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アッシュ・コード  作者: 木徳寺
第一部:現世編
2/12

第一話:欠けた世界の朝

 枕元に置いたスマートフォンの電子音が、執拗に脳の芯を叩く。

 九条灰世くじょう・かいとは重い瞼をゆっくりと持ち上げ、汚れ一つないはずの天井に刻まれた、微細な「ノイズ」を見つめた。


 時刻は午前七時。厚手のカーテンの隙間から漏れ出す陽光は、本来なら瑞々しい一日の始まりを告げる祝福の光であるはずだ。だが、灰世の瞳に映るそれは、どこまでも「不純」だった。


 光の粒子は粗く、本来あるべき生命の躍動感――魔素マナの輝きが完全に欠落したその光線は、まるで古いフィルム映像を無理やり高輝度で再生しているような、平坦で奥行きのない偽物に思えた。窓の外から聞こえる雀の鳴き声さえも、どこか電子的な合成音のように鼓膜を滑っていく。


(……今日も、カサカサしてるな)


 上半身を起こし、ベッドの端に腰掛けて視界を泳がせる。

 空気中を舞う埃のさらに奥――普通の人間の眼には決して映らない、世界の「裏側の階層」が、砂嵐のようなノイズとなって灰世の脳に直接投影されていた。


 魔素が極限まで欠乏し、枯渇しきったこの現世(地球)という世界は、灰世の解像度では、水分を完全に失って白く粉を吹いた死の荒野のように見える。大気は粒子レベルで毛羽立ち、視界の端々では常に、存在しない風が砂を噛むような「空虚な音」が鳴り響いていた。


 この世界は、あまりにも乾きすぎている。


 魔素という名の「世界の潤滑油」を失った物質は、その結合さえも不安定になり、すべてがもろく、壊れやすく変容していた。呼吸をするたびに、肺の奥が細かなガラス片で削られるような錯覚を覚える。十五年前から始まったこの慢性的な不快感に、灰世が慣れることは、この先も一生ないだろう。


「兄さん! 起きてる? 遅刻するわよ」


 階下から響く、凛とした、それでいて温かみのある声。

 その響きが耳に届いた瞬間、灰世の表情から「掃除屋」としての無機質な硬質さが、春の雪が解けるように霧散した。


「……分かってる。今行く」


 掠れた声で短く答え、灰世は寝癖のついた黒髪を乱暴に整えてリビングへ降りた。

 食卓には、こんがりと狐色に焼けたトーストと、縁が少しカリッとした目玉焼き、そして香ばしい湯気を立てる味噌汁が並んでいた。


 キッチンに立つ妹、九条舞くじょう・まいは、エプロンの紐を結び直しながら灰世を振り返る。彼女だけは、この乾ききった世界の中で、不思議と鮮やかな色彩を保っていた。


 いや、正確には灰世の瞳が、彼女という存在だけを「この世界で最も守るべき、最高優先度の解像度」として無意識に処理しているのかもしれない。彼女の周囲だけは、砂嵐のようなノイズがぎ、確かな生命の輪郭を保っていた。


「おはよう、兄さん。……また昨日も遅かったんでしょ? バイト」


「ああ。少し、手間の掛かる荷物があってな。……配送ミスだ」


 灰世は椅子を引き、さりげなく舞の襟元へ視線をやった。

 制服のVネックから覗く、深い青色の石を嵌めたペンダント。五年前、母が最期に遺した唯一の形見だ。


 灰世がその「解像度」をさらに限界まで絞り込むと、石の周囲数センチだけ、大気が穏やかに透き通っているのが分かる。その石は、現世にわずかに漂う微弱な魔素を吸い込み、安定した波形へと変換して、舞の繊細な精神をこの世界の「毒」――魔素欠乏による無意識の疲弊から守る「聖域サンクチュアリ」として機能していた。


「そんなにジロジロ見て、何? 私の顔に食べカスでもついてる?」


「……いや。お前、そのお守りは外してないだろうな、と思ってな」


「当たり前でしょ。兄さんに言われなくても、お風呂の時以外はずっと着けてるわよ。……ほら、冷めないうちに食べて。今日は大学進学の三者面談があるんでしょ?」


 舞は呆れたように笑いながら、灰世の前にトーストを置いた。


 灰世は何も言わず、トーストを口に運ぶ。小麦の香ばしさとバターの塩気。舞が作る料理の味は、いつも灰世に「自分はまだ、こちら側の――人間の側にいる」という確かな実感を繋ぎ止めてくれた。このささやかな朝食の時間こそが、昨夜の路地裏で狩った「怪物」の鼻をつく血の臭いを忘れさせてくれる、唯一の劇薬だった。


 五年前、新宿の「青山の惨劇」と呼ばれた事件で母を失ってから、二人の生活は一変した。


 舞には、この世界の裏側で蠢く「悪魔」の正体も、それを利用して「資源」として独占しようとする特務組織『ホワイト・ホール』の冷酷な実態も、一切話していない。


 彼女の眼に映る世界は、まだ平和で、美しく、努力すれば誰かが認めてくれる価値のある場所であってほしかった。

 その偽りの聖域を、せめて彼女が大人になるまで守り抜くためなら、自分だけが情報のよどみに浸かり、血にまみれた「掃除」を続けていればいい。


「兄さん、進路指導のプリント……今日こそ出さなきゃダメだよ? 先生からまた電話きたら、私、なんて言えばいいの?」


「……適当に、就職希望とでも書いとけ。俺は、今のバイトのほうが割がいいからな。将来の夢なんて、俺には分不相応だ」


「もう! そういう冷めた言い方、全然面白くないんだから。兄さんにだって、本当はやりたいことの一つや二つ……」


 舞の真剣な、それゆえに灰世の胸を締め付けるような痛々しい抗議を背中で受け流し、灰世は鞄を掴んで玄関の扉を開けた。


 初夏の乾いた風が吹き抜ける、住宅街の通学路。

 行き交うサラリーマンのくたびれたスーツも、無機質に並ぶコンクリートの電柱も、灰世の瞳には「テクスチャの剥がれかけた安っぽいCG」のように映っている。


 魔素という構造補強材を完全に失った現世の物質は、灰世の認識下では、密度の低いスカスカの偽物に近い。街路樹の葉が擦れる音さえも、灰世には世界の理が悲鳴を上げている不協和音のように聞こえていた。


「よぉ、ハイセ! 相変わらず死んだ魚みたいな目をしてんな、お前!」


 背後から、遠慮のない衝撃とともに肩を叩かれ、灰世は小さくため息をついた。

 茶髪を適当に遊ばせ、制服を崩して着こなした少年、相馬慶介そうま・けいすけが、ニカッと白い歯を見せて横に並ぶ。


「……お前が朝からうるさすぎるだけだ、相馬。もう少し、周囲の解像度に配慮して歩けないのか」


「なんだよその難しい言い方! 元気こそが俺の取り柄だって知ってんだろ? あ、それより聞いたか? 昨日の新宿。またガス漏れで大爆発だったらしいぜ」


 慶介がスマートフォンの画面を灰世の眼前に突きつけてくる。

 ニュースサイトのトップには「新宿区内での局地的なガス爆発事故。負傷者なし。配管の老朽化が原因か」という、官僚の言い訳のような無機質な見出しが躍っていた。


 SNSのタイムラインをスクロールすれば、誰かが遠くのビルから撮影した、ピンぼけした「巨大な黒い影」の画像が投稿されていたが、それも数分もしないうちに『ホワイト・ホール』の情報工作班の手によって『不謹慎な加工画像』『フェイクニュース』というレッテルを貼られ、大衆の嘲笑とともに情報の底へと沈められていく。


「これさ、絶対ただの事故じゃないだろ。ネットのオカルト板じゃ『新宿の死神』がまた出たって大騒ぎだぜ。ほら、この黒い霧みたいなの、よく見ると化け物の腕に見えなくもないだろ?」


「……都市伝説の信じすぎだ、慶介。どうせ、安物スマホのレンズに指紋でもついてただけだろ。本当にガス爆発なら、辺り一帯がガスの匂いで充満してたはずだ。それ以上の余計な詮索は、自分の日常を壊すだけだぞ」


 灰世は冷淡に突き放し、駅へと続くエスカレーターに足を乗せた。


 慶介が熱心に指差したその「黒い影」の正体が、昨夜自分が剣で両断し、その魔素を骨の髄まで吸い尽くして灰へと還した悪魔の残滓ざんしであることを、親友が知る由もない。


 政府直轄組織――『ホワイト・ホール』による隠蔽工作は、今日も完璧に機能している。


 慶介のような一般人にとって、世界はまだ「制御可能な範囲内の、不幸な事故」に収まっているのだ。悪魔の存在を公に認めれば、この世界の「平和」という名の薄皮は一瞬で剥がれ落ち、人々の精神は高濃度の恐怖による情報のオーバーロードに耐えきれず、集団発狂を引き起こすだろう。それを防ぐための「美しい嘘」は、この現世において電力が水道よりも重要なインフラとして機能していた。


 だが。


(……限界だな。この嘘も、そう長くは持たない)


 駅のホームに差し掛かったところで、不意に灰世は足を止めた。


「お、どうした? 忘れ物か?」


 慶介の怪訝そうな問いかけに答えず、灰世は抜けるように蒼い今日の空を見上げた。

 極限まで「解像」を高めたその瞳だけが、世界の断末魔を捉えていた。


 一点の曇りもないはずの快晴の、はるか高い成層圏の付近。

 目に見えないほど微細な、まるで熱湯をかけたガラスに走るような「物理的な歪み」が、網目状に空全体へ広がっているのを。


 そこからは、現世の物理法則では決して説明のつかない、不気味なリズムを持った異質な波動が、歌うように、あるいは嘲笑うように漏れ出していた。


(境界が、きしんでる……。あいつらが、一気にくさびを打ち込み始めたか)


 昨日までの「澱み」とは明らかに規模も、込められた意志の強さも格が違う。

 それは、もはや政府の情報工作班や、灰世のようなフリーランスの「掃除」だけで凌げる段階を通り越し、世界そのものが「別のルール」に塗り替えられようとしている、不可避の予兆だった。


「おい、ハイセ? 顔色が悪いぞ。マジで大丈夫かよ、保健室行くか?」


「……いや、何でもない。ただの眩暈めまいだ。行くぞ、電車が来る」


 灰世は強引に視線を地面へと落とし、再び歩き出す。

 九条灰世が守り抜こうとする、舞との「穏やかな日常」という名の聖域。

 その脆い防壁に、取り返しのつかない決定的な亀裂が走り始めたことを、彼は誰よりも早く、そして恐ろしいほど正確に悟っていた。

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