1 二人きりの逃避行
二十二時を知らせるチャイムが鳴り、とうとう人生の岐路に立たされた。
白い壁、白い机、ホワイトボードと、漂白液に浸けたような白尽くしの教室から、生徒たちが賑やかに退室する。如月誉も、席を立って廊下に出た。壁に貼られた中学二年生の模試の結果を、眼鏡のレンズ越しに凝視する。
成績の上位ランカーの名前を五位から順に目で追って、頂点に到達する前に嘆息した。重い閉塞感が、気道を狭める。丸めた拳が、制服のズボンを巻き込んだ。
「誉、帰ろうぜ」
陽気な声に、背中を気安く叩かれた。振り返ると直輝がいて、誉と同じ学ランの上に学校指定のピーコートを着込んでいる。
「僕は、居残るよ」
「またか? 最近多くないか?」
呆れ顔の直輝を、遠くから塾の友人たちが呼ぶ声がした。「おう」と応じた直輝は、屈託なく笑って「じゃ、また明日、学校でな」と言い残して帰っていく。誉はがらんどうの教室へ戻り、ひとまず宿題をこなしながら、これからどこに行こうか考える。一時間後に塾が閉まったときも、名案を思いつけないままだったが、明日の朝に中学校の教室で、直輝と会うことだけはないだろう。
塾が入ったビルを出ると、駅に続く帰り道ではなく、繁華街に続く道を選んだ。途中で何度か角を曲がり、行く当てもなく歩き続けた誉が、都心の眩さで淘汰された二月の星を、何げなく見上げたときだった。
夜空から、ピンヒールが降ってきたのは。
弧を描いたシルエットを、薄汚れたネオンが照らし出す。チェリーピンクに輝く靴の踵には、兎の尻尾のようなふわふわのファーがついていた。丸っこい愛らしさとは対照的に、十センチはあるだろうヒールは鋭利で、それでいて身体を預けるには心許ない華奢なフォルムが、空中でくるりと回っている。
遙か頭上からの落とし物は、路地裏でカツンと跳ねて、見るからにいかがわしいホテルのくすんだ外壁にぶつかり、跳ね返り、歩道に弾き出されて、ローファーを履いた誉の爪先に転がった。ぎょっとした誉は、顔を上げた。
路地裏に設けられたホテルの螺旋階段を、小柄な人影が駆け下りていた。黒いガウンコートが翻り、紺色のセーラー服が現れる。蝶のはばたきのように揺れるスカーフは桃色で、誉の通う中学校の女子生徒だと判った。横顔が見えた瞬間、度肝を抜かれた。
隣のクラスの風早汐璃だ。セミロングの黒髪に、燃える夕日のようなオレンジ色のインナーカラーを忍ばせた少女を、学校で知らない者はいない。
風早汐璃も誉に気づき、ぱっちりとした目を瞬かせた。螺旋階段の終わりは、格子がついた扉で塞がれていて、汐璃はあと一階分の高さまで下りたところで手すりに飛びつき、ひらりと全身で乗り越えた。
「受けとめて!」
唖然とした誉は、反射で腕を拡げた。魔法をかけられて身体を操られた気分だった。シャンプーの甘い匂いが飛び込んできて、黒髪に紛れた橙が流星のように煌めいた。抱き留めた衝撃を殺せず路上に倒れると、すぐそばには汐璃の物と思しき通学鞄と、さっきのピンヒールの片割れが落ちていた。
「クソガキがっ」という頭上からの罵声を受けて振り仰ぐと、階段の三階あたりに中年の男が立っていて、腰にタオルを巻いただけのあられもない姿で激怒している。汐璃は、素早くピンヒールを履いて通学鞄を拾い上げると、転んだままの誉に囁いた。
「あたしと、逃げてくれる?」
――なんて、無茶な要求だろう。それなのに、柔らかいソプラノで告げられたら、呆れも、反発も、恐れも、混乱も、潮が引くように薄らいだから不思議だった。
差し出された手のひらを、躊躇を振り切って掴んで立ち上がる。誉は、セーラー服とピンヒールというちぐはぐな格好の少女を連れて、舞台裏のような路地裏から、ネオンで華やかな表舞台へ逃げ込んだ。




