―episode 0:顔面(ビジュ)はすべてを凌駕する―
僕は退屈していた。
父がこの国のトップであることを盾に、上流階級の人間だけが住むことを許されたドーム都市で、幼少期から現在――成人の年に至るまで何不自由なく育った。
幼い頃から徹底的に教育を叩き込まれ、今は父の後継者として秘書業務に徹している。
立場や育ちだけでなく、顔も悪くない。恵まれている部類だろう。
そのせいか、女は放っておいても集まる。
僕の名前を呼び、笑い、気まぐれに去っていく。
一歩外に出れば、歓声が先に立つ。
彼女たちの期待を裏切れば、それはそのまま僕の価値を損なう。
だから「こっちを向いて」だの「ウインクして」だの、くだらない要求にも一応は応える。
「ありがとう、市民たち」
白い歯を見せて手を振ると、黄色い歓声が弾けた。
後ろを歩く他の議員たちは訝しげに警備員へ目配せし、群衆を散らせる。
「本当に、人気者だねえ」
一人の議員が口を開いた。――神崎 恒一。長く父の側近として仕えているが、その実力は金魚のフン程度だとも囁かれている。
実際のところは知らないが、顔の広さだけはこの派閥でも群を抜いている。
「――そうですね。期待は、裏切らないつもりです」
神崎は一瞬だけ目を細め、それから口角を上げた。
まるで、何かを確かめたかのように。
「頼もしいねえ。さすがは後継者だ」
その言葉に、ほんのわずかな違和感が混じっていたことに、その時の僕は気づかなかった。
その夜、父の執務室に呼ばれた。
重厚な扉の向こう、薄暗い部屋の中央で、父は書類に目を落としていた。
顔を上げることなく、低い声で言う。
「最近、外に出ることが増えたそうだな」
「視察の一環です。現場を知らなければ、何も判断できませんから」
「……そうか」
短い沈黙。
ペンの走る音だけが、やけに大きく響く。
「神崎が、お前のことをよく見ている」
「光栄ですね」
「褒めてはいない」
その一言で、空気がわずかに冷えた。
父はゆっくりと顔を上げ、僕を見る。
感情の読めない、いつもの目。
「お前は“見られる側”だ。忘れるな」
「承知しています」
それ以上の言葉はなかった。
けれどその時、確かに――
何かが静かに、動き始めていた。
数日後。
僕は一人で外に出ていた。
いつものように、歓声と視線を浴びながら。
「こっち向いてー!」「今日もかっこいい!」
適当に手を振り、笑顔を作る。
それだけで満足する彼女たちを横目に、僕は内心でため息をついた。
(退屈だ)
どれだけ賞賛されても、何も満たされない。
全部、予定調和だ。
その時だった。
「――危ないっ!」
誰かの声と同時に、視界が歪んだ。
鈍い衝撃。
足元が崩れる感覚。
気づいたときには、地面ではなく――
何か硬い床に叩きつけられていた。
「……っ」
息が詰まる。
視界が暗転する。
遠くで、誰かの声がした気がした。
目を開けたとき、そこは見たことのない場所だった。
鼻をつく臭い。
湿った空気。
天井は低く、ひび割れている。
(……どこだ、ここ)
体を起こそうとした、その瞬間。
「動くな」
冷たい声。
首筋に、ひやりとした感触が当てられる。
刃物だと理解するのに、時間はかからなかった。
ゆっくりと視線を上げる。
そこにいたのは――一人の少女だった。
薄汚れた衣服。
手入れされていない髪。
けれど、その奥にある目だけが、異様に澄んでいる。
迷いも、怯えもない。ただ真っ直ぐに、僕を見下ろしていた。
「金、持ってるなら全部出せ」
無機質な声。だが、その顔は――
(……なんだ、これ)
思考が一瞬止まる。
場違いなほど整った輪郭。汚れの中にあってなお隠しきれない、均整の取れた美しさ。この場所に、存在していい顔じゃない。
「聞いてるのか」
刃が、わずかに近づく。
普通なら、恐怖を感じる場面だろう。だが――僕は、思わず笑っていた。
「……面白いな」
「は?」
「君みたいなのが、こんな場所にいるなんて」
少女の眉がわずかに動く。
「頭おかしいのか」
「かもしれない」
喉の奥で、笑いがこぼれる。
久しぶりだった。
何もかもが予定外で、
何一つ思い通りにならない状況。
「名前は?」
「は?」
「君の名前だ」
沈黙。
数秒の睨み合いの後、少女は舌打ちした。
「……灯」
「灯、か」
その名前を、口の中で転がす。
やけにしっくりきた。
「いい名前だ」
「はやく金出せって言ってんだろ」
「悪いけど、今は持ってない」
「……は?」
空気が一気に張り詰める。
「じゃあなんだその服。金持ちだろ」
「まあね」
「ふざけてんのか」
「ふざけてない」
少女――灯の目が、明らかに険しくなる。
今にも刃が振り下ろされそうな距離。
それでも僕は、目を逸らさなかった。
むしろ――
(……いい)
心の奥で、何かがはっきりと動いた。退屈だった世界に、初めて差し込んだ異物。
「灯」
「……んだよ」
「君、この街から出る気はない?」
一瞬、空気が止まる。
「は?」
「こんな場所にいるには、もったいない顔してる」
「……意味わかんねえこと言ってんじゃねえ」
「本気だよ」
灯の目が、わずかに揺れた。ほんの一瞬だけ。けれど確かに――何かが引っかかった。
その隙を、僕は見逃さなかった。
(ああ、なるほど)
理解する。これはきっと――初めて手に入れる“退屈じゃないもの”だ。
「君は、ここにいるべきじゃない」
「……」
「連れ出してあげるよ」
静かに、そう言った。灯の刃が、わずかに震えた。




