表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/4

シュレディンガーライフ(2)

「おはよう」

「……おはよう、牧野さん」

 いつの間にかそんな時間だったのか。全くもって、何と言うか、時間が惜しいという事は無いはずなのに、徹夜をしたらしい。我ながら殊勝な話である。珍しいというか、自分らしくないと思う。努力はしても無理はしないのが自分らしさだと考えていたのだけれど、どうなのだろうか。

 自分が変わったのだとは、思えないけれど。まあ良いさ、どうせ、なるようにしかならない。

「もしかしてあなた、徹夜したのかしら?」

「……どうして?」

 牧野さんよりも先に僕が研究室に居る事は珍しくない。実際数えた事は無いが、僕の方が先に来ている事の方が多いのではないだろうか。この辺りに関してあまり考えた事も無かったのではっきりとした事は言えないけれど、おそらく、それで間違いない。

「だってあなた、昨日と同じ服を着ているもの」

 なるほど。僕が不潔な学生でない限り、その通りだ。臭くないかな。

「毎日大きな違いが出るほど、お洒落なつもりも無いけれど。まあ、言う通りだよ、牧野さん。そんなつもりは無かったのだけれど、確かに徹夜だ。つまり、完徹」

「言われなくてもそうだとわかるわ、顔を洗って来る事をお勧めしたい所だもの。けれど、そうね、急にそんな事をして何かあったというのかしら?」

 どことなく興味を持っていそうな牧野さんの勢いをそぐために、一度手を突き出して制しておいて、顔を洗って来る事にした。おすすめされたのだから、そちらを優先して悪いという話は無いだろう。

 ついでに、と言うか、時間を稼いだのだからその間に情報を整理しておこう。牧野さんに説明する上で、まず自分が理解していなければならない。分かっていない事は、説明しようがないのだから。

 教授の話ではないが、やはり人にものを教えるのであれば、その事に関して十分以上に理解を深めていなければならないと、僕は考えている。世の中に他の考え方をする人もいるだろうが、概ね共感してもらう事が出来る考えであると思う。

 つまり、徹夜でいろいろと考えはしたし、目を通しはしたのだけれど、僕の理解は居まだそこまで至っていない。こればかりは、僕の能力不足であり、努力不足なのだろう。そうは言っても、僕だって何一つ理解できないほど頭の回転が遅い人間であるわけでもない。普通の頭を普通に働かせた結果、少しくらいは理解できた、と言ってしまえばそれまでなのだが。

 何にせよ、そもそも理解するための材料が全くない状態ならばともかく、この研究室に入って以来、過去の論文に目を通す位の事はしていたのだ。それらの行動は無駄になることなく、今につながっている。

「それで、考えはきちんと纏まったかしら?」

 研究室に帰ってくると、牧野さんはそう言った。どうにも、僕の考えはお見通しだったらしい。恰好が付かないことこの上ないが、そんな事は無かったような顔をして、再び自分の席に腰かけた。

「コーヒーはいかが?」

「……いただきます」

 コーヒーをブラックのまま飲むと、ようやく目が覚めたような気がした。そう言えば、昨晩は無断外泊と言う事になるのだろうか。別にそれで電話がかかってくるほど、両親とべったりというわけでもないが、連絡くらいは入れておくべきだったかもしれない。

 ふうむ。しかし、一晩こうして全く確認する事の無かった携帯電話に、何一つ着信やメールが残っていないと言うのは、あれだ。なんというか、ブルー。思わず、新着メール問い合わせをしてしまいたくなる。

 まあ良いや。……あまり良くないけれど。一度深く考えてみる必要はあるが、この際おいておくしかない。

「それで、実験に参加させてもらえる事にでもなったのかしら?」

「その通りだよ」

 僕がそう言うと、牧野さんは目を丸くした。どうやら、分かっていて言ったのではなく、冗談の類だったらしい。牧野さんが教授をどういう人間であると捉えていたのかがひそかに明らかになった。

 牧野さんとの付き合いも数年になるが、こんな顔は初めて見たなあ。驚いた顔もキュート。その顔を見る事が出来ただけで、徹夜した甲斐があったというものだ。無駄ではなかったどころか、おつりがくる。

「それでまあ、全体の概要について理解しておくように言われたからね。完徹するほどのつもりは無かったけれど、気が付いたら朝、だ。今日から実験だと言われているから、それに関しては仕方がない。早く理解しておくにこした事は無いのだし、まあ、その辺りはいろいろだ」

「ふうん……」

 言葉を濁したのは、気恥かしい事を言いそうになったからだ。いくら僕だって、義務感だけで徹夜したりはしないだろう。ズルはしなくても、誤魔化すことくらいは心得ている。高校時代、やってもいない課題について、あれこれと理屈をつけて取り組んだ事にした記憶だって、あるのだ。

 一つ反省するのなら、言葉を重ね過ぎて言い訳じみてしまったことくらいだ。全く、後ろめたい事も無いのに、何をやっているのだか。

「それで、資料がそれ?」

「そう」

 手渡すとそのまま牧野さんは資料に目を通し始めた。どういえば、何となく優秀だと思っていたけれど、実際のところ牧野さんが頭の良い人であるかどうかは知らないのだった。

 あまり人を計るような事を言うものではないが、イメージが先行していた事に今更気が付いた。こういうのを、惚れた弱みと言うのだろうか。結果次第では、恋は盲目、あばたもえくぼ。しかし今の所、何とも言えない。

「まあ良いわ。あなたのまとめた所を先に聞かせてもらえるかしら」

 ……。

 まあ、最初からそのつもりだったのだし、構わないのだけれど。何だろう、この、何かが引っ掛かるような感覚は。上手く使われているような気がしてしまうのだが。

 そんな事無いよな?

「うん。まあ、牧野さんも分かっている通り、教授の研究は、永遠に近づこうとしている。永遠というものが存在しているのかどうかは、ともかく、だ。しかし、言うまでも無く永遠というものは現代において、捉えどころのない不在のものだ」

「そうね。この研究室に居ながら、こんな事を言うのは何だけれど、現代の科学において、それらしからぬ研究テーマであるとは思うわ」

 牧野さんは頷いてそう言った。そして、僕もまたそれについて同感である。牧野さんが言ったから、というわけでなく、それこそ、そんな研究をしている人間が居ると知った時からそう思っていた。

 永遠。なんという曖昧な存在なのだろうか。物事に始まりというものがある限り、それは存在できない。しかし、未来においてそれが存在し得ないとは、誰も言えない。

 存在しないものに対して、存在否定を立証することは難しい。そう言ってしまえばそれまでだが、そんな事は、僕からしてみれば詭弁に過ぎない。不在証明を成し遂げた後で、そういう事は言えば良い。と、思う。

「あいまいで、科学的というよりは文学的な概念だと思う。そして、過去の論文を読めば、教授は同じく文学的な概念からそれにアプローチしようとした事が分かる。みんな大好き、箱の中の猫」

「量子論でしょう。在るのか、無いのか。その曖昧な可能性を実現することで、本来ありえない物理法則の外にあるものまで、手を伸ばそうとした」

 結果は、言うまでも無く失敗である。失敗していなければ、今ここでこんな研究はしていないだろう。

 反永久機関をつくる上で、一体どのような事を考えたのかは分からない。結局そこに至るよりも以前に、頓挫していたのだから。箱の中に曖昧な状態をつくること自体、出来なかった。

「失敗を経て、研究方針は大きく変化する。永遠を求める上で必要であると、教授が考えた曖昧な状態。それに関しては棚上げになったのか、まあ、その辺りの思考は結局分からないのだけれど、とにかく別方向に進んだ。既に確立されている、光の速さを超えるという分野において、その現象を縮小し、小さな場所でそれを実現しようとした」

 現代において、光の速度を超える研究はすでに終えられている。光の速度を超えることで過去にさかのぼる事が出来るという話は、結局否定されたのだった。その実現によって、いくつかの論文が価値を失っただけの話である。

 光の速さを超えて動いた所で、結局それは光を置き去りにして動く事が出来る以上の意味を持たない。例えば、光以上の速さをもって後ずさりしたならば、光が追いついた時自分の後姿を見る事が出来るだろう。

 それはある意味、過去を目にしたと言えるのかもしれない。しかし、結局それは自分に関してだけの事である。どこまで言った所で、過去の人間と言葉を交わすことは不可能なままだ。

 未来において、別の方法が発見されない限り、タイムマシンは完成しないのである。

 だからむしろ、この発見に至るまでの副産物こそ重要だった。例えば、エネルギー効率の話であったり、そこまでの速度を観測するための観測機であったり、実験を行う上で実現されたそれに耐える強度を持った構造であったり、だ。

 それは一つの技術革新である。

「なぜそんな研究をしたのか、目的を考えれば疑問だったのだけれど。一体、実際のところどうなのかしら、まさか、とりあえず何かしらの手柄を立てるため、なんてつまらない事ではないでしょう?」

「つまらないとは直截的な言い方だね。まあ実際、普通ならそこまで考えての事だと、そう言いたいところなのだけれど。教授に関しては、その辺りがどうなのか断言できない。計算した上の事であっても不思議ではないし、何も考えていなくてもおかしくは無い」

 昨晩、長時間では無くても、実際に会話をしたことで、教授に関する僕の抱く印象は余計に混乱したのだった。考えているようで考えていないのか、考えていないようで考えているのか。

 分かったような事ばかり言っているだけなのか、全て見通して知らない振りをしているのか。

「何はともあれ、それは一つの成果として完成している。実際、その結果得られた権利で、教授にもある程度のお金が入ってきているようだしね」

「その言い方だと、その研究も、最終的に行きつく所は同じのようね」

 結局、目指す所は変わらない。

 そもそも、その光速に関する研究もまた、そこに至るのだと考えるべきだ。実際、今日から始まる実験についての説明には、その辺りも含まれていた。

 光速と、曖昧さと、永遠。

「それで、一体どういう意味になるのかしら。この実験レポートから読み取れるのは、光速を超えた粒子によって曖昧さを生みだす。そんな所だけれど、けれどそんな事、実際に可能なのかしら?」

「そのための実験だろう。ここからはまあ、憶測。それに正直言ってあまり科学的な物言いではないのだけれど」

 そんな前置きをしてから、僕は一晩、眠ることなく考えた事を口にした。

「教授の作った、光速実験機。あれは、円形状に循環することで、光速に至るまでの助走を行うものだった。実際、今までに行われた光速実験では、その方法がとられる事は無かった。理由は簡単な話で、円状に循環させてしまえば、正確なデータを取ることが難しいからだ。何せ、光の速度で動いているのだから。その辺りを解決したのが、昨年までの教授の実績。けれどまあ、この実績も本来は助走距離の省略程度にしか、受け取られていない」

 牧野さんが頷いているのを確認して、先に進む。まあ、ここまでは前提条件、憶測が介在するのは、ここからだ。

「円状に循環する粒子。さらにその縁の半径が短いという事は、どうなるのか。多分それは、疑似的にではあれ、存在が多重化してしまうという事ではないかと思う。光速を超えて後ずさりすれば、自分の後姿を目にする事になるように」

「けれどそれは、実際に自分が分裂しているわけではないわ。ただ、そう言う風に錯覚してしまうだけであって、あくまでもそれは触れる事の出来ない幻覚のようなものよ」

「自分が動けばそれまでだろう。でも、シュレディンガーの猫の話。あれだって、言ってしまえば箱を開けるまでもなくネコは生きているか、死んでいるかしている。要は、観測者が観測できない状況をつくる。それを目指しているのではないかと思う。それこそ、科学的ではない言い方になるけれど、世界が認識を違えてしまうような、そんな速度にまで至れば、それは曖昧な状態と言えるのではないか」

 円状であるのは、始まりと終わりを曖昧にするためであり、助走距離を際限なく用意するため。

「おおむねその通り、お見事だよ。まさか一晩、眠る事無く考えているとは思わなかったけれど。やっぱり君は、思った以上という事かな。まあ、そこまで文学めいたもの言いで語ってくれるとは思わなかったけどね」

 いつの間に入って来たのか、僕と牧野さんの後ろから、人を食ったような声が聞こえた。褒められているのか、皮肉を言われているのか。この無精ひげの男のもの言いこそ、曖昧の極みだ。

「理解が追いついた所で、実験を始めようか。この実験はやる事は無いのに時間だけはかかるぜ。きみたちは院まで進むのだろう?」

 僕と牧野さんが頷くと、教授は何が嬉しいのか分からないが、とにかく嬉しそうに言った。

「とりあえず、今年の論文をでっちあげるための悪巧みでもしながら、お互いに自己紹介でもしよう」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ