第1話 毒杯の席
廊下は静かだった。静かすぎて、遠くの音楽だけがやけに大きく聞こえる。
案内役の侍女が一歩先を歩く。足取りは乱れないし、振り返りもしない。
俺が何者で、どう扱うべきか――その答えを最初から持っている歩き方だ。
「殿下、こちらです」
扉の向こうから、笑い声が漏れてきた。グラスの触れ合う音、拍手、やけに明るい賛辞。
祝宴はもう始まっているらしい。
俺は息を整える。
招待状の文面が、まだ指先に残っている気がした。
“乾杯は陛下の御前にて”――その一行が、嫌になるほど重い。
毒杯。
妹が吐き捨てるみたいに言っていた単語が、喉の奥で転がった。
扉が開く。
熱と香りが押し寄せた。燭台の光、絹の衣擦れ、葡萄酒と香水が混ざった甘い匂い。
そして何より、視線だ。
一瞬で分かる。ここは優雅な場所じゃない。値踏みの場所だ。
俺は端へ通された。玉座からも第一皇子の席からも遠い位置。
話しかけられないのに、動きだけは見られている。近寄られないのに、監視だけは外されない。
皇子という身分は都合よく使われる。
表では“王家の一員”として飾られて、裏では“何かあった時の責任者”にされる。
味方が増える種類の立場ではない。
「第三皇子殿下、ようこそ」
形式的な挨拶が二つ三つ降ってきて、すぐに切り上げられた。
俺の席の周りだけ、空気が一段冷たい。
視線の先、場の中心には第一皇子がいた。
アルベルト・アルグレイス。
微笑みだけで場を支配できる男――妹が推していた、完璧な王子様。
……こんなのを推してたのかよ。
内心で呟いて、感情を押し込める。ここで顔に出したら負ける。
ほどなくして、扉が再び開いた。
「同盟国リュミエール王国第一王女、セレスティア殿下のご入場」
白い拍手が広間を満たす。王女は軽く会釈して歩いた。背筋が真っ直ぐで、目は澄んでいる。
護衛と侍女に囲まれているのに、妙に孤独な色があった。
同盟。婚姻。軍事協定。
言葉は綺麗でも中身は血の匂いがする。宮廷の祝宴なんて、そういうものだ。
王女の後方、少し離れた位置に教会の席がある。
白い法衣の列の中に、ひときわ目を引く少女がいた。顔はベールで半分隠れている。
聖女候補。
――あれが、妹の言っていた“主人公”か。
俺は視線を逸らした。見られたくない。覚えられたくない。
嫌われ皇子が目を付けられるほど厄介なことはない。
乾杯の準備が始まった。
銀の皿が運ばれ、細いグラスが並び、赤い酒が注がれていく。
見た目は完璧。
問題があるとすれば――ここが宮廷だという一点だけ。
そのとき、床に落ちた影がわずかに揺れた。
椅子の影でもない。カーテンの影でもない。
揺れ方が、妙に“意志”を持っている。
俺は息を止めた。
【影魔法】。
この国では嫌われる。とりわけ教会は、この系統を露骨に嫌う。光と清浄を掲げる連中にとって、影は「覗き」と「不浄」の匂いがするらしい。
しかも今夜は、聖女候補が列席している。目を付けられれば面倒が増える。
だからこそ使うのは慎重に――だが、耳を塞ぐわけにもいかない。
影に意識を滑らせると、声が落ちてきた。
「合図は乾杯の直前だ」
「杯の位置が変わったら?」
「変えさせるな」
短い。慎重。手慣れている。
暗殺だ。
さらに、もう一つ。
「標的は姫だけじゃない」
「……あの皇子も、ついでに落ちれば楽だ」
「嫌われ者だ。犯人に仕立てるのは簡単」
なるほど。俺の首も同じ皿に載っているらしい。
乾杯の杯が配られていく。
王女の席へ向かう侍女の手元を、俺は眺めるふりをした。
そして確信する。
王女の杯だけ、何かが違う。匂いでも色でもない。もっと嫌な気配だ。
俺は自分の杯を持ち上げるふりをして、指先だけ動かした。
影が伸び、王女の杯の底に触れる。
冷たい。
それと同時に、ぞわりとする違和感が指へ這い上がった。
毒だ。
第一皇子が立ち上がり、長い挨拶を始める。
平和だの友好だの、耳に優しい言葉が並ぶ。その間に俺は仕事をする。静かに。
杯を丸ごと消せば目立つ。なら、目立たない形で奪うだけだ。
縁に薄く残った毒の膜を、影で“すくう”。紙を剥がすみたいに、少しずつ。
これで安全――と言い切れないのが宮廷の毒だ。一種類とは限らない。二段構えもあり得る。
だから、もう一つ。
王女が杯を口元へ運ぶ瞬間、影を重ねてほんの少しだけ角度をずらした。
唇が触れる位置が変わる。ただそれだけ。誰にも気づかれない程度で。
第一皇子の声が締めに入る。
「――この友好が、末永く続かんことを」
乾杯。
グラスが鳴る。王女が一口飲む。
……何も起きない。
ひとまずは間に合った。
そう思った直後、別の席で男がむせ返った。
貴族の一人が喉を押さえて倒れる。顔色が一気に悪くなる。
杯が落ち、赤い酒が白い布に広がった。
場が騒然となる。
毒だ、と誰かが叫ぶ。
王女を守れ、と誰かが怒鳴る。
誰がやった、と視線が飛び交う。
そして、その視線が――俺の席へ収束していく。
「第三皇子が、影を動かしたのを見た」
「影魔法だ、あいつの仕業だろう」
「触れていた、杯に……」
聞き覚えのある悪意が、形を取ってこっちへ伸びる。
背後から低い声がした。
「第三皇子殿下。お立ちください」
振り向くと、甲冑の女がいた。近衛騎士。
背筋が真っ直ぐで、目も真っ直ぐだ。融通が利く気配がない。
「殿下をお預かりします。形式です」
「形式は便利だな。人が死ぬ理由になる」
「軽口はお控えください」
その背後で、第一皇子派の連中が薄く笑った。
なるほど。
狙いは王女だけではない。王女を揺らして同盟を壊し、嫌われ皇子を処刑する。宮廷の邪魔者を、まとめて片づける算段だ。
女騎士が剣に手を添える。抜かないが、いつでも抜ける位置。
逃がす気はない、という意思表示。
俺は息を吐いた。
ここで暴れるのは悪手。
影で勝つなら、まず相手に勝った気にさせる。
「分かった。抵抗はしない」
「賢明です」
混乱の向こうで、セレスティア王女がこちらを見ていた。
護衛に囲まれているのに、視線だけは外さない。さらにもう一つ、教会の席からも淡い視線を感じる。白いベールの少女だ。
……面倒な未来が見える。
だが、悪くない。
処刑ルートが、今日から動き出した。
なら俺も動こう。玉座へ向かって。
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