第2話 濡れ衣
「第三皇子殿下。お立ちください」
あの場で抵抗しなかったのは正解だった。
ここで暴れた瞬間に決まる。影魔法で抵抗したところを取り押さえられて、そのまま毒杯の犯人に仕立て上げるつもりだろう。話の筋が良すぎる。
俺はゆっくり椅子から立った。
近衛騎士の女は剣に手を添えたまま一歩だけ退く。抜かない。だが距離は詰めさせない。
迷いなく正しい手順で人を縛る。怖いのは刃じゃない。こういう相手は、きれいに人を殺す。
「殿下をお預かりします。形式です」
「形式は便利だな」
「……殿下」
声は硬い。怒っているというより、手順を崩されるのが嫌いなタイプだ。
俺は余計な芝居はしない。手を上げて弱さを演じる必要もない。
ただ、余計な動きをしない。今はそれだけでいい。
背中に視線が刺さる。
貴族たちのざわめきは、あっという間に一つの形へまとまっていく。
第三皇子が杯に触れていた。
影を伸ばしていた。
なら犯人は――。
濡れ衣という言葉が、ぴたりと嵌まる。
俺は振り返らずに歩き出した。広間の出口へ向かう途中、玉座の側がちらりと見える。第一皇子は微笑みを崩さず、周囲を落ち着かせるように手を上げていた。
あれが完璧か。
妹はこれを推してたんだよな。俺は心の中でため息をついた。
扉を抜けると廊下の空気は冷たかった。
さっきまでの甘い香りが嘘みたいに消えて、石と鉄の匂いが残る。
「お名前を伺っても」
俺が言うと、女騎士は少しだけ眉を動かした。
「近衛騎士、リオナ・ヴァイス。殿下の監視役を仰せつかりました」
「監視役?」
「本件の間、殿下の行動を制限します。逃走、証拠隠滅、口封じ。あらゆる可能性がありますので」
淡々としている。
悪意がない分だけ、余計に厄介だ。
「殿下は影魔法の使い手と伺っています。使用は控えてください」
「教会が嫌うからか」
「……はい。今夜は聖女候補もおります。火種は避けたい」
火種
俺の存在そのものが火種だ、と言いかけて飲み込む。言っても得はない。
歩きながら、俺は耳を澄ませた。
影に意識を落とす。ほんの浅く。深くやればリオナに気づかれる。
柱の影、燭台の足元、壁の彫りのくぼみ。
そこに落ちた気配が、ひそひそと囁く。
「牢に入れろ。今夜中だ。」
「証言は揃えてある。杯に触れていたことにする。」
「王女は助かったか。いや、まだだ。第二段がある。」
第二段。
背中が冷える。
毒杯で終わりじゃない。王女が無事なら、次は別の手段で事故にする。そういう筋書きだ。
俺は袖の内側に指を滑らせた。
さっき影ですくい取った、あの薄い膜。毒の名残。それを影の奥に沈めてある。証拠はある。だが今出せば奪われる。
まだだ。今は出さない。
通されたのは地下牢ではなかった。
豪奢ではないが清潔な小部屋。窓には格子。扉の外には近衛が二人。実質、軟禁だ。
「殿下はここで待機してください」
リオナは扉の前に立ち、逃げ道を塞ぐように腕を組んだ。
「牢に入れないのか」
「皇子を地下牢に入れれば、それだけで騒ぎになります。陛下もお望みではありません」
つまり体裁だ。
体裁のために生かしておいて、体裁が整ったら殺す。
「処分はいつ決まる」
「……断罪の場は、明朝に設けられる見込みです」
明朝。早い。
処刑ルートは、ちゃんと走っている。
リオナが視線を落とす。ほんの一瞬だけ迷いが滲んだ。
「殿下。質問に答えてください。杯に触れたのは事実ですか」
「触れた」
「理由は」
「おかしいと思った」
それ以上は言わない。
毒を抜いたと口にした瞬間、話はすり替えられる。影魔法で杯を操作した。王女を狙った。そういう形に加工される。
リオナは唇を結び、言葉を飲み込んだ。
「殿下の言葉だけでは動けません。証拠が必要です」
「分かってる」
そのとき扉がノックされた。控えめだが急いでいる音だ。
「近衛騎士リオナ殿。陛下より通達です」
扉の外の声が続く。
「第三皇子殿下は王女暗殺未遂の容疑により、明朝の公開審理にて断罪する。準備を進めよ、と」
公開審理。断罪。
言葉は丁寧でも意味は一つだ。
リオナが俺を見た。まっすぐな目で、逃げ道を探すこともせずに。
「……殿下。今夜は眠れませんよ」
「そうだな」
俺は椅子に腰を下ろした。落ち着け、と自分に言い聞かせる。
焦った瞬間に負ける。相手はそれを待っている。
足元の影が静かに揺れる。
味方かどうかは分からない。ただ一つ確かなのは、今夜のうちに手を打たなければ明日は来ないということだ。
濡れ衣を剥がすには、間に合う形の何かが必要になる。
俺は影の中に沈めた証拠の感触を、もう一度だけ確かめた。
初投稿です
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