフを比較する。そんな作業をして、お互いに意見を出し合ったりしている。何せ、過去のデータが存在しないのだ。推測しようにも、全く未知の領域である。

 光粒子自体、普遍の存在である事を疑い始めると、収拾がつかないのだけれど。

「最後に家に帰ったのはいつ?」

「さあ、もう、良く分からん。思い出せん」

 もうあれだ、教授を指して無精髭というのも憚られる。髭剃りを研究室に持ち込んでいること自体、何だかこう、駄目な研究生の典型のようで自分が嫌になってしまいそうだった。そのおかげで、無精髭二号の汚名は、未だ被っていない。しかし不潔である事は、教授と同じくだ。

 自分で臭いのが分かる。牧野さんと最大限距離を保っているのは、最後に残ったエチケットだ。研究室に寝袋を放り出しておいて、今更エチケットも無いのだけれど。

 そう言えば以前、僕の使っている寝袋で牧野さんが眠っているのを見たときは、恥ずかしながらテンションが異常に上がってしまったのだった。勿論、同衾したとか言う事も無く、寝顔を観察したという事も無く、紳士的に、自分の乗って来た車の中で仮眠をとったのだった。牧野さんは時折、驚くほど無防備だ。

「増えるって何? 太っているのか、しかし太っていない。どういう事だ、ダイエットしろ」

「それはわたしに言っているわけではないのよね?」

 言っているけど言っていません。牧野さんは太っていない。

 もう、一体何事だ、光粒子。僕たちが知らない間に、間食でもしているのだろうか。痩せたい、痩せたいといいながら、お菓子を食べる事を止めようとしない女性か、貴様は。太るな、維持しろ。

「わたしに言っているわけではないのよね?」

「言っていません」

 牧野さん声怖い。背筋が凍りついた。

「あなた、一度家に帰った方がいいのではないかしら。酷い顔をしているけれど」

「それは不細工という意味ですか……」

 傷つく。心配されるほど不細工って、普通に傷つく。どんなレベルだ。笑えないというか、陰口に出来ないというか。リアルエレファントマンですか、そうですか。生まれてきてすいません。

「もう、そういう意味じゃないわ」

「そうですか、良かったです。光粒子がダイエットしてくれれば更に嬉しいです」

 牧野さんも肩をすくめた。困ったものだよ、光粒子。困ったものだよ。

「……もう良いわ。付いて来て」

 手を引かれて研究室を出る。しっかり鍵をして、教授に挨拶もする事無く、お互いの名前の横にある動向表を二人とも帰宅にした。気が付かなかったけれど、いつの間にか夜だ。考えてみれば、ここ数日、昼も夜も分からなくなるような生活をしていたのだった。

 ここはどこ、わたしは誰、そして今何時? そんな感じ。

「まったく。まだ卒論提出までは時間があるのだし、いざとなればあなたの分をみんなででっちあげてしまえば良いのよ。そんなふうに自分を追い詰めないといけない理由なんて、あなたには無いのに。教授とあなたは違うのよ、あなたはあの人のように人生を掛けて研究してきたわけでは、無いのだから」

 僕の手を引っ張ったまま、牧野さんはそう言った。

 牧野さんが言う通りだ。僕がそうしなければならない理由なんて、どこにも無い。教授のどうでもいい理由なんてものはどうだっていいのだけれど、しかし僕には、そんなどうでも良い程度のバックボーンも存在していないのだろう。

 間抜けといえばそれまでだ。熱くなって見失っていると言われれば、その通りなのだろう。遅れてきた青春なのかもしれない。

 恥ずかしい話だ。恥ずかしすぎて、今ここで止めることなんて、出来ない。

「そうしなければならない理由がないからって、それを理由にして、それを言い訳にして、自分が逃げた事を正当化したくなんかないよ、牧野さん。理由は無くても、それでも自分が決めた事だ」

 決めたことくらい守りたい。口約束ですら無い、口にしたことすら無い、そんな程度であっても。それでもきっと、初めてそうした事なのだから。

「そう、じゃあ、良いわ」

 呆れている、という感じではない。一体どんな顔をして、牧野さんがそう言ったのか、僕がその時の顔を見る事は出来なかった。いつも通り、すました顔をしていたのかもしれない。初めて聞いた声のように、見た事のない表情をしていたのかもしれない。実にシュレディンガーだ。

 しかし一体、どこに向かっているのだろうか。大学の傍であっても、僕はその辺りの地理にまったく詳しくないのだ。加えて方向音痴でもある。既に大学がどの方向にあるのか、感覚が曖昧になって来ている。

「今日も家に帰るつもりはないのでしょう?」

「答えが出たら帰る」

 僕がそう言うと、牧野さんは呆れたように溜息をついた。実際に呆れているのかもしれない。自分でもわかるが、決めた事を守る以上に、依怙地になっている。意地になって、無理をしている。

 分かっている。無理をしたからと言って何かが解決するわけではないのだ。そんな事は、ずっと前から知っていて、以前はその通り、無理をする事無く過ごしていた。もしかして僕は、ただ牧野さんに構って欲しくて、自分を良く見せたくて、頑張っている自分を見せるために、こんな事をしているのだろうか。

 そういう側面が、全くないとは言わない。というか、言えない。

 人を好きになるという事は、きっとそういう事だろう。好きだから、好きになって欲しいと思う。下心と言ってしまえばそれまでだろうけれど、それでも悪い事だとは思わない。まあ、少々不器用すぎるような気は自分でもするけれど。その辺りは、ご愛嬌だ。

「まあ、頑張る事は悪い事ではないと思うわ。非効率的だといわれても、モチベーションを保つことで、結果的には良い結果になるのかもしれないのだから。一概にあなたのやっている事を否定する事は出来ないし、そのつもりも無いの」

 僕の手を握る牧野さんの手に、少しだけ力が加わったような気がした。それまで以上に強い力で、しっかりと握られた。

「けれど、見て居られないわ。あなたの限界をわたしが知っていると、そんな知ったような事を言うつもりはない。けれど、あなたは自分が思っている以上に無理をしている」

 そんなつもりはない、なんて。そんな無駄な事を口に出したりはしない。結局、その、そんなつもりはない、という僕自身の認識が、牧野さんから見れば間違っているのだろうから。だから、この場で何を言った所で、それが僕自身の認識である限り、無意味だ。無意味で、的外れ。

 しかしどこへ向かっているのだろうか。てっきり、美味しい晩御飯を食べるためにどこかへ向かっているのかと思ったけれど。周囲に見える住宅街からは、そんな雰囲気は感じない。隠れた名店でもあるのかしらん。

「それで、どこに向かっているのさ、牧野さん。僕はこの辺りの地理情報にまったく明るくないうえに、方向音痴なんだよ。今ここで放り出されたら、大学まで帰りつけないくらいにはね」

「大丈夫よ」

 アパートの前で足を止めて、言った。

「ここがわたしの家だもの」

 そこから先、しばらくの間僕には記憶がない。後ろめたい所があって隠しているわけではなく、あまりの衝撃に何が何やらわからなくなったのだった。だから、牧野さんの部屋が何階にあるのかも、帰りに部屋を出あるまで知らないままだった。その辺りの事から、どれだけ僕が衝撃を受けていたのか、分かって欲しい。牧野さん無防備すぎ。

 そんなこんなで、気が付いたらお風呂でお湯につかっていた。果たして僕は、ここまで牧野さんの手を借りる事無く来る事が出来たのだろうか。非常に怖い想像だが、意識を取り戻す寸前まで、手を煩わせたという可能性も否定できない。体を洗った記憶は無いが、どうやら髪まで洗っているのだった。シュレディンガー的な想像に留めておく事にしよう。

 しかし、僕の記憶に残っていない時間に何があったとしても、何も無かったのだとしても、これから先、牧野さんに頭が上がらなくなる事は確かだった。今までだって、そうであったといえばそれまでなのだけれど。

 その後は、牧野さんの手料理をごちそうになって、気が付いた時には朝だった。牧野さんの料理に対する感想は、何と言うか、可愛げのある味だった。と言っておく事にしよう。勿論、牧野さん本人にそんな事は言えないのだけれど。

 何と言うか、お料理練習中といったような、そんな味だった。普段あまり隙を見せない牧野さんなので、そういう部分を見せられると、僕はがぜんテンションが上がってしまうのだった。

 このおかげというか、牧野さんのおかげというか。次の朝、牧野さんと一緒に朝食をとって、大学に一緒に歩いている途中で、僕はここ数週間頭を悩ませていた問題に関して、一つの仮説を思いつくのだった。

 光粒子が不変のものであり、計測器に異常はない。そのうえで質量が増大したというのであれば、そもそも答えは一つしかないのだ。

 増えた。

 これだけの事を考えつくまでに、どれほどの時間を無駄にしたのか、考えたくもない。しかしそのおかげで、牧野さんの手料理を食べる事が出来たのだと考えれば、無駄であったとは、口が裂けても言えないのだった。

 つまり、教授の方針は正しかったというだけの事である。世界がご認識する状況を作り出すという、少々文学じみた実験は、上手くいっていたのだった。太るのではなく、分身していたというべきだった。勝手に増えるなとは、言わないが。断わってから増えてもらえれば、より有難い。

 案外、世界にとってこの日は意味をもっているのかもしれない。一歩踏み出したというのならば、確かな一歩を踏み出したのだろう。後に、量子の坩堝と名付けられることになる、既存の物理法則を完全に無視した特殊空間形成の、第一歩だったのだから。この日がなければ、永久機関完成は無かったとすら、言えるだろう。

 しかしどうだろう、僕個人から言わせてもらえば、こう言う他ない。そんな事よりも、僕が牧野さんの手料理を食べたという事実の方が、僕にとっては重大だった。つまりこの日は、サラダ記念日である。正確に言えば、カレー記念日だ。

 可愛げのあるカレー万歳。


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