5 賭けと救難信号
緩く蛇行した車道と堤防に沿って、海と隣り合う道を無言で歩いた。久しぶりの会話は、汐璃が「今、何時?」と訊ねたときだ。疎らな街灯に照らされた腕時計は、酔っ払いにぶつかった際に割れていた。秒針が今も時を刻んでいることが、不幸中の幸いだろうか。目を細めた誉は、累積された罪悪感で痛む肺に、酸素を取り込んで返事をした。
「午前二時過ぎ」
「誉は、帰りなよ。家に電話したら?」
汐璃の声からは、刺々しさが消えていた。誉は、首を横に振った。
「できない。スマホを持ってないし」
「……貸してあげたいけど、あたしも今日は持ってないから」
「本当は、スマホを買ってもらえるはずだったんだ。クラスメイトの直輝に、模試の成績で勝てたら」
俯いていた汐璃が、顔を上げた。驚きを湛えた瞳を一瞥してから、誉は前を向いた。冷えた夜風が、頬をぴりぴりと切りつける。直輝の明るい声が、脳裏で木霊した。
――『受験に備えろって、親がうるさくてさ。誉と同じ塾なら楽しそうだし、こっちでもよろしくな』
十二月から塾に入った直輝は、めきめきと頭角を現した。成績を急速に伸ばし、陽気な性格も相まって、塾の人気者になった。成績表を見た母が、笑わない日が増えた。
「僕は、賭けをすることにした。直輝に勝てたら、これからも家族の期待に応える。負けたら、今の生活を投げ出してみる。僕は二番で、一番は直輝だ。僕は、あいつに勝てないんだ。……でも、汐璃に会わなかったら、僕は家出を結局やめてたと思う」
「あたしに会わなければよかった、ってこと?」
「逆だ。会えたから、賭けに負けた結果を貫けた」
汐璃がいたから、どこにも行けないはずの誉は、ありきたりな地獄に抗えた。汐璃はしばらく黙ってから「あたし、怖がりなんだ」と呟いて、彼方の漁船を眺めた。
「あたしの母親、再婚するの。相手は悪い男で、機嫌がいいときは不気味なくらいに優しくて、機嫌が悪いときはすぐに手が出るクズ。そいつが家に泊まるときは、あたしは友達の家を転々《てんてん》としてた。援助交際ごっこは、そのときに知った。成功すればお金になるし、失敗しても逃げきれたら度胸がつく。あたしは失敗したことがないけど、成功したこともないんだ。本当は、いつもおじさんの隙をついて逃げてた。財布を持ち出せたのも、今日が初めて。いつか逃げられなくなる日が来るって分かってたけど、あたしは強くならなきゃだめなの。あの家から逃げられるように」
「そんなことをしても、度胸なんかつくわけない」
「知ってるよ。馬鹿だって言いたいんでしょ」
「怖いことを繰り返しても、怖いことに慣れるわけじゃないって言いたいだけ」
「それも、詭弁?」
むっとした誉が「違う」と否定すると、汐璃はくすくすと笑い出した。ピンヒールが、歩道の砂利を蹴飛ばした。
「あたしのお母さんも馬鹿だから、殴られても一晩で許しちゃう。あたしの身体には、そんな人の血が流れてる。だからあいつは、あたしと二人きりになりたがるのかな」
背筋が、ひやりとした。汐璃が皆まで言わずとも、『悪い男』のたくらみが読めた。
「母親には、言ったのか?」
「無駄だよ。悪口を言うなって怒鳴られるだけ。奇跡でも起きない限り、お母さんはあいつから離れない」
「頼れる人は、いないのか?」
沈黙が、流れた。ややあってから「いないよ」と答えた声のぎこちなさで確信した。
「本当は、いるんだろ?」
「……あたし、あいつの言いなりにならないと、お母さんがひどい目に遭うって脅されてるの。スマホも、あいつに取られた。本気で逃げたくても、逃げられないよ」
「それでも逃げたいから、汐璃はここにいるんだろ」
「……ひばり伯母さん」
汐璃が、囁いた。潮風が黒髪を嬲り、インナーカラーを際立たせる。
「死んだお父さんの、お姉さん。お父さんが、私のお母さんと結婚するのを大反対してた人。お父さんのお葬式で、これをもらった」
通学鞄から生徒手帳を取り出した汐璃は、中に挟んだ紙片を開いてくれた。硬質の字で書かれた住所は、ここから遠く離れた地方都市だ。
「この番号に、電話をかけよう」
「でも、スマホが」
「電話ボックスがある。ほら」
前方には海を臨む公園があり、電話ボックスが白い光を放っている。汐璃の瞳に、動揺が浮かんだ。大人の妖艶さが消えたあどけなさで、首をしきりに横に振る。
「こんな時間に、電話に出るわけない」
「じゃあ、賭けをしよう。もし出てくれたら、汐璃はひばり伯母さんの所へ行く。出なかったら、好きにしたらいい」
電話ボックスに入ると、誉は汐璃に受話器を持たせた。硬貨を投入して、遠い町へ救難信号を送る。公衆電話は、コール音を鳴らし続けた。
「誉の負けだよ。奇跡なんて起きっこない」
汐璃は硬い笑みで受話器を置いたが、誉は受話器を上げさせると、公衆電話に吐き出された硬貨を再び投入した。真剣にダイヤルする誉を、汐璃はもう笑わなかった。
「賭けに勝つまで、僕はここを出ない」
電話が繋がったのは、それから間もなくのことだった。




