第3話 影が拾った証拠
眠れるはずがなかった。
小部屋の灯りは落とされ、窓の外は真っ暗だ。扉の向こうでは近衛が交代する足音がする。リオナ・ヴァイスは壁際に立ったまま、目だけでこちらを見張っている。
こいつも寝る気はないんだろう。
俺は椅子に深く腰を下ろし、背もたれに体重を預けた。落ち着いて見せるのは大事だ。焦りを見せれば、相手は簡単に付け込む。
明日の朝、そこで行われる公開審理で何も出せなければ終わりだ。
俺は足元へ意識を落とした。
影が静かに伸びる。薄い膜みたいに床をなぞり、扉の隙間へ潜り込む。鍵穴の影を通り、廊下へにじむ。
ここで深く潜ると、リオナに気づかれる。
だから浅く、細く。息を止めるくらいのつもりで。
廊下の向こうから、衛兵の会話が落ちてくる。
「第三皇子は明朝に片付く」
「証言はもう固めてある」
「杯の処理は終わったか」
終わった、という言葉に胃の奥が冷えた。
証拠は消される。
物も、口も、痕跡も。
俺は影をさらに滑らせ、会話の先へ寄せた。暗がりを辿って、大広間の裏手へ。宴が終わったあとの通路は妙に忙しい。給仕が皿を運び、侍従が指示を飛ばし、掃除の者が血と酒を拭き取っている。
倒れた貴族が吐いた跡は、すでに布で覆われていた。
落ちた杯は破片だけが残り、金属の盆の上に集められている。
よかった。まだある。
影を伸ばして破片へ触れる。冷たい硝子の感触が、指先ではなく意識に伝わる。割れ方が荒い。誰かが慌てて叩き落としたような欠け方だ。
破片をそのまま奪えば目立つ。
だから一片だけ。小さく、鋭い欠片を選ぶ。
影の内側が、ふっと深くなる。底のない袋に落とすみたいに、欠片が消えた。
影収納
この体で目を覚ましてから、俺が掴んだ数少ない切り札だ。触れたものを影の奥へ沈め、外から見えない場所に隠す。重さも、音も、持っている感覚もない。ただ、取り出すときだけ確かな形で戻ってくる。
続けて、盆の端に転がる小瓶を見る。親指ほどの大きさ。栓が半分だけ濡れている。
毒を扱った指が触れた跡だろう。
影をすべらせ、瓶を巻き取って沈める。
さらに周囲を探る。
床に落ちた紙切れ。
焦って握り潰したような、短いメモ。字は乱れている。
『合図は乾杯の直前。
杯は右へ。
皇子に触れさせろ。』
文字が見えた瞬間、腹の底に熱いものが湧いた。
これだ。
これなら言い逃れが利きにくい。
影が紙切れを押さえ、同じように奥へ沈める。
これで最低限の物証は確保した。
だが、まだ足りない。
証拠だけでは覆らない。宮廷は理屈の場じゃない。
欲しいのは、盤面をひっくり返す一手だ。証言者。あるいは、俺を裁けない理由。
俺が影を引こうとした、そのとき。
通路の奥で、掃除係の男がぼそっと言った。
姫の具合が悪いらしい。
さっきから医務官が走ってる。
姫。セレスティア王女。
俺は影を止めた。
おかしい。
俺は毒を抜いた。杯の角度もずらした。最低限のはずだ。
なら、第二段か。
王女を殺さずに、弱らせる。
同盟の顔に泥を塗り、教会を動かし、宮廷を揺らす。そのうえで、第三皇子に責任を押し付ける。
完璧すぎる。
影を戻すと、リオナがこちらを見ていた。最初から気づいていたわけじゃない。ただ、俺が何かをしたのを感じ取った顔だ。
「殿下。今のは」
「何もしてない」
「影が揺れました」
「揺れることもある」
苦しい言い訳だと自分でも思う。
だが今は、俺が能力を見せるほど不利になる。
リオナは眉をひそめたまま、扉のほうへ視線を動かす。そこへ、またノックの音が重なった。
「近衛騎士リオナ殿。緊急の伝達です」
扉の外の声が早口だった。
「セレスティア王女殿下の容態が急変。医務官が招集され、教会も呼ばれています。祝宴の毒は一時のものではなく、呪いに近い可能性がある、と」
呪い
胸の奥が、冷たく沈む。
影魔法を嫌う教会。
聖女候補。
そして王女の急変。
全部が一本の線で繋がり始めている。
リオナが俺を見た。疑いの目だが、さっきとは少し違う。迷いが混じっている。王女の件が本当なら、ここで俺を雑に処分している場合じゃない、と頭のどこかで理解したのだろう。
「殿下。あなたは何を知っていますか」
「知ってることは少ない」
「では、何をしたんです」
俺は答えなかった。
答えた瞬間、俺の証拠は奪われる。
ただ、ひとつだけ確かなことがある。
明朝を待っていたら、王女が先に死ぬかもしれない。
そうなれば、俺の濡れ衣はもっと強くなる。
俺は椅子から立った。
「リオナ」
「……はい」
「王女のところへ行く。止めるなら止めていい」
「殿下は容疑者です」
「だから行く。王女が死ねば、俺は確実に死ぬ」
リオナは一瞬、言葉を失った。
それから、苦い顔で息を吐く。
「分かりました。ただし私が付きます。あなたが何をしようと、全部見届けます」
「それでいい」
扉の向こうの廊下へ、冷たい空気が流れ込む。
影の奥に沈めた硝子片と小瓶とメモが、妙に重く感じた。
それは俺の命綱で、同時に、今夜から始まる戦いの引き金でもある。
祝福の鐘が鳴るころ、運命が動く。
次に動くのは、俺だ。
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