7 大人になったら
「散歩しようよ」
そう汐璃に誘われたときに、新しい賭けを持ち掛けられたのだと、なんとなく分かった。食事を終えた誉は、足を怪我した汐璃を背負って、波打ち際を歩いた。平日の汀に人影はなく、空と海の境界線が溶け合いそうな快晴の下で、死にたいと言った汐璃の声が、潮騒のようにリフレインして耳朶を打つ。海に呼ばれている気がした。
だが、この青さに身を投げなくても、逃げられるのだと信じたかった。浜辺に漂着したチェリーピンクに気づいた誉は、汐璃を砂浜に下ろして、それを拾った。汐璃も瞠目すると、ばつが悪そうな顔をした。
「海に落ちたから、見つからないと思ってたのに」
「見つからなかったら、伯母さんの所に行くのをやめる気だった?」
誉は、拾い上げたそれを、汐璃に手向けた。
「さっき、死にたいって言ったけどさ」
見つけたピンヒールは傷だらけで、踵のファーも海水を吸って萎んでいる。けれど不思議と、初めて見たときよりも親しみを覚えた。
「約束しよう。大人になったら、また会うって」
今の誉たちには、居場所を自由に決める力はないかもしれない。それでもいつか、慣れないピンヒールを履いた覚束ない足取りではなく、地に足をつけた大人になるまで、約束があれば生き抜けるはずだ。
汐璃は、くしゃりと顔を歪めた。水面で照り返した太陽の光が、美貌に透明な波紋を描く。揺れる軌跡が琥珀色の瞳を照らしたとき、汐璃は誉と目を合わせた。
「うん」
細い指が、ピンヒールに触れたときだった。「誉っ」と呼び声が聞こえた。防波堤の向こうから、見知った顔ぶれと警察官が下りてくる。血相を変えているのは中学校で担任を務める男性教師で、隣には誉の母もいた。汐璃の姿に驚いているので、誉だけを迎えに来たようだ。汐璃の迎えは、まだ来ない。午後になれば、来るはずだ。走ってきた母は、手を振り上げて、誉の頬を強く張った。
「誉、どうしてっ……」
「如月さん、落ち着いて」
担任教師が仲裁に入ったが、「先生。自分で話します」と誉は言った。髪を乱した母は、目に涙を溜めていた。曲がりなりにも向けられた愛情と、それを認められなかった自分自身を、今ならきちんと受け止められた。
「迷惑かけて、ごめん。でも」
母の表情には、さまざまな絵具を混ぜたような葛藤が渦巻いていた。こんな顔をしていたのかと、目から鱗が落ちた気分だった。相手を見ているようで見ていなかったのは、誉も同じだったのだ。
「僕は、息苦しかったんだ」
多くを語るには、時間が必要なのだと思う。今はただ、一歩を踏み出せたことが嬉しかった。泣き崩れる母に寄り添う誉を、離れた所から汐璃が見ていた。夢の終わりのように優しい笑みを浮かべてから、いつの間にか波に攫われていたピンヒールを見送り、裸足のまま歩き出す。警察官と担任教師に、汐璃はおとなしくついていった。
こうして、誉と汐璃の逃避行は、静かに幕を閉じたのだった。




