第九話:蒼い視線、赤い予兆
「……灰世様、これは……どのような高位の封印術式なのですか?」
ルナリエルが翠の瞳を丸くして、目の前の「自動ドア」を凝視していた。彼女が足を踏み出すたびに、無機質なガラスの扉が左右に滑らかに開く。彼女にとって、それは魔素の気配を一切感じさせない、不気味なほど「無音」の魔法に見えていた。
「魔法じゃない。ただのセンサーと電気だ。……お前、あまりキョロキョロするな。目立ちすぎる」
九条灰世は、少し長めの前髪を指でかき上げながら、溜め息混じりに答えた。
ここは住宅街に近い中規模のスーパーマーケット。夕食の買い出しという、この世界で最もありふれた「日常」のど真ん中に、異世界の聖女が紛れ込んでいた。
ルナリエルの首元には、昨夜カノンの工房で手に入れた『魔素遮断具』が装着されている。細い銀の鎖に、現世の不純な電磁波を逆利用して魔素の漏出を抑える特殊なチップが組み込まれた代物だ。
おかげで、昨日のように彼女の周囲で観葉植物が暴走することはない。だが、その圧倒的な美貌と、どこか浮世離れした立ち振る舞いまでは隠しきれなかった。彼女は灰世の古着のパーカーにデニムという簡素な格好をしていたが、それがええって彼女の白磁の肌と青い髪を際立たせていた。
「……電気。魔素を介さずに事象を動かす理、ですか。現世の人々は、これほどまでに過酷で、そして精密な世界を構築しているのですね」
ルナリエルは野菜売り場のスプリンクラーから噴き出す微かな霧にさえも、祈るような視線を向けていた。彼女の目には、現世のあらゆる利便性が、魔素という恩恵を奪われた人類が必死に絞り出した「生存の知恵」として映っているようだった。
灰世はそんな彼女の反応を横目に、カゴに卵と牛乳、そして舞がリクエストした特売の豚肉を放り込んでいく。灰世の「解像度」を少しだけ上げれば、スーパーの蛍光灯が刻む微細なフリッカーや、冷蔵ケースから漏れる冷気の粒子が手に取るように見えた。
(……平和だな。カサカサして、薄っぺらで。……それでも、こいつにとっては「驚異」か)
ふと、灰世は自身の右腕に意識を向けた。皮膚の奥に蓄積されたヴェルトの魔素は、カノンの調整によってある程度安定したが、それでも時折、チリチリとした拒絶反応が神経を刺す。
日常を維持するためのコスト。この買い物袋の重みさえも、いつかこの「解像度」の網膜から消えてしまうのではないかという、漠然とした予感が灰世の脳裏を掠めた。
買い物を終え、夕闇が迫る住宅街の歩道を、二人は並んで歩いていた。
「灰世様、舞様に……お土産として、この『なまくりーむどら焼き』というものを購入しましたが、術式の安定性は大丈夫でしょうか?」
「食べ物に術式なんて入ってない。ただの砂糖の塊だ。……それより、さっきから後ろを歩いてるヤツに気づいてるか」
灰世の声が、急に低く、硬質なものに変わった。
ルナリエルはハッとして足を止め、背後を振り返ろうとした。だが、灰世がその肩を軽く手で制した。
「……見るな。相手はプロだ。……というか、わざと足音を立ててやがる」
灰世の「解像度」は、背後の雑踏の中に混じった「異質な波形」を既に特定していた。
それは、現世の空気に不自然な波紋を広げる、継ぎ接ぎだらけの不快なノイズ。人工魔素を全身の回路に流し込み、無理やり「格」を引き上げられた強化人間の気配。
「九条灰世。……および、身元不明の特定外来因子」
前方の電柱の影から、凛とした、しかし氷のように冷たい声が響いた。
夕闇を切り裂くようにして姿を現したのは、一人の少女だった。
銀色の髪をウルフカットに整え、冷徹な蒼い瞳をした少女。彼女は学校の制服を身に纏っていたが、その立ち姿は学生のそれとは程遠い。腰には、現世の法を逸脱した兵器――対魔高振動ブレードが、鞘に収まったまま不気味な存在感を放っていた。
白銀冴華。
内閣府直轄、対魔特別対策室『ホワイト・ホール』のエースが、そこには立っていた。
「……昨日、屋上で俺を覗き見してたヤツか。わざわざ、こんなところまで掃除の注文に来たのか?」
灰世はレジ袋をルナリエルに預け、ポケットに手を突っ込んだまま一歩前に出た。
「貴方には、内閣府への任意同行の義務があります。昨夜の新宿における特異点での戦闘、および未登録の魔素還流技術の行使。……すべて、国家資源管理法に抵触しています」
冴華の言葉は、事務的で、一切の情を排していた。彼女の周囲の大気が、彼女の体内の人工魔素に呼応して、ジリジリと焦げたような音を立て始める。
「同行を拒否する場合は? この場で『素材』として回収するか?」
「……抵抗は推奨しません。一般人が行き交うこの場所で、貴方の能力を解放すれば、どのようなパニックが起きるか……分かっているはずです」
冴華の視線が、灰世の背後にいるルナリエルへと向けられた。
「……その女性。彼女から放出される情報の密度は、現世の許容値を大幅に超えています。……彼女もまた、回収対象です。……九条灰世、貴方が妹との日常を愛しているなら、賢明な判断をなさい」
『舞』の名前が出た瞬間、灰世の瞳の奥で、幾何学紋様が静かに、そして暴力的な速度で回転を始めた。
(……あいつ、今、なんて言った?)
灰世の世界から、周囲のノイズが消えた。
目の前に立つ白銀冴華という存在が、一枚の「設計図」のように透けて見える。
彼女の体内を流れる人工魔素の回路。それは、美しく、そして残酷なまでに「ボロボロ」だった。至る所に負荷による焼き付きがあり、無理な出力の代償として、彼女の細胞は内側からゆっくりと、しかし確実に壊死し始めている。
「……おい、銀髪。お前、さっきから偉そうな口を叩いてるが」
灰世が、音もなく地面を蹴った。
「っ!? 速い……っ!」
冴華が反応し、対魔ブレードの柄に手をかけるよりも早く、灰世は彼女の至近距離まで踏み込んでいた。
灰世は剣を抜かなかった。ただ、二本の指を冴華の額の前に突きつけた。
「……お前のその回路、あと三ヶ月で焼き切れるぞ。……人工魔素を心臓に直結させて、誰を守るつもりだ? ……自分さえ守れていない欠陥品が、俺の日常に触れるな」
灰世の指先から、目に見えないほど微細な「真正の魔素」が弾かれた。
それは攻撃ですらなかった。ただの、正しい情報の提示。
「が……っ、あ……ぁ……っ!!」
冴華の全身が激しく硬直した。彼女の人工回路が、灰世の放った高精細な魔素に「共鳴」し、制御不能なオーバーフローを引き起こしたのだ。
冴華は膝をつき、激しい呼吸と共に口元を押さえた。指の隙間から、青白い人工魔素の光を帯びた唾液が零れ落ちる。
「……お前ら『ホワイト・ホール』の隠蔽工作は、昨日までは完璧だった。……だが、今日からは違う。……俺の目には、お前たちが塗り固めた嘘の裏側が、解像度の低いゴミ山にしか見えないんだよ」
灰世は冷たく言い放つと、背後のルナリエルに歩み寄った。
「行くぞ。……卵が割れる前に、帰らなきゃならない」
「……は、はい……灰世様」
ルナリエルは、地面に伏して震える冴華を一瞬だけ悲しげに見つめ、灰世の後に続いた。
冴華は、去っていく二人の背中を、充血した瞳で見送るしかなかった。
(……何なの……今の、力は……。……私の回路を、直接……書き換えた……?)
彼女の抱いた戦慄は、恐怖というよりも、圧倒的な「格の差」への屈辱だった。
九条家への帰り道、住宅街の角を曲がったとき。
ふと、ルナリエルが立ち止まり、夜空を見上げた。
「……灰世様。……見て、ください」
その声の震えに、灰世も足を止めた。
「……なんだ?」
灰世が視線を上げた、その瞬間。彼の「解像度」が、世界の終焉を告げる予兆を捉えた。
五月の夜空。一点の曇りもないはずの星空から、何かが「舞い落ちて」いた。
それは雪ではなかった。花びらでもない。
不気味なほど鮮やかな、血のような「赤い粉」だ。
「……これは……?」
灰世が手を差し伸べると、指先に一粒の赤い粉が落ちた。
触れた瞬間、指先の感覚が麻痺し、そこから異質な魔素が浸食してくるのを感じる。灰世の瞳の中の紋様が、かつてない激しさでアラートを鳴らし始めた。
「テラフォーミング……第2フェーズ。……世界が、書き換えられようとしています」
ルナリエルが絶望に満ちた声で呟いた。
街灯の光に照らされた赤い粉は、ゆっくりと、しかし確実にアスファルトを染めていく。
それは、隠蔽されていた日常が物理的に剥がれ落ち、魔界の理が現世を飲み込もうとする、不可避のカウントダウン。
九条灰世が守り抜こうとする聖域の外側で、世界はついに、取り返しのつかない崩壊の旋律を奏で始めていた。




