シュレディンガーライフ(1)
大学4年生ともなれば、当然卒業研究をしなくてはならない。僕だってその例外ではなく、研究室に配属され、さあこれからどうしようかと、そう思っていた。地方の三流大学であっても、やはり卒業論文を仕上げなければ卒業する事は出来ない。
しかし僕だって、それなりの興味があってこの学科に入学したのだ。これまでの大学生活三年間だって、遊び呆ける事も無く、カンニングに頼ることも、過去の問題に頼ることも無く、単純に勉強をして過ごしてきた。まあ、カンニングも、過去の問題も、人脈があってこその話ではある。サークルにも入っていない僕では、過去の問題を用意する事は出来ない。僕の友人は、自然とうそういう人間が集まったらしく、たとえ単位を落としたとしてもカンニングはしない、そんな友人ばかりだった。
大学三年間の中で、大した思い出も無い。バイトと学校。その記憶ばかりである。実験のレポートに追われ、試験対策に追われていた。ズルをしないという事は、自分で決めた事だったけれど、それを守り続けたのは、ただ単に意地だったのではないだろうか。今になって、そう思う。
結局のところ、真面目にそんな積み重ねをしてきたけれど、誰に誇るべきものでもない。結果としては、何一つ変わらなかったと言っても良い。自分は学生時代、不正を行う事だけはありませんでした、なんて。そんな事は、就職試験の面接ですらいうべき事ではない。建前としては、それが当り前なのだから。
就職活動は、大学院に進学したいと両親に伝え、それを了承されることで、先送りした。就職に対して、今はまだピンとこない。そんな程度の理由で大学院に進学するのは、少々おや不孝のような気もしたけれど、院に進むにあたって学力試験を免除される程度の成績は修めていたし、実際、ピンとこない云々が無かったとしても、院に進学することを考えていなかったわけではないのだ。先の事を考えれば、一年後や二年後、世界情勢の変化によって就職活動はもっと厳しいものになると言う事も考えられるだろう。実際にそういった事に関して、教員や両親からくぎを刺されもした。だがどうだろうか。考えてみればこうも言えるのではないだろうか、そんな事を気にかけた所で、どうしようもない。世界が滅ぶ事を気にしているようなものではないだろうか。あやふやなものを気にかけて、手をこまねいている事には意味がないと思う。
しかしだからといって、何か明確な目標があるという訳でもない。明確に研究をしたいと思うような事が、今まで無かった。だから結局、僕のそういった考えは漠然としたものに過ぎなかったのだろう。
考えてみれば、この大学に入った事だって、そういう漠然とした動機からだった。なんとなく興味のある分野があって、何となくそれに関係していそうな学科があって、とりあえず地元の大学であったから。入学試験の、面接においてはいろいろと立派な事を言って、今こうして4年生まで過ごしてきた。しかし、あの時、面接を担当した教授達に言った言葉は、全てただの言葉に過ぎなかった。心にも無い事を言っていただけであった。今にしてみれば、酷く見え透いていて、あの時の事をもしも話題にされたならば、顔から火が出るかもしれない。
でも、この大学に入った事も、この学科を選んだ事も、後悔しているわけではない。学んだ事は、やっぱりそれなりに興味のある事だったし、だからこそ勉強をつづけることだってできたのだ。しかし、そんなこと以上に、僕がこの学科を選んで良かったと思う理由は別にある。牧野さんがこの学科に居たからこそ、僕はここを選んで良かったと、そう思っている。
見え透いているというか、軽いとは思う。くだらないと言われた所で、それに対して何か言い返す事は出来ない。見え透いているし、軽いし、くだらないと言われても仕方がない。けれど、くだらないことだと自分から言う事だけは無い。
研究室で、僕と牧野さんは基本的に二人だけである。基本的に僕たちの教授は奇矯な人として知られている。変わっているという事を通り越して、変人扱いを受けているようなタイプでもある。
まあ、この辺りに関しては、はっきり言って教授の表面上の情報を超えるものではない。知っている人であれば、みんな知っているというものだ。僕だって、この研究室に配属されるよりも前から、そんな事は知っていた。
研究室へと実際に配属されて、牧野さんと二人きりだと知った後で、教授に関して実際に学んだ事もまた、それと変わらないものばかりだった。変わり者としては、変わり過ぎていて、ほとんど意思疎通できていないと言うのが現状である。どうやら噂通り、卒業論文に関して学生に碌に手だしさせないと言う噂までが本当であるらしい。良いのか悪いのかは、少し考える必要があるだろう。
そんな、考えようによっては一年間自由な時間が約束される、楽々、悠々自適な研究室であっても人気がないのは、あまり就職に関して強い研究室ではないから、だそうだ。この事に関して、僕は牧野さんから聞くまで知らなかった。つまり、一年後なりに行う就職活動は、自分の力でどうにかしなければならないらしい。困った話ではあるが、これに関してはそもそも、自分の力でしなければならないと考えていたので、そこまで落胆は無かった。
考えようによっては、それを知りながらこの研究室を希望した牧野さんの理由の方が、僕にとっては重要だろう。教授と顔を合わせたのは、配属されたその日一度限りだった。まあ、その日だけでも顔を出してくれただけありがたいと思う事にしよう。
現状、まさにそう考えるほかないような状況である。
特にやる事は無いが、毎日研究室に顔をだし、置いてある資料や昨年の卒業論文に目を通している。碌に研究はしていないと言うが、しかし、実験に関する数字などはしっかりと残されていた。興味深くはあるが、結局何を目的とした数字なのかは、分からなかった。仕方がないので、卒業論文と比較しながらいろいろと読み解いていたりもする。
結果は、良く分からんと言う所だ。
こんなことなら、もっとしっかりと勉強しているべきだったと思う。三年間、ズル一つせずにやってきたとは言っても、例えば授業の内容についてすべて、余すところなく、取りこぼしなく学んできたとは言えないのだ。言ってみれば情けない話だ。二十年ほど生きてきて、何一つ修めていないと言う事ではないだろうか。何かに興味があったとか、そんな事を言いながら、それは結局何一つ決めてこなかった事に対する言い訳なのではないだろうか。
後ろめたさをこれまで感じてこなかったわけではない。何をどう言った所で、僕はあやふやな興味に従ってここに居るだけであるし、そこに無理やり理屈をつけて周囲を納得させて来たに過ぎない。その、あやふやな興味にしたって、牧野さんが居る事に比べてしまえば、その次に来るような理由に過ぎない。
まあ、それが悪い事だとは思わないけれど。それが悪い事だと言われたら、それは仕方がない事だ。
分からないとは言っても、全く分からないわけではない。結果的な所を行ってしまえば、卒業論文を全て読んだ後でそれでも意味が分からなければ、呼んだ人間にあまりにも知識が欠如しているか、書いた人間にそれを伝える意思がなかったかだろう。まあ、卒業論文なんてものを呼んだのも初めての経験だったので、その辺りについてあまり偉そうなことを言えるわけではない。
しかし、文章にして、目的や手順を掻き、そのうえで結論と課題を載せているのであれば、やはりそれはある程度知識を有していない人間にも伝わるようでなくてはならない。伝わらなくても、伝わったような気にさせるくらいのものは、無くてはならないのではないだろうか。少なくとも、分と何ついているのであれば、文章として成立して居て欲しいと思う。
ううむ。しかし考えてみれば、どうだろう。専門書を読んでいるようなものだと思えば、ある程度事前知識が必要とされても仕方がないのだろうか。その辺りについてはどうでもいいのか。
少なくとも、この研究室にあった卒業論文は、理解させるという点においてあまり優しいとは言えなかった。そして、全てに目を通したわけではないが、僕が見た限りでは、全て教授が書いているのではないだろうか。きっちりとした、読みやすいとまでは言わないが、几帳面な文章ではあるが、所々に散見される癖が共通しているように感じた。そして、そんなあやふやなもの以上に、どうにも学生らしからぬ文章であるとも感じたのだ。比較対象として、他の研究室にあるかこの論文についてもいくつか見せてもらったのだが、やはりどうにも、研究室にあった論分と比べると、それらの論文は稚拙であり、それ以上に情熱や理解を感じなかった。
比較対象があって初めて分かった事もある。
密度である。殊、この事に関して僕の研究室にある論文は、どの研究室にも劣る事は無かった。実験を碌にしないとか、一年間やる事がないとか、そんな事を言われている研究室には、似つかわしくない。
案外、真面目に研究を行っているのかもしれない、とも思った。しかし、過去に残された実験の結果に目を通していれば、それが間違っている事も分かる。どの実験も、どの数字も、本来それで何かの結果につながるわけではない。
研究室に置いてあるパソコンを、隅から隅までさらってみると、そこには昨年の研究生が残した記録があった。研究室対抗のイベントなどが行われており、どうやらそこには参加していたらしい。その片隅に、一年間の感想のような文章が残されていた。内容は押して測るべしという所だ。
一年間のフリータイム。そうそうに就職活動を終えたらしい彼は、少なくとも優秀であるか、要領がいいか、運がいいか、そのどれかなのだろう。運がいい事と、容量が良い事に、大抵の事は含まれる。その後はどうやら、研究室でのんびりと過ごしていたか、そうでなければ遊んでいたようだ。
僕の主観を抜きにしても。いや、そんな前置きに意味があるのかは、分からない。ここはひとつ、僕の主観を出来るだけ抜いて、さらに最大現代三者的に見れば、この記録なのか感想文なのか判別の付かないだ分を残した先輩が、あの論文の中の一つを残したとは、到底考えられない。
偏見があるだろうか。しかし、あった所で、どうだろう。そもそも、前言を翻すと言うよりも、いっそ卓袱台返しするような事を言えば、この事に関して客観的な意見は必要ないのだし、僕がどう結論付けるのかどうかが大切なのだ。
うん。どうせ結論を出すには、答えを聞くしかないのだ。接触不可能に等しいわが愛すべき担当教授に話を聞きに行くよりも、この事に関してはかりそめであっても、結論が出たのだとした方が良いだろう。無駄な手間は、省略である。そもそも、危機に言った所で正直に答えてもらえるかどうかも分からない。どんなに教授が変わり物であるとは言っても、研究生に卒業論文を提出させない事が良くない事であるということくらいは、理解しているのだ。だとしたら、その隠ぺい工作の結果ともいえる卒業論文に関して、ありのままを白状するのかどうかは、半々と言った所である。
普通なら、半々どころの話ではないのだが、その辺りが教授は変わっていると言われるその所以だろう。日ごろの行いは重要である。それでいて、広義にやってくれば、まともと言うか、平均以上と言うか、大学で一番分かり易いかもしれない抗議を行ったりもする。それだけならば、研究室にも人気が出るのだろうけれど、現状はまあ、ごらんのとおりだ。
教授は、他の教授達と比べれば格段に若い。勿論、僕たち学生から見れば中年であり、若いとは言えない。しかし、比較対象として教授達を持ってくれば、若いと言えるだろう。あるいは、若いと言わざるを得ない。
こうして暗くなるまで研究室に残っていると、どうやら教授も同じくこんな時間まで残っているらしい事は分かる。あるいは、今尋ねていけばいろいろと話を聞く事も出来るだろう。しかし、聞いたところでどうなるだろうか。今のところ僕は教授の研究に関して何を理解しているというわけでもない。
勿論、大まかな概要については理解している。あやふやではあっても、興味があった事だ。この大学を、この学部を、この学科を、この研究室を選択したのは、全てこのあやふやな興味のためだ。あるいは、このあやふやな興味に明確な輪郭をつけるためだ。その結果どうなるのかどうかを、掴む事は出来ない。輪郭のないものを掴もうなんて、それ自体、土台無理な話だ。
ふうむ。
ここまで考えて、僕は腕組みをしてため息をついた。牧野さんは暗くなる前に研究室を出たらしい。女性なら当然である。田舎の大学では、学生は車か原付きで通うのが常なので、送っていくとかそういう話にはならない。牧野さんは一人暮らしなので、もしかしたら歩きで通っているのかもしれないけれど、車で通っている僕が送って行こうと申し出ても、どうにも下心が見え透いているようで気後れしてしまう。実際、下心がまるっきりないわけではないので、余計に気後れする。
いや、この際牧野さんの事は関係ない。自分で考えているのだから、包み隠さず正直なところを言おう。
教授の研究テーマは、いろいろと小難しい話を置いておけば、永遠。勿論、そんな物は無い。しかし、近づく事は出来る。反永久機関をつくって見せると豪語する。そんな研究に、数年前の僕は興味を持ち、数年間それは変わらなかった。その数年間で耳にした、様々な悪評を差し引いても、それだけは変わらなかった。もしも、この研究室における今年の研究生が僕一人であったとしても、後悔する事は無かっただろう。
だったら、決まっている。考えるまでも無く、やるべき事は明らかだ。言い訳のように、こんな所で過去を掘り返しているだけでは、何一つ掴めるものは無い。あやふやな興味に輪郭を手に入れたいと言うのなら、そのためには実像に近づかなければ始まらない。ウジウジと、一年間同じことを繰り返しているだけで、自分から手を伸ばすことも無く無為に過ごすのなら、一年間自由に過ごした我が先輩よりも救えない。潔さがないだけ、余計に救われない。行動しなければ、何も変わらない。変えるためには、まず、変わらなければならない、自分が。
深呼吸をして席を立ち、研究室から出て、教授の部屋の前に立つ。もう一度深呼吸して、決意を新たに。ノックすると軽い返事。扉を開けると、山積みになった資料の間から無精ひげの顔がのぞいた。
「やあ、遅かったじゃないか。時間を掛け過ぎだよ、君は」
扉を開けてそう言われてから、一体何を言えば良いのか考えてこなかった事を思い出した。自分の間抜けを思い知るまでも無く、教授は言葉を重ねた。まるで数年間待ちわびた友人が、やって来たように。
「君みたいな子がいつか現れると思ったけれど、タイミングが良いもんだね。運命なんて信じないけれど、巡りあわせってものはあるもんだ」
何を言っているのか分からないがやはり変わっている。碌に話した事も無い学生相手に、旧来の友人のように話しかけてくる。それが、本当の意味でのファーストコンタクトだった。
馴れ馴れしいと言えばそれまでだが、その辺りも変わり者らしく、普通ではない。正直言って、これで教授でなければ即座に距離をとりたいタイプである。馴れ馴れしいのは、するのもされるのも得意ではないと言うよりも、嫌いである。
言葉一つ一つが、研究者らしくない。そう思ったが、そうでなければ永遠を目指す研究なんてしないだろう。そんな物は無いのだと、研究者でなくても知っている。そんな物を目指す事は無いと、文学者だって知っている。
けれど、そんなあやふやでつかみどころのないものを目指す人間が居たっていい。人にものを教えるためには、それを十分以上に理解していなくてはならない。だとしたら、目の前の無精ひげは誰よりもそれを理解しているだろう。若くしてその立場にある以上、それに相応しい程度には優秀なのだろう。何よりも年齢がものを言うこの国で、それを覆しているのだから。
あやふやなものを求めているのは、お互い様。選ぶべくして選んだもので、自分自身が選んだ事だ。この研究室に居る事も、今こうして、無精ひげの前に立っている事も。誰かに言われてそうした事ではない。誰かにくぎを刺された上で、こうした事だ。
だからまあ、自業自得。この時の選択が、その先の人生すべてを決めてしまうような、大きな流れの中に、文字通り巻き込まれてしまうものであったとしても、それを誰かの性にする事は出来ない。勿論、誰かのせいにする事も無いだろうけれど。それだけはしてはならないと、心に刻んでおくとしても。
人生は案外簡単に決まってしまうものだと知ったのは、すべて決まってしまった後になっての事だ。
今の僕は、目の前の無精ひげが言う事に目を白黒させるばかりで、牧野さんに対する恋とか、自分の抱いていたあやふやな興味についてとか、そう言う事に対して何一つ確かな結果を残しているわけでもない。
物語が加速して行くものだとしたら、つまり最初は遅いという事だ。遅いからこそ、速くなる余地がある。だからまあ、こんなもの。一歩踏み出しただけに過ぎないのだし、文句は受け付けない。




