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アッシュ・コード  作者: 木徳寺
第一部:現世編
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第二話:路地裏の清掃員

 放課後の喧騒が、西日に焼かれた熱を帯びた空気と共に教室へ流れ込んでいた。


 終業を告げるチャイムの長い余韻が消えると同時に、生徒たちの意識は一斉に「日常」という名の閉ざされた聖域の深部へと向かっていく。部活動へ急ぐ騒がしい足音、カラオケや買い物の計画を立てる無邪気な高い声。


 九条灰世くじょう・かいとにとって、それらの音はすべて、あまりに脆く危うい砂の上の楼閣が崩れる寸前のノイズに見えていた。


「おい、ハイセ。マジで聞いてんのかよ、お前」


 隣の席で身を乗り出してきた相馬慶介そうま・けいすけが、不満げに眉を寄せた。

 その手にあるスマートフォンの画面には、昨夜の新宿で撮影されたという、不気味に揺らめく「黒い染み」のような動画がループ再生されている。手ブレの激しい素人映像。画質は荒く、被写体の正体を判別させることを頑なに拒んでいた。


「……聞いてるよ。新宿の死神だろ? レンズの汚れか、そうでなきゃただの煙だって言ったはずだが」


 灰世は適当に相槌を打ちながら、机に突っ伏したまま顔を上げない。

 慶介の視界にある世界は、情報の「精度」において決定的に不足している。彼のような一般人には、画面の中の「染み」はただの不気味な心霊写真か、よく出来たフェイク動画にしか見えていない。


 だが、灰世の脳には、そのデジタルノイズの背後で執拗に蠢く、どろりとした魔素マナの不規則な振動が読み取れていた。それは『無冠ステイル』特有の、理性を欠いた生存への飢餓感。この世界に存在してはならない、異界の「よどみ」そのものだった。


「汚れなわけねーだろ。これ、目撃した奴らがみんな、数分後には『何を見たか思い出せない』とか言ってるんだぜ? まるで、最初からそこに何もなかったみたいにさ。これこそ超常現象、あるいは国家レベルの陰謀ってやつだろ!」


 慶介は興奮気味に語るが、その「記憶の混濁」こそが、真実を知らぬ人間が悪魔に遭遇した際に引き起こす、脳の生存本能による『認識の自己防衛』の結果であることを灰世は知っている。


 あちら側の理を知らぬ者にとって、異界のルールは精神を内側から焼き切る猛毒だ。脳が勝手にその情報を「不確かなノイズ」として処理し、なかったことにしなければ、彼らはその場で精神のオーバーロードを起こし、廃人になりかねない。


「……ま、そうかもな。」


 灰世は気だるげに立ち上がると、ロッカーから長い楽器ケースのような鞄を取り出した。

 その中身がギターなどではなく、数多の悪魔を灰へと還してきた、あの家に隠されていた伝説の魔剣であることを、親友に教えるつもりは毛頭ない。


「あ、またバイトか? お前、マジで高校生の働き方じゃねーぞ。……たまには駅前のゲーセンで格ゲーでも付き合えよ」


「悪いな。妹の飯を作らなきゃいけない。……舞がうるさいんだよ」


「出たよ、重度のブラコン。……舞ちゃんによろしくな!」


 慶介の快活な声を背中で受け流し、灰世は教室を後にした。

 校舎を出て、最寄り駅へと向かう雑踏の中。灰世の瞳は、歩きながら無意識のうちに情報の焦点距離を調整していた。


 街行く人々の表情は、灰世の視界ではどこか平坦で、テクスチャの剥がれかけた安っぽいアバターのように映る。魔素という「世界の潤滑油」を失った現世の物質は、どれも密度が低く、今にも崩壊しそうなほどにスカスカだ。コンクリートの壁に染み付いた、目に見えないほど微細な空間の「亀裂」。それは灰世にとって、そこに何が潜んでいるかを告げる明確な死のマーカーだった。


 ――スマートフォンのバイブレーションが、灰世の太ももを執拗に叩く。

 画面を覗き込むまでもなく、灰世はその電波の揺らぎの中に、ある男のシグネチャを感じ取っていた。画面に映し出されたのは、戌亥蓮いぬい・れんからの、何十重にもプロテクトが掛けられた暗号化メッセージだ。


『新宿三丁目。雑居ビルの地下二階。昨日仕留め損ねた奴の「残り香」が出た。この澱みは、ただのハンターじゃ捌ききれない。情報の解像度が高い、本物の掃除屋が必要だ。報酬は相場の三倍。……どうする、カイト?』


 灰世は口角をわずかに上げた。

 感情を排したその不遜な笑みは、デビルハンターとしてのスイッチが、非情なまでに切り替わった証だった。


 場所は、新宿三丁目の入り組んだ雑居ビル街。

 再開発から完全に取り残されたかのような古いビルが、湿った墓石のように立ち並んでいる。日差しさえも届かないその細い隙間には、現世の物理法則では説明のつかない「重い空気」が、物理的な質量を持って溜まっていた。


「……ちっ。想像以上に濃いな。空気が腐ってる」


 灰世はビルの通用口に足を止めた。

 この場所だけ、空間の解像度が著しく低い。大気がざらつき、視界の端々でザラザラとした砂嵐のようなノイズが走る。


 普通の人間がここへ一歩踏み込めば、原因不明の激しい吐き気と、骨の芯まで凍りつくような寒気に襲われるだろう。魔素が極限まで欠乏したこの世界で、これほど濃密な「悪魔の気配」が漂っているのは、ここが次元の壁に付いた『傷跡』――すなわち魔界からの浸食ルートになりかけていることを意味していた。


 灰世は鞄のジッパーをゆっくりと下ろし、中から重厚な鋼の長剣を引き抜いた。

 装飾を一切廃したその刀身は、光を反射することなく、周囲の闇をどん欲に吸い込んでいるかのようだった。母の住まいに秘匿されていた、銘さえ知らぬ魔剣。灰世はこの剣の柄を握るたび、自分の血液がどこか「別の場所」のものに書き換えられ、神経が冷徹な回路へと変質していくような、奇妙な一体感を覚えていた。


 ビルの地下へと続く、錆びついた階段を降りる。

 一段踏むごとに、地上の喧騒が遠ざかり、世界の音が消えていく。自分の心臓が打つ鼓動だけが、不気味に、そして異常に大きく脳内に響いた。

 突き当たりの、重い防音防火扉を開けた瞬間。


 ――カサッ、と。


 乾いた砂が擦れ合うような、あるいは硬い爪がコンクリートを削るような音が、天井の闇から降り注いだ。

 灰世は視線を上げるという無駄な動作をすることなく、最小限の歩幅で真横へ跳んだ。

 直後、彼が先ほどまで立っていたアスファルトが、泥のような黒い衝撃によって爆発的に粉砕される。


 そこにいたのは、不定形の黒い粘土を、狂った彫刻家が無理やり人の形にこね上げたような、歪な生物だった。

 顔があるべき場所には、底の見えない穴のような空洞が一つ。そこから現世の物質を腐食させる「不浄の霧」が漏れ出している。

 『無冠ステイル』の悪魔。知性を持たない、ただ魔素を求めて現世を這い回る、境界の飢えた獣。


「……」


 灰世の灰色の瞳が、淡い光を宿す。

 瞳孔の奥に潜む魔導紋様が高速で回転を始めると同時に、世界から一切の無駄な色彩が剥ぎ取られた。


 瞬時に脳内へと流れ込む、極限の「情報の海」。

 悪魔の肉体を構成する魔素の流動、筋肉の収縮に伴うエネルギーの偏り、および胸部の奥底で脈動する「コア」の正確な座標。


 悪魔が耳をつんざく咆哮を上げ、泥のような腕を鋭い鎌に変形させて振り下ろす。

 常人の動体視力では残像にすら見えない、音速に近い突進。

 だが、解像度を極限まで高めた灰世の視界では、それは泥濘を泳ぐ亀のような、あまりに鈍臭く、予測可能な退屈な記号の羅列に過ぎなかった。


 灰世は右足をわずかに引き、刃の自重を遠心力に変えて、最短の軌道で一閃した。

 鋼の刀身が悪魔の「腕」という物理的な物体を斬り裂くのではない。悪魔の存在をこの世界に定着させている魔素の構造、その「記述」そのものを両断する。

 切断面から、激しい火花のような魔素の粒子が飛び散り、空中で弾けた。


(――今だ。一滴も逃すな)


 灰世は呼吸を細く整え、剣を触媒にして自身の魔素回路を強引に逆転させる。

 霧散して消えようとする悪魔の残骸が、強力な磁石に引き寄せられる鉄屑のように、吸い込まれるようにして魔剣へと収束していく。


 ――『魔素還流マナ・リサイクル』。


 魔素が皆無に近い現世という環境において、大規模な異能を行使し続けることは、自らの命をまきにして燃やすことに等しい。だが、敵の存在定義を分解し、エネルギーとして再利用するこの「捕食的」な技術だけが、灰世を人間を超越した戦いへと適応させていた。


 剣を通じて吸い込まれた魔素が、灰世の血管を駆け抜ける。


 それは、酷く不快な「焦げたような」熱い感触だった。異世界の生のエネルギーを、現世の不純物が混ざり合った状態で無理やり取り込む生理的な苦痛。歯の裏側が血の味で満たされ、肺が内側から焼かれるような錯覚。

 だが、その激痛と引き換えに、灰世の肉体は更なる加速と、暴力的なまでの出力を得る。


 悪魔は自分の身体が物理法則を無視して削り取られていくことにパニックを起こし、無秩序に触手を振り回した。

 コンクリートの柱を叩き割り、剥き出しの配管を飴細工のようにひしゃげさせる破壊の嵐。

 しかし、灰世はあくびが出るのをこらえるかのような冷めた表情で、その嵐の「隙間」を縫うように歩を進めた。


 ミリ単位で見える死線の合間。

 灰世にとって、この戦いは既に「作業」でしかなかった。


「お前程度の密度じゃ、俺の目は騙せねーぞ。……その安っぽいガワと一緒に、消えろ」


 灰世は無防備に晒された悪魔の中央――コアが存在する座標へと、一切の迷いなく魔剣を深々と突き立てた。


 ズウゥゥン、という、空間そのものが共鳴し、軋むような重低音。

 悪魔の身体が内側から灰色の光に灼かれ、情報の欠片(粒子)へと分解されていく。

 一分と経たず、広大な地下室には誰もいなくなった。

 あるのは、灰世が担ぐ魔剣がわずかに発する不気味な熱量と、耳が痛くなるほどの静寂だけだ。


「……ふぅ。マズいな。昨日のやつより、鮮度が落ちてる。魔素の味が濁りすぎだ」


 灰世は口元に溜まった苦い唾液を吐き出し、魔剣を重厚なケースへと戻した。

 体内に取り込んだ魔素が、自身の回路に定着し、荒れていた呼吸が整っていくのを感じる。これでまた数日は、舞を守るための「聖域」を維持できるだろう。


 だが、勝利の余韻に浸る暇は、この世界には用意されていない。

 灰世の「解像度」が、階段の上から近づいてくる、金属的で規則正しい軍靴の足音を捉えたからだ。


(ホワイト・ホールの回収班か。昨日の戦闘データから、予測ポイントを絞り込んできてやがるな……)


 彼ら国家組織は、悪魔の死骸を「資源」として回収し、その魔素を絞り取って、延命剤に近い『人工魔素』の原料にする。


 灰世のようなフリーランスのハンターは、彼らにとって貴重な観測対象であると同時に、魔素資源を横取りする、管理不能な不法占拠者でしかなかった。

 灰世は通用口の深い陰に身を潜め、数人の重武装した戦闘員が地下へなだれ込んでくるのを見届けた。


 強化樹脂の装甲に身を包んだ兵士たち。その隊列の最後尾。

 銀髪を短くウルフカットに整え、冷徹なまでに透き通った蒼い瞳をした一人の少女が、破壊された現場に鼻を鳴らす。


「……誰かいたわね。魔素の残滓が、異常にクリアすぎる」


 対魔特別対策室のエース、白銀冴華しろがね・さえか

 その氷のような呟きが鼓膜に届く前に、灰世は建物の複雑な配管を伝い、陽光の差し込む表通りへと音もなく躍り出た。


 背後で、ようやく駆けつけたパトカーのサイレンが鳴り響き始める。

 明日の夕刊にはまた「老朽化したガス管による、突発的な事故」という見出しが、国民を安心させるために踊るのだろう。


 灰世は楽器ケースを担ぎ直し、どこにでもいる、少し目つきの悪いだけの高校生のふりをして、家路を急ぐ人々の雑踏へ紛れた。


 新宿の空は、相変わらずカサカサに乾いている。

 だが、先ほど仕留めた悪魔が情報の塵となって消えゆく直前、灰世の解像度は一瞬だけ、その体内に「現世のものではない、不吉な文字」が刻まれていたのを見逃さなかった。


(ただの『はぐれ』じゃない。……魔界あっちから、誰かが意図的に押し出してるな、これ)


 得体の知れない嫌な予感が、胸の奥で黒い澱みとなって広がっていく。

 守り抜こうとする、舞との「穏やかな日常」の背後で、世界の崩壊を告げる時計の針は、確実にその刻みを早めていた。

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