第六話:聖域の代償
意識が浮上した瞬間、ルナリエル・サン・オルビスを襲ったのは、死よりも深い「拒絶」の感覚だった。
肺の奥に流れ込む大気。それは、彼女が故郷ヴェリス・ガイアで吸ってきた「生命の息吹」とは決定的に異なっていた。瑞々(みずみず)しさの欠片もなく、まるで細かく砕いたガラスの粉や、乾いた砂を無理やり飲み込んでいるような不快感。
魔素という世界の潤滑油が完全に失われた現世の空気は、高精細な異世界の肉体を持つ彼女にとって、致死性の「不純物」でしかなかった。
「……あ、……カ、ハ……ッ……」
ルナリエルは跳ね起きようとしたが、全身の血管が焼き切れるような痛みに襲われ、シーツの上に崩れ落ちた。
視界が歪む。極限まで解像度の低い、色の褪せた世界。窓から差し込む朝日はあまりに弱々しく、部屋の隅々に溜まった影は、執拗に彼女の生命力を吸い取ろうとする泥のように感じられた。
これが、魔素の枯渇した「死の世界」の正体。
窒息に近いパニックが彼女の理性を塗りつぶしていく。心臓が異常な速さで鼓動し、脳内の魔法回路が「燃料不足」によるエラーを告げる警報を鳴らし続けていた。このままでは、彼女を構成する高度な情報は維持できず、一時間もしないうちにこの「カサカサした世界」のノイズに呑み込まれ、霧散して消えてしまう。
薄れゆく意識の淵で、ルナリエルは自身の死を予感した。だがその時、絶望の静寂を破るように、柔らかい「音」が耳に届いた。
「……さん? 起きたの? 大丈夫?」
扉が開き、一人の少女が部屋へ足を踏み入れてきた。九条舞だった。
舞の瞳に映るルナリエルは、シーツを握りしめて脂汗を流し、苦悶に顔を歪めている、正体不明の「美しい異邦人」でしかなかった。昨夜、兄が大きな袋を担いで帰宅し、部屋へ運び込んだ「ワケありの客」。
「ひどい顔色……。兄さん! 兄さん、来て! お客さんの様子が変だよ!」
舞がルナリエルの肩に手を置こうとした、その時。
「――離れてろ、舞」
低く、抑揚のない声と共に、九条灰世が部屋へ現れた。
彼は寝癖のついた頭を乱暴に掻きながら、ルナリエルの状態を一瞥した。彼の灰色の瞳には、ルナリエルの体内の魔素回路が火花を散らし、崩壊の一歩手前にある様子が「解像」されていた。
「兄さん、この人、息が……!」
「分かってる。こいつは今、この世界の空気に『酔って』るだけだ。……舞、お前の首にあるそれを外せ」
灰世の言葉に、舞は一瞬戸惑った。それは五年前、母が亡くなったあの日から、灰世に「命に代えても肌身離すな」と言われ続けてきた青い石のペンダントだった。
「え、でも、これは兄さんが絶対に……」
「いいから貸せ。今、そいつを救えるのはそれだけだ」
灰世の有無を言わさぬ口調に、舞は頷き、震える手でペンダントの留め金を外した。
灰世は舞の手からそれを受け取ると、苦悶し、意識を失いかけているルナリエルの首元へと無造作に押し付けた。
カチッ、という小さな金属音。
その瞬間、部屋を満たしていた不快なノイズが、一瞬で凪いだ。
青い石が微かに発光し、ルナリエルの周囲数センチメートルだけ、大気の「密度」が急激に安定していく。石が周囲の微弱な残留魔素を強引に吸い寄せ、ルナリエルの肉体が拒絶反応を起こさない程度の「聖域」を再構築したのだ。
「……っ……ぁ……、……ふぅ……」
ルナリエルの喉から、震える吐息が漏れた。
肺に流れ込む空気が、不意に甘く、清涼なものへと変化したのを感じた。血管を焼いていた痛みが引き、暴走していた回路が静かに再起動を始める。彼女は、溺れていた水面から引き上げられたかのような深い安堵感に包まれ、ゆっくりと目を開けた。
最初に視界に入ったのは、自分を心配そうに覗き込む、黒髪の少女の顔だった。
「……よかった。少し、顔色が戻ったみたい」
舞はルナリエルの手をそっと握った。その手は、現世の人間特有の、温かく、そして瑞々しい熱を帯びていた。
――その瞬間。
ルナリエルの全身を、かつて経験したことのない衝撃が駆け抜けた。
(……っ!? これは、何……?)
握られた手を通じて、言葉ではない「情報の奔流」が流れ込んでくる。
舞の肉体の奥底。そこには、このカサカサに乾いた世界には到底存在し得ないほど、純粋で、透明な「理の種」が眠っていた。それは、ルナリエルの師であった伝説の聖女――すなわち灰世たちの母が持っていた力さえも、遥かに凌駕するほどの圧倒的な聖性。
この少女は、ただの人間ではない。
ルナリエルは驚愕し、舞の顔を凝視した。この瑞々しさは、魔素の有無などという次元の話ではない。彼女自身の存在そのものが、世界を繋ぎ止め、再構築しうる「器」としての格を有しているのだ。
「……貴女は……一体……」
ルナリエルの唇が震える。だが、その言葉が完成する前に、灰世が冷たく割って入った。
「おい、舞。キッチンでトーストが焦げる匂いがしてるぞ。……こいつはもう大丈夫だ。朝飯、仕上げてこい」
「あ、本当だ! 忘れてた! ……ごめんなさい、お姉さん、ゆっくり休んでてね」
舞は慌てて部屋を飛び出していった。バタバタと階段を駆け降りる足音と共に、リビングから香ばしいトーストと味噌汁の匂いが漂ってくる。
平穏な日常の音。それは、ルナリエルにとっては何よりも異質で、それでいて奇妙に心安らぐ響きだった。
部屋に残されたのは、灰世と、ルナリエルの二人だけになった。
灰世は壁に背を預け、腕を組んでルナリエルを見下ろしていた。その視線は、昨夜ヴェルトを去勢した時と同じ、底知れない冷徹さを宿している。
「……今、舞の中に何を見た」
灰世の問いは、刃のように鋭かった。
「……灰世様、彼女は……舞様は、あまりに危うい。彼女の中に宿るあの光は、あちら側の者たち……特に悪魔王が血眼になって探し求めているものです。このままでは、彼女がこの世界の――」
「言わせるな。……分かってる」
灰世は、自身の右腕を軽くさすった。昨夜、ヴェルトから奪い取った濁った魔素が、いまだに血管の奥で不快な熱を持って疼いている。
「そのために、母さんはあいつにその石を遺し、俺はこの五年間、ゴミを掃除し続けてきた。……いいか、ルナリエル。舞には何も話すな。あいつは、ただの女子高生としてこの乾いた世界で笑っていればいいんだ。……それが、俺の守るべき唯一の聖域だ」
「ですが……境界は既に限界に達しています。昨夜の特異点は、単なる偶然ではありません。あの方は、確信を持ってこの場所に楔を打ち込み始めています」
「なら、その楔を一本ずつ、俺が粉砕して回るだけの話だ」
灰世は不敵に口角を上げたが、その瞳の奥には拭い去れない疲労の色があった。
彼一人で、世界規模の「テラフォーミング」という巨大な情報の濁流を押し留められるはずがない。ルナリエルはそれを熟知していたが、目の前の少年の背中には、それを言わせないだけの圧倒的な「意志」が宿っていた。
「……とりあえず、お前はここで大人しくしてろ。幸い、その石があれば数日は持つはずだ。……その間に、お前の存在を隠すための『ガワ』を用意してやる」
「ガワ……ですか?」
「ああ。この世界では、正体不明の美人は目立ちすぎる。……日常に紛れるための準備だ」
一時間後。
九条家の食卓には、三人分の朝食が並んでいた。
ルナリエルは、舞に勧められるままトーストを一口齧った。現世の食物には魔素がほとんど含まれていないが、舞が心を込めて作ったその料理は、ルナリエルの乾ききった魂に、不思議な温もりを与えてくれた。
「……美味しいです。このような味は、ヴェリス・ガイアにもありませんでした」
「えへへ、よかった。……でも、お姉さん、本当に大丈夫? 具合が悪くなったら、すぐに言ってね」
舞は笑顔でルナリエルを世話しつつも、時折、隣で黙々と味噌汁を啜る兄の方へ不安げな視線を送っていた。
舞は感じていた。
兄が連れてきたこの女性の周囲に漂う、あの「瑞々しすぎる空気」。それは、五年前のあの日、家を包んでいたあの不思議な感覚と酷似している。
そして何より、今朝の兄の右腕。
制服の袖に隠されているが、灰世が箸を動かすたびに、皮膚の下で何か不気味な黒い脈動が走っているのを、舞の鋭い感受性は見逃していなかった。
(兄さん……また、あんな怖いところに行ってるの? ……私に、内緒で……)
トーストの小麦の香りも、テレビから流れるニュースキャスターの無機質な声も、舞にとっては「兄との平和な時間」を繋ぎ止めるための命綱だった。
だが、その綱は今、目に見えない巨大な力によって、ギリギリと軋みながら引き絞られている。
「……舞。そろそろ時間だぞ。学校、遅れるぞ」
灰世の声に、舞はハッとして時計を見た。
「あ、本当だ! ……行ってきます。兄さん、お姉さんのこと、ちゃんとお願いね!」
舞は鞄を掴み、玄関へと走っていった。
扉が閉まる音。再び静まり返った家の中で、灰世はルナリエルに視線を戻した。
「さて……掃除屋の仕事の時間だ。……お前、掃除は得意か、王女様?」
「……護身のための魔法なら、心得ておりますが」
「なら、十分だ。……これから、俺の知り合いの『武器屋』へ行く。……そこで、この世界の情報の裏側に、お前の居場所を刻んでやる」
灰世はリビングの隅に置かれた重厚な楽器ケースを担ぎ上げた。
九条灰世が守り抜こうとする、偽りの聖域。
異世界の聖女という劇薬を迎え入れたことで、その平和という名の薄皮は、内側から激しく解像し始めていた。




