第三話:美しい嘘の裏側
黄色い規制テープが、深夜の新宿に鮮やかな断絶を引いていた。
アスファルトの上には数台の消防車が並び、回転灯の赤い光が周囲の雑居ビルの壁を不気味に撫でている。制服を着た警官たちが、野次馬やカメラを構えた通行人を「危険ですから離れてください」と、機械的な手つきで追い払っていた。
「……また、これか」
各務響子は、規制線の外側で細い煙草に火をつけた。
指先に感じる深夜の空気は、五月だというのに酷く冷え切っている。公式の発表によれば、この路地裏で発生したのは「老朽化したガス管の腐食による小規模な爆発事故」だという。
だが、響子の鼻が捉えているのは、刺激的なガスの臭いではない。それは、焼けたゴムと、古い墓石を削ったような、乾いた不快な異臭だった。
「ガス漏れねぇ……。よくもまあ、毎回毎回、似たような台詞を並べられるもんだ」
彼女は肺の奥まで煙を吸い込み、吐き出した。
響子の瞳は、現場の奥で防護服を纏い、機材を運び込んでいる連中を凝視していた。彼らの背中には、警察や消防の紋章はない。ただ、白地に黒の円形を象った、無機質なロゴマーク――内閣府直轄、対魔特別対策室。通称『ホワイト・ホール』。
彼らが現れる場所に、「真実」が残されることはない。
十五年前の「一五年の空白」以来、この国は、いやこの世界は、巨大な「美しい嘘」によって塗り固められてきた。響子の家族が消えたあの日の事件も、政府は「大規模なテロ」として処理した。だが、響子は知っている。あの時、崩落する地下鉄のホームで、自分を睨みつけたあの「泥のような怪物」は、断じて人間ではなかった。
響子が愛用の一眼レフカメラを構えた瞬間、横から伸びてきた無愛想な手に、レンズを遮られた。
「各務さん。無駄な努力は止めておけと言ったはずですが」
そこに立っていたのは、隙のないスーツを纏った眼鏡の男――霧崎零だった。
彼の背後には、威圧的な沈黙を保つ数人の男たちが控えている。響子の解像度では、霧崎の周囲だけが不自然に「凪」いでいるように見えた。それは彼らが、世界のノイズを力ずくで制御している証拠のように思えてならない。
「あら、霧崎室長。こんな下っ端の事故現場にわざわざお出ましなんて、よっぽど重要な『ガス管』だったのかしら?」
「……国民の安全を守るのが我々の責務です。不確かな憶測を記事にするのは、社会的なパニックを招くだけですよ。あなたはもう少し、自分の言葉が持つ責任を自覚すべきだ」
「責任? おかしいわね。私の仕事は真実を伝えることよ。あなたたちの仕事は、それを『なかったこと』にするための糊を塗ることでしょう?」
響子は不敵に笑ってみせたが、内心では奥歯を噛み締めていた。
彼女の視界の端で、一人の工作員がタブレットを操作し、周囲で撮影されていたスマートフォンのデータを遠隔で「クリーニング」しているのが見えた。SNSに投稿された「黒い影」の画像は、あと数分もすればノイズの塊として処理され、投稿者は「不謹慎な加工画像を作った嘘つき」としてネットの海に沈められる。
完璧な隠蔽。
この世界では、真実はいつも「解像度の低いノイズ」として処理される運命にあるのだ。
「……撤収だ」
霧崎は響子を興味なさげに一瞥すると、部下たちを引き連れて闇の中へと消えていった。
後には、乾いた風と、消えかかった煙草の灰だけが残された。
翌日。
響子は新宿の喧騒を離れ、都心から少し外れた静かな路地裏にいた。
目的の場所は、古びたレンガ造りの建物の一階。色褪せた木の看板に『煉瓦亭』と刻まれた、時代から取り残されたような喫茶店だ。
カウベルの乾いた音が店内に響く。
中へ入ると、焙煎されたコーヒーの香ばしい香りと、古い木材の匂いが響子の昂ぶった神経を緩めた。
「いらっしゃい。……各務さん、顔色が悪いな」
カウンターの奥で、真っ白なシャツに蝶ネクタイを締めた老紳士が、静かに声をかけた。
この店のマスター、源さんだ。彼は響子が差し出した「現場」の断片的なメモを見ても、眉一つ動かさない。
「……マスター。今日も、いつものやつ。……苦めでお願い」
「了解した。……少し、座って休むといい」
響子は一番奥のボックス席に身を沈めた。
この店は、響子にとって唯一の「解像度が安定した場所」だった。ホワイト・ホールの情報統制も、ネット上の真偽不明な噂話も、この店の重厚な扉を潜れば、すべてが遠い国の出来事のように感じられる。
彼女は昨夜、現場近くの防犯カメラの「死角」を必死に解析していた。
そこで一瞬だけ捉えた、ある「姿」。
ノイズに塗れた映像の中で、その人物だけが、まるで世界のピントを強制的に合わせているかのように鮮明に映っていた。
――黒髪。灰色の、醒めた瞳。
そして、楽器ケースを担いだ、不自然なほどに堂々とした背中。
「……新宿の死神。都市伝説サイトじゃ、そう呼ばれてるわね」
響子が独り言を零した、その時だった。
カウベルが再び鳴り、店内に新たな客が足を踏み入れてきた。
響子の背筋に、昨夜の現場で感じたものと同じ「ひりつくような寒気」が走った。
心臓の鼓動が、一際大きく跳ねる。
入ってきたのは、制服を崩して着こなした、一人の少年だった。
彼は源さんに向かって軽く片手を上げると、当然のように響子の隣のテーブルに腰掛けた。
「……マスター、いつもの。ブラックで」
「ああ、カイト。……お疲れ様」
源さんが、慣れた手つきでカップを温め始める。
響子は息を殺し、横目でその少年を観察した。
九条灰世。
彼の肌は、この乾いた世界の中で、不思議なほどに「実体感」があった。周囲の風景が、彼という存在を際立たせるための背景に過ぎないかのように思えるほど、彼の輪郭は鋭く、明確だ。
そして、その瞳。
灰色の瞳孔の奥に、言葉では説明できない「深淵」が潜んでいるのを、響子のジャーナリストとしての本能が告げていた。
響子は意を決して、持っていた一眼レフカメラをテーブルの上に置いた。
シャッター音は立てない。ただ、そこに「証拠」があることを示すように。
「……昨夜の新宿三丁目。ガス爆発の現場にいたわね、あんた」
灰世の手が、届いたばかりのコーヒーカップの前で止まった。
彼は視線を上げず、ただ冷めた声で答えた。
「……人違いじゃないか、おばさん。俺は昨日、ずっと家で妹の勉強を見てたんだが」
「おばさん……? ふん、二十代を捕まえて随分な言い草ね。……これを見てから言いなさいよ」
響子は、プリントアウトした一枚の写真を灰世の前に滑らせた。
それは、昨夜の爆発現場から数ブロック離れた場所で、背後から彼を捉えたものだ。顔こそ映っていないが、その独特な立ち姿と、担いだケースは否定しようがない。
「……写真なんて、いくらでも偽造できる。ホワイト・ホールの得意分野だろう?」
「あいつらなら、もっと綺麗に消すわよ。これは、私が命懸けで『現像』した、生きた現実の断片なの」
響子は身を乗り出し、灰世を射抜くように見つめた。
「あんた、何か隠してるでしょ。あの路地裏にいた『何か』を。……ホワイト・ホールが必死に嘘で塗りつぶそうとしている、世界の本当の姿を」
店内が、沈黙に支配された。
コーヒーの湯気が、二人の間に漂う緊張感を象徴するように揺らめく。
灰世はゆっくりと顔を上げると、初めて響子の瞳を真っ向から見据えた。
その瞬間、響子は目眩を覚えた。
彼の瞳が、淡い光を帯びたように見えたからだ。
その瞳に映し出された自分は、まるですべての嘘を見抜かれ、剥き出しの「情報」へと解体されているような、言いようのない恐怖に襲われた。
「……真実を知って、どうするつもりだ?」
灰世の声は、低く、重い。
「あんたが追っているのは、この世界を支えている『美しい嘘』の裏側だ。……それを暴けば、あんたが愛している平和な日常なんて、一瞬で砂のように崩れ去る。……それでも、見たいのか?」
「日常? そんなもの、最初から信じてないわよ。……私は、あの日失ったものの正体が知りたいだけ。……この乾いた世界の、本当の名前が知りたいだけよ」
響子の言葉に、灰世はふっと、自嘲気味な笑みを浮かべた。
それは、彼が「人間の側」で見せる、最も不敵で、そして悲しい表情だった。
「……無知でいられるのは、一つの才能だ。……だが、あんたの目は、もう手遅れみたいだな」
灰世はコーヒーを一気に飲み干すと、席を立った。
「マスター、代金。……余計な客を招き入れて、悪かったな」
「気にするな、カイト。……また来なさい」
源さんは、去っていく灰世の背中を、何かを祈るような目で見送っていた。
響子は一人、ボックス席に残された。
手元には、まだ温かいコーヒーと、灰世が一切触れなかった写真が一枚。
彼女は震える指先で、写真をバッグに仕舞った。
灰世との対話は、何も解決をもたらさなかった。むしろ、謎はさらに深まり、周囲の空気はいっそう「カサカサ」と乾きを増したように思える。
だが、響子の確信は揺るがなかった。
九条灰世。彼こそが、この偽りの聖域を切り裂く「解像度」そのものなのだ。
店を出ると、東京の空は不自然なほどに抜けるように蒼かった。
だが、響子の耳には、昨日よりも少しだけ大きくなった「世界の軋む音」が、確かに聞こえていた。
(……待ってなさいよ。必ず、その仮面を剥いでやるから)
各務響子は、自分にしか見えない「歪み」を追って、再び雑踏の中へと消えていった。
日常の壁が薄くなり、裏側の現実が染み出し始めていることに、まだ大衆は気づいていない。
「美しい嘘」の有効期限が、刻一刻と迫っていた。




