第八話:銀の追跡者と隠蔽の裏側
無機質な白に塗りつぶされた、内閣府直轄・対魔特別対策室――通称『ホワイト・ホール』の地下指令センター。
そこには、地上の喧騒も、初夏の柔らかな陽光も届かない。ただ、精密機器が発する微かな電子音と、空気清浄機が循環させる、薬品の混じった硬い大気の流れだけがあった。
白銀冴華は、カプセル型の医療用チェアに深く身を沈め、天井を見つめていた。彼女の細い右腕には、数本のチューブが接続されている。
「……くっ、……」
彼女の奥歯が、ギリリと音を立てる。チューブを通じて血管へ直接送り込まれているのは、政府が異界の技術を解析して生成した『高濃度人工魔素アンプル』だ。
現世の人間にとって、魔素は本来「異物」でしかない。それを強制的に肉体へ定着させるプロセスは、凍りついた鉄の針を血管の中に流し込まれるような、あるいは神経を内側からヤスリで削られるような激痛を伴う。
冴華の美しい銀髪が、供給される魔素の輝きに反応して微かに発光する。彼女が纏うこの髪の色は、過酷な強化手術を繰り返した結果としての、いわば「存在の変質」の証左だった。
「供給率、九十八パーセントで安定。……バイタル、許容範囲内です」
モニター越しに告げる研究員の声も、冴華にとっては遠い世界の出来事のように聞こえていた。今の彼女には、自分の心臓が刻む不規則な鼓動と、回路に蓄積されていく暴力的なエネルギーの熱量だけが、唯一の現実だった。
「……これで、また少し、寿命を削ったわね」
冴華は自嘲気味に呟き、チューブを抜いた。針穴から流れるのは、鮮血ではなく、どこか青みがかった不自然な液体だ。それを拭い去ることもせず、彼女は立ち上がった。
「冴華。体調はどうだね」
指令室の奥から、低く、湿り気のない声が響いた。
ホワイト・ホール総司令官、霧崎零。彼は大型のホログラムスクリーンを指し示し、冴華を手招いた。
「……問題ありません。いつでも出撃できます」
冴華は軍人らしい簡潔な言葉で答え、スクリーンの内容に視線を走らせた。そこには、数日前の新宿三丁目、および昨夜の建設予定地に残された「魔素波形」の解析データが表示されていた。
「……これは?」
冴華の蒼い瞳が、鋭く細められた。スクリーンの中央、赤く点滅している領域がある。
「新宿の現場。そして、昨夜の亡命に伴う特異点の中心部。……どちらの現場にも、共通の、そして極めて特異な残滓が確認された。これを見てくれ」
霧崎が操作すると、データが三次元の波形図に切り替わる。
「通常の悪魔や、派遣されたヴェルトが放つ魔素は、現世の環境下では数分以内にノイズとなって霧散する。だが、この波形は違う。……まるで、環境中の不純物を排除し、一滴の無駄もなく、そこに存在を固定しているかのようだ」
「……真正の魔力。あるいは、それに極めて近い、完成された回路……」
冴華の口から、驚愕の色が漏れた。ホワイト・ホールが多額の予算と数多の犠牲を払って作り上げた『人工魔素』は、どんなに安定させても、現世の空気の中では「漏れる」。蛇口の壊れた水道のように、常にエネルギーが揮発し、使用者の肉体を焼き続ける。
しかし、目の前のデータが示す主は、現世にいながらにして、完全に魔素を制御し、再利用させているのだ。
「この波形の主――我々はこれを『未登録の特異能力者』と仮定した。……冴華、君に頼みたいのは、この人物の特定と確保だ。……場合によっては、素材としての回収も許可する」
霧崎の冷徹な眼鏡の奥に、昏い欲望が光った。彼らにとって、異能者はもはや守るべき同胞ではなく、国家の資産としての素材に過ぎない。
「……特定の手がかりは?」
「現場から数ブロック離れた地点の、古い防犯カメラが、一瞬だけ面白いものを捉えていた。……あの『死神』の噂話と一致する」
スクリーンに映し出されたのは、粒子の荒い白黒映像だった。
そこには、大きな楽器ケースのような袋を背負い、制服を崩して着こなした少年の背中が、鮮明に映し出されていた。周囲の映像が激しいノイズに塗れている中で、その少年とその足元だけは、まるで世界のピントを強制的に合わせているかのように、不自然なほどクリアに描写されていた。
「……高校生? ……いえ、この感じは……」
冴華は、自身の右腕に刻まれた、あの不快な熱を思い出した。
自分たちのように無理やり力を引き上げられた者ではない。この少年は、生まれながらにして、この世界の理を書き換える「権利」を持っているかのように見えた。
「彼の通う候補地は、既に絞り込んである。……冴華、君の任務だ」
「了解しました。……速やかに遂行します」
冴華は腰に帯びた対魔高振動ブレードの感触を確かめ、薄暗い地下室を後にした。
翌昼、東京都内の、とある私立高校。
昼休みの校内は、生徒たちの笑い声と、購買パンを奪い合う活気に満ちていた。どこにでもいる、退屈で、平和な光景。
その校門のすぐ外。不自然なほどに黒光りするセダンが停車し、中から「不審なガス漏れ調査員」を装った作業服姿の男女が降りてきた。
その中の一人、キャップを深く被り、銀髪を後ろに隠した少女――冴華は、校舎を冷徹な視線で見上げていた。
「……周囲、情報の歪みは検知されません。ターゲットは、本当にこの中に?」
冴華が通信デバイスに囁く。
『間違いない。波形の一致率は九十二パーセントだ。……冴華、あまり力を出しすぎるなよ。真実を知らぬ一般人には、君の放出する存在圧は、それだけで精神を壊しかねない毒だ』
霧崎の声が耳元で鳴る。
「……分かっています」
冴華は自身の魔素出力を極限まで絞り、校門を潜った。
しかし、彼女が歩を進めるたびに、周囲の生徒たちの間に「異変」が起きていた。
「……ねえ、なんか急に寒くない?」
「気のせいかな。……なんか、心臓がバクバクするんだけど……」
冴華の傍を通り過ぎる生徒たちが、一様に首を傾げ、不快そうに自身の身体を抱える。
人工魔素という「異物」を詰め込んだ冴華の存在は、どれだけ隠そうとしても、この乾いた現世の空気においては、強烈な不協和音を奏でていた。真実を視る術を持たない人々の脳は、その違和感の正体を理解できず、本能的な恐怖や不調として処理してしまう。
冴華は、その周囲に撒き散らされる毒を自覚しながら、機械的な足取りで校舎の裏手へと向かった。
その時。校舎の屋上、空を間近に感じる特等席で、九条灰世は寝そべっていた。
耳を劈くはずの喧騒も、彼にとってはただの心地よい環境音に過ぎなかった。……はずだった。
(……なんだ、この汚いノイズは)
灰世は、半開きの灰色の瞳をゆっくりと動かした。
彼の「解像度」の網膜が、校庭の隅を歩く一人の「作業員」を捉えた。
周囲の風景が、カサカサとした低画質の砂嵐として映る中で、その少女だけが、異質な情報の塊となって浮き上がって見えていた。
少女の体内。皮膚の下を流れるのは、瑞々しい魔素ではない。それは、無理やり圧縮され、継ぎ接ぎされた「粗悪なエネルギー」の回路だった。至る所から情報が漏れ、周囲の空気を黒く焦がしながら、今にも自壊しそうな不気味な脈動を繰り返している。
(ホワイト・ホールの使い走りか。……わざわざ、こんな安っぽい扮装までして)
灰世はため息をつき、柵に身を乗り出した。
彼の瞳の中に、無機質な幾何学紋様が浮かび上がる。
灰世は、自身の指先に微かな、本当に目に見えないほどの魔素を集中させた。
――そして、それを空に向けて、パチンと弾いた。
校庭。
突然、冴華の脳内に、鋼の針で突き刺されたような激痛が走った。
「……っ!? ……ぐあ……っ!」
彼女は膝をつき、心臓を抑えた。
人工魔素の回路が、外部からの微細な干渉に過剰反応し、一瞬だけオーバーフローを起こしたのだ。
「……今の……何!? 誰かが……私の回路を、指で突いた……?」
冴華は額に脂汗を浮かべ、必死に視界を泳がせた。
だが、周囲には怯える一般生徒たちが遠巻きに自分を見ているだけだ。
ふと、彼女の直感が告げ、屋上を見上げた。
そこには、フェンスに肘をつき、退屈そうに校庭を見下ろしている一人の少年の姿があった。
逆光で見えにくいが、その瞳。
醒めた灰色の瞳と、視線が重なった。
「……九条、……灰世」
冴華の口から、無意識にターゲットの名前が漏れた。
少年は、彼女の動揺を嘲笑うように、ふっと小さく口角を上げると、そのまま屋上の奥へと姿を消した。
「待ちなさい……!」
冴華が走り出そうとした瞬間、通信デバイスから霧崎の鋭い制止が入った。
『追うな、冴華。……データは十分に取れた。……面白い、実に面白いな。彼の能力は、我々の想像を遥かに超えた精密さを持っている。……あえて泳がせろ。彼が周囲にどのような影響を及ぼすか、それを詳細に観察するのが先決だ』
「司令! でも、彼は今……!」
『命令だ。……撤収しろ。チェス盤をひっくり返すのは、まだ先の話だ』
冴華は、悔しさに唇を噛み締めた。
彼女の蒼い瞳には、いま去っていった灰世の圧倒的な力の差を見せつけられた屈辱が、冷たく燃え上がっていた。
放課後。
灰世は、いつものように慶介の誘いを断り、一人で校門を出た。
背負った楽器ケースの重み。カノンに指摘された「進化する剣」の脈動を、手のひら越しに感じる。
街の空は、今日も抜けるように蒼い。
だが、灰世の「目」が捉えるその青の裏側には、無数の組織の監視プログラムと、徐々に侵食を強める異世界の影が、複雑に絡み合っていた。
(……平和な日常、か。……いつまで持たせられるかな、舞)
灰世は空を見上げることなく、再び「掃除屋」としての硬質な仮面を被り、家路を急いだ。
聖域を護るための戦いは、もはや路地裏だけの秘密ではなく、太陽の下にまでその毒を撒き散らし始めていた。




