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アッシュ・コード  作者: 木徳寺
第一部:現世編
1/12

プロローグ:灰の解像度

 深夜、新宿。


 極彩色のネオンが夜を塗りつぶし、人々の欲望と喧騒がアスファルトを叩く大都会。その華やかな光の膜を一枚剥がせば、そこには「よどみ」があった。

 一般の人間がそこへ迷い込めば、せいぜい「不快なガスの臭い」か、あるいは「正体不明の寒気」を感じる程度だろう。だが、その感覚の正体を知る者は、この世界では一握りしかいない。


 闇の奥で、カサカサと何かが乾いた音を立ててうごめく。

 それは不定形の泥のような姿をした、知性を持たない悪魔――『無冠ステイル』。人々の無意識の不安を模倣し、この魔素マナが枯渇した現世へと染み出してきた境界の捕食者だった。


「……また、このレベルか」


 路地裏の奥から、低くめた少年の声が響いた。


 九条灰世くじょうかいとは、着崩した制服のネクタイを面倒そうに緩めると、肩に背負った巨大な楽器ケースのような袋――そのファスナーに手をかけた。


 引き抜かれたのは、刃渡り一メートルを優に超える長剣。

 灰世が重い足取りで踏み出すと、悪魔が反応し、泥の身体を槍のように鋭く突き出してきた。


 常人であれば、その不可視の突進に反応することすら叶わず、一瞬で肉を削がれていただろう。


 だが、その一撃が灰世に届くことはない。


 灰色の瞳が、淡い光を帯びる。瞳孔の奥に複雑な幾何学紋様が浮かび上がり、高速で回転を始めた瞬間、彼の視界から「色」が消えた。


 夜の暗闇は、無機質な「情報の海」へと書き換えられる。

 悪魔の身体を構成する魔素の粒子一つひとつが、ミリ単位の精度で脳内へと解析・投影されていく。攻撃の初動、魔素の密度の偏り、そして「核」の所在。


 灰世にとって、悪魔の突進はコマ送りの映像よりもさらに鈍く、予測可能な退屈な記号に過ぎなかった。


「……あくびが出る」


 灰世は最小限の動きで攻撃をかわし、剣を片手で軽々と振り抜いた。

 空気を切り裂く衝撃音。コンクリートの壁が削れ、悪魔の胴体を一文字に断ち割る。


 通常、魔素の乏しいこの現世において、異能の行使は一方的な浪費となる。だが、灰世の戦い方は、そのことわりさえも嘲笑っていた。

 断たれた悪魔の切断面から、魔素がちりとなって霧散しようとする。その瞬間、微細な粒子が吸い込まれるように、灰世の振るう剣へと吸い寄せられていった。


 ――『魔素還流マナ・リサイクル』。


 敵を斬り、その存在定義を己の糧として再構築する、極限の運用効率。


「ごちそうさん。……マズいが、背に腹は代えられないからな」


 悪魔が最期の断末魔を上げる間もなく、その存在は完全に消失した。

 灰世は瞳の紋様を消し、再び「どこにでもいる男子高校生」の仮面を被る。


 遠くからパトカーのサイレンが聞こえてくる。ホワイト・ホールの連中が現場を封鎖し、もっともらしい「ガス爆発」だか「通り魔」だかの隠蔽を始める前に、ここを去らねばならない。


「……腹、減ったな」


 灰世は剣を袋に収め、闇の中に溶けるように、静かに姿を消した。

 その背後で、東京の夜空を不吉な「赤」が微かに撫でたことを、まだ誰も知らない。

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