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アッシュ・コード  作者: 木徳寺
第一部:現世編
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第四話:降星の夜

 深夜二時。

 眠りについた街の熱気が冷め、東京という巨大な機構が微かな吐息を漏らす時間帯。


 九条灰世くじょう・かいとは、自室のベランダの柵に背を預け、冷え切った空気を肺の奥まで吸い込んでいた。

 彼の視線の先には、闇を切り裂く人工の光――眠らない大都会の灯りが地平線まで広がっている。だが、灰世の瞳が捉えているのは、その夜景の情緒的な美しさなどではない。


 極限まで研ぎ澄まされた「解像」の網膜には、街を覆う魔素マナの絶対的な欠乏が、ザラついたモノクロのノイズとなって焼き付いていた。大気はカサカサと不自然に乾ききり、光の粒子さえもが目に見えない摩擦音を立てて崩壊していく。

 この世界は、今日も緩やかに死にかけていた。魔素という「理の接着剤」を失った物質は、その結合を維持できず、灰世の目にはすべてが砂でできた砂上の楼閣のように映る。


「……静かすぎるな」


 灰世は独りごち、隣の部屋へと意識を向けた。

 そこには、妹のまいが穏やかな寝息を立てている。彼女が信じ、慈しんでいるこの「平和な日常」を維持するために、灰世は今日も路地裏のよどみを払い、化け物を喰らってきた。

 だが、今夜の不気味な静寂は、これまでのどんな凶兆よりも鋭く、灰世の神経を逆撫でしていた。まるで、嵐の前の凪という言葉さえ生ぬるい、世界そのものが息を止めているかのような重圧。


 その時、ポケットの中でスマートフォンが震えた。

 画面には「発信元不明」の無機質な文字。灰世が端末を耳に当てると、電子的なノイズの向こうから、聞き慣れた軽薄な男の声が届いた。


『よう、不眠症の掃除屋カイト。……いい知らせと悪い知らせ、どっちから聞きたい?』


戌亥いぬいか。……どっちでもいい。手短にしろ」


 裏社会の情報屋、戌亥蓮の背後からは、猛烈な勢いでキーボードを叩く音と、冷却ファンが発する低い唸りが聞こえてくる。


『なら、悪い方からだ。ホワイト・ホールが都内全域に「第一種緊急警戒態勢」を敷いた。奴らの観測網が、過去十五年で最大規模の「事象の揺らぎ」を検知したらしい。警視庁にも圧力がかかって、付近の警察車両が不自然に移動を開始してる。……で、いい知らせは、だ』


「……特大の『特異点パワー・スポット』が来る、だな」


『察しが良くて助かるよ。座標は新宿・青山の上空三千。……来るぞ。今までの「澱み」なんて、これに比べりゃただの湿気だ。次元の壁が、文字通り紙屑みたいに引き裂かれようとしてる。お前のその「目」なら、もう見えてるだろ?』


 戌亥の言葉が終わるより先に、灰世は「それ」を視認した。


 ――空が、剥がれた。

 一点の曇りもないはずの東京の夜空に、一筋の「亀裂」が走った。


 それは雷光よりも鋭く、闇よりも深い。物理法則そのものが剥落したかのような、情報の完全な断裂。灰世の解像度が限界を超えて跳ね上がり、灰色の瞳の中に複雑な魔導紋様が鮮明に浮かび上がる。

 彼の視界では、夜空というキャンバスが物理的に剥がれ落ち、その裏側にある「底知れない深淵」が大きな口を広げているのが手に取るように分かった。


 ズズ、ズズズ……ッ!


 鼓膜ではなく、脳の芯を直接揺さぶるような超低周波の重低音が響き渡る。

 次元の壁がきしむ音。それは世界そのものが断末魔を上げているかのようだった。

 亀裂からは、現世の物理法則では記述不可能な「極彩色のノイズ」が溢れ出した。それは重力に逆らうように不気味な渦を巻き、新宿のビル群を、そして灰世の立つベランダさえも呑み込もうとする勢いで拡大していく。


「舞……ッ!」


 灰世は反射的にリビングへ駆け戻り、舞の部屋の扉に手をかけた。

 だが、その手は静かに止まった。舞の部屋からは、変わらぬ穏やかな気配が漂っている。彼女の首元にある、母の形見のペンダント――灰世が「調律」させたあの青い石が、周囲の魔素を強力に引き寄せ、安定した結界を張っている。侵食してくる異界の波動は、その石の周囲数メートルで霧散していた。


(……いや、ここじゃない。外だ。奴らがここを特定する前に、元凶を叩く)


 灰世は再びベランダへ飛び出し、迷いなく柵を飛び越えた。

 三階の高さから音もなく着地し、彼は背負った楽器ケース――その中の重厚な鋼を確かめながら、夜の街へと駆け出した。

 上空の次元の傷跡は、既に数キロメートルに及ぶ長大な「穴」へと変貌していた。

 そこからは、一際眩い「青白い光の筋」が地上へと降り注ぐ。

 それは流れ星などという情緒的なものではない。情報の密度が周囲を物理的に押し潰す、死の質量を伴った「物質の転出」だ。


 ドォォォォン……ッ!


 凄まじい衝撃波が街を駆け抜けた。

 高層マンションやオフィスビルの窓ガラスが、情報のオーバーロードに耐えきれず、一斉に粉砕される。空気が急激に圧縮され、灰世の肌を刃物のように切り刻んだ。

 降り注いだ光は、住宅街の裏手にある広大な建設予定地の中央へと激突した。

 灰世が現場に辿り着いたとき、そこはかつて体験したことのない異様な光景に包まれていた。

 激突の衝撃でアスファルトは跡形もなく消え去り、十メートルを超える巨大なクレーターが出来上がっていた。その中心からは、現世の「カサカサした空気」を潤すほどの、濃密な魔素が霧となって絶え間なく噴き出している。

 灰世の視界から一切の色彩が消え、熱量と情報の流動だけが強調される。

 クレーターの底に漂う霧は、彼がこれまでに狩ってきたどんな悪魔の残滓よりも、透き通っていて、瑞々しい。それは汚れた「澱み」ではなく、世界を本来の姿に繋ぎ止めるための源泉――真正の魔素の輝きだった。


「……何だ、これは」


 灰世は剣を抜くことさえ忘れ、吸い寄せられるようにその中心へ歩を進めた。


 霧が、ゆっくりと晴れていく。


 そこには、一人の少女が横たわっていた。


 夜の闇をそのまま溶かし込んだような、深く鮮やかな青い髪。

 月光をそのまま肌にしたかのような、透き通るような白。


 そして、彼女の身体からは、この乾いた現世を丸ごと飲み込んで再構築してしまいそうなほど、強烈で清廉なエネルギーが脈動していた。


 彼女は、この世界の住人ではない。

 灰世の解像度が冷酷に告げている。彼女を構成する情報の密度は、現世の人間よりも数千倍も緻密で、高精細だ。まるで、古びた低画質の映画の中に、一人だけ現実の人間が迷い込んできたかのような、圧倒的な存在の格差。


「……う、あ……」


 少女の唇が微かに震え、みどりの瞳がゆっくりと開かれた。

 その瞳が灰世の灰色の瞳を捉えた瞬間、灰世の脳内に、言葉ではない「意志」が濁流となって直接流れ込んできた。


(――見つけました。私の、失われた……半分を……)


 少女の手が、力なく灰世の方へと伸ばされる。

 彼女が纏う魔素の波動が、灰世の血管を流れる「魔人の血」と激しく共鳴を始めた。胸の奥で、閉じ込めていた記憶の断片が軋む。五年前から止まっていた灰世の運命の時計が、耳障りな音を立てて再び動き出す。


 だが、その再会の余韻を味わう時間は、用意されてはいなかった。

 灰世の解像度が、上空の「傷跡」から新たに降り注ごうとする、醜悪で攻撃的な「ノイズ」を捉えた。


 少女を追い、次元の壁を食い破って現れたのは、獲物を求める「猟犬」。

 空から降ってくるのは、慈悲なき光ではなく、略奪を目的とした暴力の塊だった。


「……誰だか知らないが、随分な派手な登場だな」


 灰世は少女の前に立ち、楽器ケースのファスナーを一気に引き裂いた。

 引き抜かれた長剣が、月光をどん欲に吸い込み、鈍い灰色の輝きを放つ。


「誰だか知らねえが、俺の日常を壊したんだ。……タダで済むとは思うなよ」


 灰世の瞳の中で、幾何学紋様がさらに高速で回転する。

 侵略者に対する冷徹な殺意。

 降星の夜。

 それは、偽りの平和を享受していた日常が完全に終わりを告げ、世界の残酷な真実が鮮明に解像し始める、血塗られた序曲の始まりだった。

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