第七話:調律師の警告と放課後の色彩
チョークが黒板を叩く乾いた音と、窓の外から入り込む運動部の掛け声。
午後の教室を支配する微かな眠気は、九条灰世にとって、世界で最も「密度の薄い」情報の集合体だった。
机に肘をつき、開かれたままの英語の教科書を眺める。灰世の「解像度」を通してみれば、教科書の紙質は繊維レベルで毛羽立ち、印刷されたインクの乗りさえもが不均一なノイズとして視界に飛び込んでくる。周囲の生徒たちの話し声は、意味を持たない低周波のうねりとなって鼓膜を滑り落ちていく。
平和だ。あまりに平和すぎて、肺の奥がむず痒くなる。
その不快感の正体は、灰世の右腕にあった。制服の袖に隠された皮膚のすぐ下。一昨日の夜、異世界の探索者ヴェルトから奪い取った濁った魔素が、いまだに排熱しきれずに血管の奥でくすぶっている。
(……焦げた味が、消えないな)
灰世は無意識に右の拳を握り、開いた。
奪った魔素は灰世の体内の回路によって強引に変換されているが、不純物の混ざった他人のエネルギーを取り込む行為は、身体にとって「質の悪いガソリン」を無理やり流し込まれたようなものだ。神経の末端がジリジリと灼け、口の中に鉄錆のような、ザラついた金属の味が居座り続けている。
これが、この乾いた世界で「掃除屋」として生きるための、必要経費だった。
「おい、ハイセ。お前、さっきから一文字もページ捲ってねーぞ。……さては、昨日のバイトで脳みそまで使い切ったか?」
隣の席から、遠慮のない声が飛んでくる。相馬慶介だった。
彼は茶髪をかき上げ、にやにやとした笑みを浮かべて灰世を覗き込んでいる。彼のような一般人にとって、灰世の倦怠感は単なる寝不足か、多忙なアルバイトの疲れにしか見えない。その無知こそが、灰世が全力で守り抜こうとしている「日常」そのものの象徴だった。
「……お前が朝からうるさくて集中できないだけだ、相馬。進路希望調査、もう出したのか」
「へっ、そんなの白紙で提出に決まってるだろ。俺の将来は、その時の気分で決める主義なんだよ。……それより、今日の放課後こそゲーセン寄ろうぜ。乃亜ちゃんも誘って、新作の格ゲーの対戦相手になってくれよ」
「悪いが、今日も先約がある。……家で待ってる奴がいるんでな」
「またかよ! お前、マジで一生ブラコンやってろ!」
慶介の呆れ顔を見て、灰世はふっと小さく口角を上げた。その僅かな笑みさえも、慶介には「いつもの無愛想なハイセ」として処理される。彼との境界線は、このくらいの精度で繋がっているのが、一番居心地が良かった。
◇
放課後のチャイムが鳴り響くと、灰世は騒がしい教室から逃げるように校門を後にした。
新宿の華やかな表通りから数キロ。古びた商店街の路地裏、雑多なジャンクパーツが山積みになった一軒の店が、灰世の目的地だった。
看板には『御堂リサイクルショップ』とあるが、そのシャッターは半分閉じられており、一般客を招き入れる意思は微塵も感じられない。
灰世は慣れた手つきで重いシャッターを押し上げ、薄暗い店内へと足を踏み入れた。
店内に充満しているのは、古いオイルと焦げたオゾンの匂い。そして、物理的な重さを持った魔素の「残響」だ。
「……カノン、いるか」
灰世が声をかけると、奥の作業スペースから激しい火花が散り、サンダーの停止音が響いた。
「――入ってくる時はノックくらいしなよ、灰世。私の『ベイビー』に傷がついたら、あんたの命じゃ償いきれないよ」
煤けたオーバーオールにゴーグルを着用し、小柄ながらも引き締まった肉体を持つ女性が、不機嫌そうに顔を上げた。御堂カノン(みどう・かのん)。裏社会でも指折りの武器調律師であり、灰世の剣の数少ない理解者だ。
「また、無茶な使い方をしたね。……その右腕、回路が真っ赤にオーバーヒートしてるじゃないか」
カノンはゴーグルを額に上げ、鋭い視線で灰世の袖を睨めつけた。彼女の瞳もまた、一種の特殊な解像度を有している。それは「モノの健康状態」を見抜く、職人の眼。
「……掃除のついでに、外来種のゴミを少し取り込みすぎた。……それより、こいつを見てくれ」
灰世は背負っていた楽器ケースを重厚な作業台の上に置き、中から無骨な鋼の長剣――『レーヴァテイン』を取り出した。
剣を置いた瞬間、カノンの表情が凍りついた。
「……嘘だろ。何だ、この『波形』は」
彼女は震える指先で剣の刀身に触れようとしたが、指が触れる直前でパチリと青い静電気が弾け、弾かれたように手を引いた。
「灰世、あんた……この剣に何を食わせた? その、ヴェルトって奴の魔素を還流させたってのは聞いたけど、それだけじゃないだろう」
「……どういう意味だ。俺は普通に、いつも通り振っただけだ」
「普通、ねぇ……」
カノンは呆れたように溜息をつき、作業台のメインモニターを操作し始めた。解析プログラムが走り、剣のステータスが波形として表示される。
その時、モニターの隅で赤いアイコンが点滅しているのに灰世は気づいた。
「……なんだ、その通知は。お前も出会い系でも始めたか?」
「失礼なこと言うんじゃないよ。……これ? ああ、アメリカの『派手好きな馬鹿』からの定期連絡だよ」
カノンは面倒くさそうにアイコンをタップした。表示されたのは、英語と日本語が混じった、やけにハイテンションなテキストログだった。
『Hey, Kanon! 日本の魔素相場が荒れてるって聞いたが、カイトは生きてるか? まだあのボロ剣を振り回してるなら、そろそろ寿命だろ』
「……ニコラスか。あいつ、まだ生きてたのか。借金取りに追われて死んだと思ってた」
灰世は懐かしい、そして少しばかり頭の痛くなる名前を見て、苦笑した。
ニコラス・ヴァレンタイン。かつてとある現場で競合し、殺し合い、そして腐れ縁になったアメリカのデビルハンター。
「しぶといよ、あいつは。ゴキブリ並みの生命力さ。……ほら、ここを見てごらん」
カノンが指差したログの続きには、追伸としてこう書かれていた。
『P.S. 極上の“薬”が手に入った。カイトの妹の症状にも効くかもしれないレア物だ。今度、土産に持っていく。……俺が生きて日本に入国できればの話だがな! HAHAHA!』
「……『薬』だと?」
灰世の目が鋭くなった。
「あいつの言うことだ、話半分に聞いておきな。どうせまた、得体の知れない魔界の密輸品か、ただのビタミン剤だよ」
カノンは肩をすくめたが、その瞳には僅かな期待の色も混じっていた。彼女もまた、舞の状態を――そしてそれを支える灰世の限界を案じている一人だからだ。
「……余計なことしなきゃいいがな。あいつが動くと、ろくなことにならない」
灰世はそう言い捨てつつも、胸の奥で微かな希望の灯がともるのを否定できなかった。もし本当に、舞の「器」としての負荷を和らげる薬があるのなら。
「ま、あいつの土産話は置いといて。……本題に戻るよ、灰世」
カノンは表情を引き締め、再び剣の解析データに向き直った。
「解像しなよ、灰世。この剣はもう、ただの武器じゃない。あんた自身の情報……あんたの中に眠る、人とは違う『何か』と共鳴して、勝手に進化を始めてる」
カノンは作業台のライトを最大出力にし、剣の根元にある複雑な幾何学紋様を指差した。
「北域の『鋼鉄公国』で禁忌とされた古い伝説がある。……『魂を吸う鋼』。持ち主の力を増幅する代わりに、その者の存在定義を少しずつ奪い、最終的には武器そのものが主人に取って代わる。……ドワーフの爺さんたちが、酔った勢いで話してたお伽話だと思ってたけど……」
カノンは灰世の瞳を、射抜くように見つめた。
「これ以上、こいつに食事をさせるな、灰世。あんたのその特異な力……いつか、この剣に食い尽くされるよ。そうなったらあんたは、人間としての認識を失い、ただの斬撃を放つためだけの『情報の抜け殻』になる」
カノンの警告は、いつになく重く、真剣だった。灰世が何者であるか、彼女にも正確なところは分からない。だが、彼の持つ力が、この現世の理を逸脱した危険なものであることだけは、職人としての直感が告げていた。
「……修理はしてやる。不純物を濾過して、少しはマシにしてあげるよ。でもね、次に持ってきた時、あんたがまだ『自分自身』でいられる保証は、私にはできない」
灰世は、黙って自身の灰色の瞳を閉じた。
剣が生きている。自分が削られている。その事実は、不思議と恐怖ではなく、奇妙な「納得」として灰世の胸に落ちてきた。あの家に秘匿されていた剣が、ただの鉄屑であるはずがなかったのだ。
「……頼む。舞が卒業するまでは、俺の目を持たせてくれ」
「……ふん。三倍、いや十倍の修理代を請求するからね。出世払いじゃ許さないよ」
カノンは吐き捨てるように言い、再び激しい火花の渦の中へと戻っていった。
◇
工房を出たとき、街は真っ赤な夕焼けに染まっていた。
住宅街へと続く帰り道。灰世は、メンテナンスされたばかりの剣の「重み」を背中に感じながら歩いていた。
ふと、視線を上げた。
燃えるような茜色の空。その美しさに、帰路を急ぐ人々は足を止め、感嘆の声を漏らしながらスマートフォンのカメラを向けている。
だが。
(……なんだ、あれは)
灰世の「目」が、美しい夕景の中に「記述の綻び」を見つけ出した。
太陽が沈む地平線のすぐ上。空という巨大なテクスチャの上に、まるで黒いインクを零したような、不自然な「空間の染み」が漂っている。
一般人には、それはただの夕雲の影にしか見えないだろう。あるいは、自分の目の中に入ったゴミ程度にしか認識されない。
だが、灰世の瞳には、それが明確な「意志を持った穴」に見えていた。そこから、現世の物理法則ではあり得ないような、ざらついた情報のノイズが街全体へと放射状に降り注いでいる。
世界のテラフォーミングは、既に第2フェーズへと移行しつつあった。日常の裏側で、現実の定義が書き換えられようとしているのだ。
「ただいま」
玄関の扉を開けると、いつものように舞の元気な声が返ってくるはずだった。
だが、今日聞こえてきたのは、少し困ったような笑い声と、たどたどしい不思議な響きの声だった。
「あ、兄さん! お帰りなさい! ……見て見て、お姉さん、すごいの!」
リビングへ入ると、そこには予想だにしない光景が広がっていた。
青い髪のルナリエルが、舞に教わったのであろうエプロンをぎこちなく身に着け、お玉を片手に鍋の前に直立不動で立っていた。
「……お、お帰りなさいませ、灰世様。……現世の『お味噌汁』という術式の構成を学んでおりました。……少し、出汁の調整に失敗したかもしれませんが」
ルナリエルは顔を赤らめ、深々と頭を下げる。その立ち振る舞いは、戦場で見せた神々しさとは程遠い、どこか不器用な親しみやすさを感じさせるものだった。
「もう、お姉さん真面目すぎるんだから。……兄さん、今日のおかずはコロッケだよ。お姉さんがジャガイモ潰すの手伝ってくれたの」
舞は楽しそうに、ルナリエルの腕に無邪気に抱きついている。
その光景は、灰世がかつて失った「穏やかな家庭」の再現のように見えた。
だが。
灰世の瞳は、その微笑ましい光景の裏側にある「歪み」を、残酷なまでに解像してしまった。
(……舞、離れろ)
灰世は声に出しそうになるのを、辛うじて堪えた。
ルナリエルが立っている足元。ベランダに置かれた観葉植物の鉢植えが、彼女から漏れ出す高精細な魔素に当てられ、異常な速度で成長を始めていた。
本来なら可憐な花を咲かせるはずの植物が、どす黒い紫色の葉を茂らせ、その茎はまるで毒蛇のように不気味にのたうち回っている。その葉からは、一般人には感知できないほどの、不快で甘い「情報の毒」が霧となって室内に静かに漂い始めていた。
ルナリエル自身は、無意識のうちに現世の低精細な情報を「自分の格」で上書きしてしまっているのだ。
彼女が存在するだけで、九条家の「平和な日常」は、物理的に壊されようとしていた。
「……兄さん? 怖い顔して、どうしたの?」
舞が不思議そうに灰世の顔を覗き込む。
「……いや。……少し、腹が減っただけだ」
灰世は視線を逸らし、自室へと向かった。
守りたい日常のど真ん中に、日常を破壊する劇薬がいる。
カノンに言われた「剣に食われる」という警告が、重い錘となって灰世の胸にのしかかる。
夕闇が迫る東京。その空に浮かぶ「黒い染み」は、ゆっくりと、しかし確実にその範囲を広げ続けていた。
九条灰世が守るべき聖域の壁は、いまや内側からも、外側からも、ボロボロと剥がれ落ち始めていた。




