第五話:傲慢な探索者
深夜の建設予定地、その中央に穿たれた巨大なクレーター。底に沈殿する瑞々しくも重厚な魔素の霧は、現世のカサカサに乾いた空気を一時的に潤し、そこだけが別の世界であるかのような幻想的な光景を作り出していた。
九条灰世の眼前で、青い髪の少女――ルナリエルは、震える翠の瞳で彼を見上げていた。彼女から放たれる情報は、現世のあらゆる物質よりも遥かに「濃く」、そして鮮明だ。まるで、低解像度の白黒映画の世界に、一人だけ極彩色の高精細映像が紛れ込んだかのような、圧倒的な存在感の乖離がそこにはあった。
だが、その神秘的な邂逅を称える静寂は、天から降り注ぐ「醜悪なノイズ」によって無惨に引き裂かれた。
「――ははぁ。なるほどな。こんなゴミ溜めのような場所に墜ちたか」
上空、夜空のキャンバスを引き裂いた次元の傷跡から、一人の男が重力を嘲笑うようにゆっくりと降下してきた。灰世の「解像度」がその男の輪郭を捉えた瞬間、脳の奥底で本能的な警報が鳴り響く。男の背後には、彼が通り抜けてきた空間の「歪み」が、尾を引く汚泥のように付き纏っている。
男は現世の流行とは無縁の、しかし実戦的な装飾が施された深緑の外套を纏っていた。腰には数本の魔導具と思しき筒を下げ、指先には過剰なまでの魔素が、まるで猛毒の蛇のように絡みついている。その男は、アスファルトの上に着地すると、不快そうに大仰に鼻を鳴らした。
「……何だ、この空気は。反吐が出るほどに乾いてやがる。魔素の欠片もねえ、ただの窒息箱じゃねえか。こんな下等な世界に『聖女の欠片』が紛れ込むとは、運命の神って奴も随分な皮肉屋だな。肺が腐りそうだぜ、全く」
男の言葉には、この世界――現世に対する、隠しようのない蔑みが充満していた。彼は灰世という存在を、道端に転がる石ころか、あるいは言葉の通じない虫けらであるかのように完全に無視し、倒れているルナリエルへと歩み寄る。
「おい、ルナリエル。観念して戻ってこい。お前一人でこの欠陥世界に留まれば、あと数時間もしないうちに、その高精細な魂はこの世界の乾きに耐えきれず霧散して消える。あの方が……我が主、悪魔王アケロン様が、お前の『器』を欲しておられるんだ。無様に消え去るよりは、捧げ物として役に立て。それがお前にとって唯一の救済だ」
ルナリエルは、男の姿を視認した瞬間、青白い顔をさらに強張らせ、恐怖に身を震わせた。
「ヴェルト……! ここまで、追ってきたのですか……。私を、あの地獄へ連れ戻すというのですか……!」
「探索者ギルド連盟『アトラス』のBランク探索者を舐めるなよ。お前の放った転移の残光は、俺の『嗅覚』を欺くには甘すぎた。さあ、来い。手荒な真似はしたくないが、拒むなら足の一本くらいは折って連れ帰るぞ」
ヴェルトと呼ばれた男は、下卑た笑みを浮かべてルナリエルの細い腕を掴もうと、汚れた手を伸ばした。その刹那。
ヴェルトの手が届く直前で、重厚な鋼の刀身が、月光を切り裂くような鋭い軌跡を描いて男の足元へ突き刺さった。
ドォォン、とアスファルトが爆ぜ、破片がヴェルトの頬をかすめる。ヴェルトは低く舌打ちをしながら、反射的に数メートル後ろへと飛び退いた。
「……誰だ、おい。ゴミの分際で、俺の『収穫』を邪魔するんじゃねえよ」
ヴェルトが初めて、灰世に視線を向けた。灰世は長剣の柄に片手を置き、感情の抜け落ちた灰色の瞳で男を見据えていた。
「……誰だか知らないが、随分な派手な登場だな、お仲間さん」
灰世の声は、低く、冷めていた。周囲の大気が、灰世の感情に呼応して「カサカサ」と乾いた摩擦音を立て始める。
「ここは俺のテリトリーだ。不法侵入者は速やかに処分する。……それがこの世界のルールなんだよ。あちら側の理屈をそのまま持ち込むのは止めてもらおうか。お前のような濁ったノイズは、俺の日常には必要ない」
ヴェルトは一瞬、呆気に取られたように目を見開いた。そして、狂ったように腹を抱えて笑い出した。
「はっ……ははは! ルールだと? 下等な原住民が、この俺に向かって抜かしたか! おいおい、お前のその『棒きれ』、魔素も宿ってねえ。ただのなまくらじゃねえか。そんなもので、アスカニアの魔鋼をも断つ俺の護身を破れると本気で思ってるのか?」
ヴェルトが右手を軽く振る。その瞬間、彼の周囲に漂っていた魔素が、不気味な紫色に変質し始めた。
「魔素の性質も、情報の階層も知らねえ無知な猿に、本当の『絶望』って奴を教えてやる。……せいぜい、脳が焼き切れるまで踊って見せろ。ゴミはゴミらしく、泥の中でのたうち回れ」
――【魔素酔いの誘発】。
ヴェルトの周囲から、不気味な紫の霧が爆発的に散布された。それは現世の人間にとって、呼吸するだけで精神の整合性を破壊される致命的な猛毒だ。霧に触れたクレーター周囲の雑草が、一瞬で黒く腐り落ちる。大気中の情報の精度が著しく低下し、視界が二重、三重にブレ始める。通常の人間であれば、平衡感覚を失い、自分の立ち位置さえも認識できなくなるだろう。
「……あ、あ……逃げて……灰世……様……。その霧に触れては……いけません……!」
ルナリエルが必死に声を絞り出す。彼女の眼には、灰世が死の領域へ足を踏み入れたように映っていた。高密度の、しかし醜悪な意志を孕んだ情報の波。それは脳にとっての「毒」そのものだった。
だが。
(……うるさいな。この程度のノイズで)
灰世の瞳孔の奥で、幾何学紋様が静かに、しかしかつてない速度で回転を始めた。その瞬間、灰世の世界から紫の霧という「余計な装飾」が完全に剥がれ落ちた。
ヴェルトが放った霧は、灰世の視界では、単なる「非効率な粒子のバラ撒き」に過ぎなかった。どこが濃く、どこが薄いか。ヴェルトの体内にある魔素の供給路が、どれほど杜撰で、無駄な熱量を発しているか。灰世にとって、その景色はあまりに醜く、そして「低画質」だった。
「……お前のそれは、攻撃とは呼ばない。ただの、下品な垂れ流しだ」
灰世は、紫の霧の中を無防備に、そして堂々と歩き出した。ヴェルトの笑みが、凍りついたように消える。
「なっ……何だと? なぜ立っていられる……!? お前のその薄汚い脳が、俺の放出する圧力に焼かれていないはずがねえ! 貴様、何をした!?」
「……焼く? 何をだ? お前の回路は、さっきから不快な不協和音を奏でてるぞ。……耳障りで仕方ないんだ。今すぐに、その汚い情報のゴミを片付けろ」
灰世の体が、一瞬で加速した。現世の魔素欠乏環境において、これほどの爆発力を生むには、常軌を逸した「燃費の良さ」が求められる。灰世の筋肉、神経、そして血管を流れる魔人の血。そのすべてが、一滴の無駄もなく最適な出力で連動していた。
灰世の長剣が、ヴェルトの喉元を音もなく掠める。
「……チィッ!」
ヴェルトは間一髪で首を捻り、懐から魔導具の筒を抜き放った。筒の先端から、凝縮された火球が放たれる。本来なら一軒のオフィスビルを跡形もなく吹き飛ばす威力を持つ、異世界の攻撃魔法。
だが。
「……遅すぎる」
灰世は首をわずかに傾け、火球が描く「情報の軌跡」をミリ単位で見抜いた。火球が爆発の術式を発動するより先に、剣の腹でそのエネルギーの支点を正確に弾く。方向を失った爆炎は、灰世の背後の空き地で虚しく弾け、アスファルトを溶かした。
「バカな……!? 魔法を、物理的な剣で受け流しただと……!? お前、本当に人間か!? 魔法は物理法則を超越した理のはずだぞ!」
「それはこっちの台詞だ。……こんな非効率な戦い方、よく今日まで生きてこれたな。お前らの世界じゃ、これが当たり前なのか? 呆れるほどに、格が低い」
灰世の言葉は、探索者としての矜持を持つヴェルトにとって、最大の侮辱だった。ヴェルトの顔が、屈辱と怒りで真っ赤に染まる。
「黙れ! 黙れ黙れ黙れ! この家畜風情が、俺の技術を否定するかぁぁッ!!」
ヴェルトが、禁忌の手段に出た。自身の胸元にある魔鋼製のタグを握りしめ、体内の魔素を強制的に逆流させる。彼の周囲の空間が、不自然に波打った。脳への情報の過負荷を無視した強制的引き上げ。ヴェルトの背後に、巨大な悪魔の幻影が重なり、彼の身体能力と魔素の出力が一時的に数倍へと跳ね上がる。
だが、灰世の目は騙せない。
(……無理に解像度を上げてるな。その代償に、回路が悲鳴を上げてるぞ。自壊まで、あと三十秒か)
ヴェルトの肉体、その心臓付近にある魔素の「核」。そこに、今にも崩れそうな歪みが生じているのを、灰世は「解像度」の網膜で鮮明に視認していた。
「……これで、終わりだ。ゴミ掃除の時間だ」
灰世が重心を低く沈める。ヴェルトが超高速の突進を開始した。一対の短剣を魔素の刃で延長し、灰世を十文字に切り裂こうとする。その光景を、灰世は「完全な静止画」として処理していた。
ヴェルトが踏み込んだ瞬間。灰世は、その一歩よりも一瞬早く、ヴェルトの攻撃の「絶対的な死角」へと滑り込んだ。無駄のない最小限の移動。
灰世の剣が、下から上へと、斜めに振り抜かれる。
キィィィン、という、高精細な音が夜の闇に響いた。
ヴェルトの魔素の刃が、ガラス細工のように脆く「砕け散った」。それだけではない。灰世の剣は、ヴェルトの肉体を守るはずの魔素の障壁を、情報の脆弱性から直接突き破り、その胸部の魔素核を正確に捉えていた。
「が……はっ……あ……」
ヴェルトの体が、宙に浮いたまま停止する。灰世の剣が、物理的に彼の身体を貫いたわけではない。だが、ヴェルトが放出しようとしていた膨大な魔素が、灰世の剣を触媒にして、灰世の体内へと「逆流」し始めたのだ。
――『魔素還流』。
ヴェルトが自慢としていた高密度の魔素が、灰世の剣を通じて根こそぎ奪われていく。
「お前……何……をして……。俺の力が……消えて……」
「……掃除だよ。ゴミは残さない主義なんだ。お前のその澱んだ魔素、俺の『餌』として役立ててやるよ」
灰世が剣を無造作に振るう。
ヴェルトの肉体から、輝く魔素の粒子が滝のように溢れ出し、灰世の血管へと流れ込んでいく。異世界の魔素が、現世の不純物を伴って灰世の肉体を焼く。血管が沸騰するような激痛。吐き気がするほどの過剰な熱量。だが、灰世はその不快感を、日常を維持するための「必要なコスト」として静かに飲み下した。
ヴェルトの体が、糸の切れた人形のように崩れ落ちる。
探索者としての輝きを失い、ただの抜け殻となった男が、冷たい地面に突っ伏した。彼はまだ生きてはいたが、その魔素回路は灰世によって完全に「去勢」されていた。もう二度と、彼は魔法を使うことも、この世界を侮ることもできないだろう。
灰世は剣を肩に担ぎ直し、激しく肩で息を吐いた。
「……ふぅ。マズすぎる。……やっぱり、あちら側の奴とは味(格)が違うな」
灰世が視線を、呆然と立ち尽くすルナリエルへと向ける。彼女は、今しがた起きた出来事が信じられないという表情で灰世を見つめていた。彼女の知る「世界の理」が、今、この黒髪の少年によって根本から覆されたのだ。
魔素のないこの現世で。異世界のBランク探索者を、子供のように弄んで完封した存在。
「……灰世、様……貴方は……一体……何者なのですか……」
灰世はその問いに答えず、倒れていたルナリエルに無愛想に手を差し伸べた。
「……立てるか? ここにいると、すぐに別のゴミ――『ホワイト・ホール』が来るぞ。あいつらは、お前のような存在を『資源』としか見ていない。……行くぞ」
少女の手を握った瞬間。灰世の血管の中で、奪ったばかりの魔素が、少女の純粋な気配と呼応して静かに凪いだ。
それは、失われた記憶の底で、かつて母が謳っていた守りの歌と同じ波形。灰世は一瞬だけ、その感覚に安らぎを覚えたが、すぐに表情を硬く戻した。
「……見つけたんだ。俺の、守るべき理由を」
灰世の呟きは、夜風に消えた。
上空の次元の傷跡は、ヴェルトの敗北に呼応するかのように、不気味な脈動をさらに強めていた。九条灰世が守り続けてきた「日常」という名の聖域は、この夜、取り返しのつかない形で「解像」され始めていた。




