第6話 聖別の床
廊下に出た瞬間、背中が少しだけ寒くなった。
王女の居室前の騒ぎは、扉一枚の向こうでまだ続いている。けれど宮廷は切り替えが早い。
事件が起きても、廊下の空気は何事もなかった顔をする。そうやって回ってきた場所だ。
俺は足元に視線を落とした。
影が――揺れている。
灯りのせいじゃない。俺の歩幅とも合わない。
もうひとつ、別のリズムが混ざっている。
尾けられている。
リオナも気づいたらしい。肩がほんのわずかに固くなった。だが振り向かず、俺の立ち位置だけをさりげなくずらす。壁寄りに詰めて、背後からの角度を殺す。
「殿下。止まらないでください」
「分かってる」
今夜の出来事は、ただの毒杯事件では終わらない。
誰かが、もっと扱いやすい形にして持ち帰る。そんな気配がする。
角を曲がると、尾けていた影の主があっさり姿を見せた。
白い法衣の男。教会の使いだ。神官のようで、神官よりも“手続きを回す係”の匂いがする。
男は深々と頭を下げる。礼は立派だが、目つきは冷えたままだ。
「第三皇子殿下。教会より通達がございます」
「通達?」
リオナが眉を寄せた。
「王女殿下に呪毒の疑いが生じました。よって王族および関係者の聖別を実施いたします」
「……聖別、ですか」
「聖別の床にて、結界と祈祷で影響を確認いたします」
確認。
便利な言葉だ。何でも正当化できる。
リオナが一歩前に出た。
「殿下は毒杯の件で監視下にあります。教会の場へ連れ出すのは――」
「陛下の許可は得ております」
男は書面を差し出した。署名と公印。
やはり宮廷で一番怖いのは剣じゃない。紙だ。
俺は書面を受け取り、視線だけで中身を追う。
「王女はどうした」
「聖女候補が結界を維持しております。命は繋いでおりますが、再発の恐れがございます」
再発。
外した瞬間、暴走がぶり返す。あれは脅しでも何でもなく事実だ。
「だからこそ聖別が必要でございます。呪毒が絡むなら、教会の領分です」
領分。つまり、口を挟むなという宣言でもある。
リオナが短く息を吐いた。
「分かりました。案内してください。ただし私が同行します」
「もちろんでございます、近衛騎士殿」
男が先に歩き出す。俺たちも続いた。
尾行の気配はもう感じない。最初から、ここへ連れてくるための段取りだったのだろう。
案内されたのは小さな礼拝堂だった。
扉を開けた瞬間、香が濃く鼻を刺した。灯りは白々しく、肌の色まで薄く見える。
そして床が妙だ。石畳に銀の線が埋め込まれ、輪を描く文様になっている。中心へ寄るほど影が薄い。
聖別の床。
一歩踏み入れた途端、影が軽くはがされる感覚がした。
影収納の奥まで冷える。嫌な予感が、しっかり形になる。
ここは影が使いにくい。そういう場所だ。
「第三皇子殿下」
奥から声。白いベールの少女が立っていた。王女の部屋で結界を維持していた聖女候補だ。
目が合っても揺れない。怯えもしない。祈りの道具みたいに静かなのに、目だけは強い。
「リリア・エヴァレットと申します。聖女候補として、今夜の調査を任されています」
「調査、ですか」
リオナが反応する。
「呪毒が宮廷に持ち込まれた可能性がございます。王族と関係者の安全を確認する必要がございます」
丁寧な口調。だが、譲る余地は一切ない。
左右に神官が二人立っている。手には聖水と、細長い銀の棒。
殴るためのものではなく、触れて反応を見る道具だろう。
「殿下。床の中央へ」
神官の一人が言った。
俺は輪の中心へ歩いた。
足裏が落ち着かない。影が薄く、体の支えが少しずつ抜けていくようだ。
リリアが静かに言う。
「この床の上では、影は隠れにくくなります。そういう造りです」
「隠している前提なんだな」
「疑いを晴らすためでございます」
きれいな答えだ。
だが本音は違う。疑いを晴らすというより、俺を疑わしい側に固定したい。
神官が銀の棒を持ち上げた。
その瞬間、影収納の奥がざわついた。
硝子片、小瓶、メモ。沈めてある証拠が、引き上げられそうになる。
まずい。
この床は影を薄くするだけじゃない。影の奥に隠したものまで、表に引きずり出す。
俺は息を吐き、意識を一点に絞った。
影を増やすんじゃない。深くする。銀の線が届かない、ほんの小さな黒へ滑り込ませる。
そこへ証拠を沈め直す。
胸の奥がきしむ。無理をすれば綻びかねない。
それでも、今ここで出すわけにはいかない。
リリアの目がわずかに細くなった。
見ている。気づいている。だが言わない。
銀の棒が影に触れた。ちり、と小さな音。影が薄く震える。
神官が顔をしかめる。
「反応は弱い。しかし影の系統であることに変わりはありません」
「最初から決めてかかっているな」
神官の眉が跳ねた。
「殿下。今夜、王女殿下が倒れたのです。教会として見逃せません」
「見逃さないなら、犯人を探せ」
「だからこそ殿下も含め、全員を調べるのです」
堂々巡り。
この堂々巡りで時間を奪い、俺に猶予を渡さないつもりだ。
リリアが手を上げた。
「そこまでにしてください。今は争う時間ではございません」
神官は不満そうに口を閉じる。
リリアは俺を見る。
「第三皇子殿下。確認いたします。祝宴で、あなたは杯に触れましたか」
「触れた」
「理由は何ですか」
「危ない気配がした」
頷きがひとつ。信じた頷きじゃない。記録するための頷きだ。
「その後、王女殿下は呪毒の発作を起こされました。あなたは影で鎮めた。これは事実ですか」
「事実だ」
「王女殿下を害する意図はございましたか」
「ない」
言い切る。
リリアは一度だけ目を伏せ、すぐに顔を上げた。
「教会の結界は今夜から王女殿下の居室を聖別いたします。影の出入りは制限されます」
「つまり?」
リオナが言う。
「王女殿下に近づける者を絞ります。治療と護衛のためです」
もっともらしい名目で、出入りを整理する。
王女を守るためと言いながら、都合の悪い人間を遠ざけることもできる。
神官が続けた。
「公開審理は前倒しだ。準備が整い次第、日の出前に裁定が下される」
リオナが目を見開く。
「明朝のはずです」
「呪毒が絡んだ。朝まで待つ余裕はない」
神官は平然と言った。
俺は一度だけ目を閉じた。
早い。
首輪を締める速度が、さらに上がった。
そのときリリアが、俺にだけ聞こえるほど小さくつぶやいた。
「第三皇子殿下。ひとつだけ」
「何だ」
「証拠をお持ちですか」
探りだ。
しかも当てずっぽうじゃない。さっき俺が影を深くした瞬間を、彼女は見ていた。
俺は答えない。
リリアはそれ以上踏み込まず、ほんの少しだけ表情を和らげた。
「もしお持ちなら……お渡しになる相手を、慎重にお選びください」
「教会に渡せと言うのか」
「いいえ。教会にはお渡しにならないほうがよろしいです」
礼拝堂の白さの中で、その言葉だけが妙に生々しかった。
リオナがリリアを見る。
だが会話の中身までは届かない。声量と距離を、そう作っていた。
神官が宣言する。
「第三皇子殿下にはこの場で待機していただきます。監視は近衛騎士が担当。審理の準備が整い次第、移送します」
待機、監視、移送。
整った言葉の裏で、首輪が締まっていく。
俺は床の文様を見下ろした。薄い影が銀の線に削られていく。
それでも影は消えない。影の奥には、まだ証拠がある。
なら、やることは一つだ。
この床が俺を縛るなら、縛られたまま勝つ。
そして朝までに、味方を一人でも増やす。
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