プロローグ:灰の解像度
深夜、新宿。
極彩色のネオンが夜を塗りつぶし、人々の欲望と喧騒がアスファルトを叩く大都会。その華やかな光の膜を一枚剥がせば、そこには「澱み」があった。
一般の人間がそこへ迷い込めば、せいぜい「不快なガスの臭い」か、あるいは「正体不明の寒気」を感じる程度だろう。だが、その感覚の正体を知る者は、この世界では一握りしかいない。
闇の奥で、カサカサと何かが乾いた音を立てて蠢く。
それは不定形の泥のような姿をした、知性を持たない悪魔――『無冠』。人々の無意識の不安を模倣し、この魔素が枯渇した現世へと染み出してきた境界の捕食者だった。
「……また、このレベルか」
路地裏の奥から、低く醒めた少年の声が響いた。
九条灰世は、着崩した制服のネクタイを面倒そうに緩めると、肩に背負った巨大な楽器ケースのような袋――そのファスナーに手をかけた。
引き抜かれたのは、刃渡り一メートルを優に超える長剣。
灰世が重い足取りで踏み出すと、悪魔が反応し、泥の身体を槍のように鋭く突き出してきた。
常人であれば、その不可視の突進に反応することすら叶わず、一瞬で肉を削がれていただろう。
だが、その一撃が灰世に届くことはない。
灰色の瞳が、淡い光を帯びる。瞳孔の奥に複雑な幾何学紋様が浮かび上がり、高速で回転を始めた瞬間、彼の視界から「色」が消えた。
夜の暗闇は、無機質な「情報の海」へと書き換えられる。
悪魔の身体を構成する魔素の粒子一つひとつが、ミリ単位の精度で脳内へと解析・投影されていく。攻撃の初動、魔素の密度の偏り、そして「核」の所在。
灰世にとって、悪魔の突進はコマ送りの映像よりもさらに鈍く、予測可能な退屈な記号に過ぎなかった。
「……あくびが出る」
灰世は最小限の動きで攻撃をかわし、剣を片手で軽々と振り抜いた。
空気を切り裂く衝撃音。コンクリートの壁が削れ、悪魔の胴体を一文字に断ち割る。
通常、魔素の乏しいこの現世において、異能の行使は一方的な浪費となる。だが、灰世の戦い方は、その理さえも嘲笑っていた。
断たれた悪魔の切断面から、魔素が塵となって霧散しようとする。その瞬間、微細な粒子が吸い込まれるように、灰世の振るう剣へと吸い寄せられていった。
――『魔素還流』。
敵を斬り、その存在定義を己の糧として再構築する、極限の運用効率。
「ごちそうさん。……マズいが、背に腹は代えられないからな」
悪魔が最期の断末魔を上げる間もなく、その存在は完全に消失した。
灰世は瞳の紋様を消し、再び「どこにでもいる男子高校生」の仮面を被る。
遠くからパトカーのサイレンが聞こえてくる。ホワイト・ホールの連中が現場を封鎖し、もっともらしい「ガス爆発」だか「通り魔」だかの隠蔽を始める前に、ここを去らねばならない。
「……腹、減ったな」
灰世は剣を袋に収め、闇の中に溶けるように、静かに姿を消した。
その背後で、東京の夜空を不吉な「赤」が微かに撫でたことを、まだ誰も知らない。




