おかあさんの桜
アキちゃんがはじめてその桜を見にいったのは、まだ赤ちゃんのころだったそうです。
でも、あんまり小さすぎたので、そのころのことはまるでおぼえていません。
アキちゃんがおぼえているのは、よちよち歩きのころ。
長い長い道をおかあさんに手を引かれて、トコトコトコトコ。歩いて歩いて。足が疲れて。ちょっとぐずりそうになったそのとき、突然、目の前がパアーッと明るくなって……するとそこには、まるでピンクの綿あめみたいな、ふわふわの桜の花が見わたすかぎり広がっていたのです。
「わあ!」
胸がドキドキしました。桜の花びらが、ひらひらと風に舞うのを見て、なんだか自分もふわっと浮かびそうな気分。
こんな、きれいなものが、あったんだ。
小さなアキちゃんには、自分が何を感じているのか、うまくコトバにすることができませんでした。けれど、世界がほんのちょっとだけヒミツをうちあけてくれたような、もしかしたらそんな気がしたのかもしれません。
ただただ、大きく大きく、目をみひらいて、時間をわすれて見とれていました。
どれくらいの時間がたったのでしょう。帰ろう、と、おかあさんがいいだして、イヤイヤ、と、アキちゃんはだだをこねて……少しだけおねえさんになった今では、ちょっと恥ずかしかったかな?と思いますが、やっぱりそれでも、まだまだずっと見ていたい、いいえ、ただただそこにいたいと、そんな気がするのでした。
「また明日」
おかあさんが言いました。
「またあした?」
二人で指切りをしました。
次の日も、その次の日も、おかあさんは約束通り、桜のところへつれていってくれました。
けれどまもなく、桜は散ってしまいました。小さなアキちゃんには、嘘のような、信じられないような、ほんとうにあっというまのできごとでした。
散ってしまった桜は、ただ青々とした葉っぱを茂らせているだけ。ほかの木と見分けがつきません。残っているのはあたり一面に散り敷いた桜色の花びらばかり。
それはそれでとてもきれいでしたが……
どれが桜の木だったんだろう? アキちゃんにはもうわかりません。桜はほんとうに咲いていたのか、自分はほんとうに桜を見たのか、なんだか夢のような気がするのでした。
「また来年」
おかあさんが笑って、アキちゃんの手をぎゅっと握りました。
「らいねん?」
「そう、また来年。春になったらまた咲くの。毎年、毎年、ずっと、何度でも。だから、また、来年。会いにこようね。一緒にね」
「うん!」
アキちゃんは大きくうなずきました。
それから、何度も、何度も、アキちゃんとおかあさんは桜を見に……いいえ、会いにいった気がします。春がくるたび、手をつないで、長い道を歩いて。
(ことしもきたよ、あいにきたよ)
(よく来たね、待ってたよ)
桜がそんなことを言ったわけではありません。でも、アキちゃんには聞こえた気がしました。
でも本当は、そんなに何回も行ったわけではなかったのかもしれません。だってアキちゃんは、まだ、ちっちゃなアキちゃんのままでしたから。そんなに何べんも何べんも、何年も何年も、毎年毎年、桜に会いに行ったのだったら、もうとっくに、もっとずっとオネーサンになっていてもいい気がします。
でも、あんまり桜がきれいだったから、おかあさんとのおでかけがあんまりうれしかったから、心のなかで何回も何回も、あの綿あめみたいな景色を思いうかべて、だから思いうかべたその数だけ、何度も何度も、行ったような気がしていたのかもしれません。
そのおかあさんが、いなくなってしまいました。
突然、それこそ、昨日まで咲いていた桜が、パッと散ってしまったように、前ぶれもなく。
「もうじき桜が咲くね」
おぼえているのは、やっぱり、おかあさんの笑顔。
「また今年も、いっしょに見にいこうね、会いにいこうね」
その笑顔、その温かい手。いつもそこにあったはずのそれが、今はもう、どこにもありません。
(おかあさん、どこ? かくれんぼなの?)
アキちゃんはおかあさんを探しました。いつもおかあさんがいたお台所や、お風呂場のとなりの洗濯場や、玄関の靴箱の横。一階の和室の押し入れの中や、ほんとうは入ってはいけない、おとうさんのお部屋の机の下まで。
でも、どこにも見つかりません。
(おかあさん、どこ?)
(さくらがさくよ、ことしもさくよ)
(あいにいこうよ)
(いっしょにいこうよ)
でも、桜はどこでしょう?
アキちゃんはまだひとりでそこへ行ったことがありません。長い長い道を歩いた気がするだけで、どの道をどう通っていったのか、どの角をどっちへ曲がればあの桜にたどり着けるのか、アキちゃんひとりではわかりません。
おかあさんがいないと、ダメなのです。
(おかあさん、どこ?)
(さくらは、どこ?)
毎日、毎日、部屋から部屋へ、アキちゃんは探しました。べそをかいて、汗ぐっしょりになって、泣いて泣いて。
でも、おかあさんはいなくて。見つからなくて。
そのうちに、桜の季節は、終わってしまいました。
季節はうつっていきました。アキちゃんのきもちなんかおかまいなしです。
朝がくるのが早くなって、夜がくるのが遅くなって。お庭の木々の葉っぱのみどりが急にあざやかになって、黄色いお花や、むらさき色のふさふさのお花や、白い小さいお星さまのかたちのお花や、いろんなお花が咲いては枯れて。また咲いて。
そんなことをくりかえしているうちに、毎日がだんだんと温かくなって、日によっては暑いくらいのときもあって。
かと思ったら、急にお天気が悪くなって、毎日雨が降るようになりました。
ちいちゃな黄みどり色のカエルがケロケロ鳴いて、お庭には大きなアジサイのお花が咲いて……こんなに雨ばかりだと、雨がっぱを着せてくれるおかあさんがいてくれないと、アキちゃんひとりではおでかけもできません。
もっとも、たとえおでかけできたとしても、おかあさん抜き、アキちゃんひとりでなんて、考えもできませんでしたけれど。
(おかあさん、どこ?)
(やくそくしたのに)
(どこいっちゃったんだよぅ……)
雨はそれからもふりつづけました。
毎日、毎日、ふって、ふりつづけて。
ようやっとその長い雨がやむと、それまでのお天気がうそのように、今度はおひさまがさんさんと照って。毎日がだんだんと暑くなって、おひさまもさんさんどころかカンカンと照りつけるようになって……
とうとう、セミが鳴きはじめるのでした。
ミンミンと鳴き、ジージーと鳴き、シャワシャワと、カナカナと、ツクツクボーシと鳴いていたそのセミたちも、けれどいつのまにか黙ってしまいます。
そうして、今度は涼しい風が吹き、お庭でリーンリーンとすんだ虫の声が聞こえるころ……
アキちゃんのお家に、おばさんがやってきました。
おばさんは、とてもやさしいおばさんでした。
毎日、ごはんを作ってくれました。まるでおかあさんみたいに。
おやつには、クッキーを焼いてくれました。おかあさんより上手に。
お洗濯だって毎日かかさず、おひさまの匂いのするお洋服を着せてくれました。
夜、おやすみの前には、絵本を読んでくれましたし、子守唄を歌ってくれることもありました(これは、おかあさんより、ちょっとだけ、音痴でしたけれど)。
やさしい笑顔も、アキちゃんの頭をなでなでしてくれる温かい手も、ぜんぶ、おかあさんみたいでした。
でも、おばさんはおばさんでした。
おかあさんでは、ありません。
なのにお父さんは、
「あたらしいお母さんだよ」
などというのです。
アキちゃんにはサッパリわかりません。
おかあさんはおかあさん。
おばさんはおばさん。
アキちゃんはやさしいおばさんのことがすぐに大好きになりましたが、おばさんの好きと、おかあさんの好きは、違うのです。
それでも、おばさんのいてくれたことが、どんなにかアキちゃんにはうれしかったことでしょう。やがて訪れた寒い寒い季節。一日じゅうおふとんの中から出たくなくなるような、心まで凍りついてしまいそうな季節。おかあさんがいなくなってしまった今、おばさんまでいてくれなかったら、どうなっていたことでしょう。
冷たくなったアキちゃんの手に、ハーッと温かい息を吹きかけて、大きなやわらかい手のひらでつつみこんでくれるおばさん。
くしゃみのあと、ツーっと垂れてきた鼻を、ティッシュでチーンしてくれるおばさん。
うんと寒い日のおやつには、温かいココアやおしるこなんかも作ってくれるおばさん。
おばさんは、もう、アキちゃんにとって、なくてならない人になっていました。
それでも、やっぱり、おかあさんとは違うのでした。
(おかあさん、どこ?)
(さくらは、どこ?)
音もなく白い冷たいひらひらが舞いおりる午後、こたつで編み物をするおばさんのお膝のうえで、アキちゃんが見ているのは、やっぱり、ほんのりピンクな、白い、綿あめみたいな花びらの夢なのでした。音もなくひらひらと舞いおりながら、けっして冷たくはなく、かえって胸が温かくなって……けれど同時に、ジーンと、しめつけられるように苦しくもなるのでした。
そんなある日。誰かが言ったのでした。
「今年も桜の季節だね」
その言葉が、アキちゃんの胸を、ドキン、と、鳴らしました。
季節はひとめぐりして、いまはもう、またあのなつかしい桜色の春。
思いだすのは、やっぱり、おかあさんの笑顔。
(また今年も、いっしょに見にいこうね、会いにいこうね)
けれど、その笑顔が、いつもそこにあったはずの、誰よりもそばにいてくれたはずの、けっして忘れるはずのないおかあさんの顔が、今ではもう、なんだか、ずいぶん、あやふやなような気もするのでした。
ふわふわした、ピンクがかった白い綿あめみたいな桜の梢、そのやさしいなつかしい”感じ”――
おかあさんの”感じ”――
それはたしかに感じるのに、いつのまにかそれが、やさしいおばさんの”感じ”と区別がつかなくなったりもするのでした。
思いだすのは、おかあさんの笑顔? それとも、おばさんの顔?
アキちゃんはすっかり「こんらん」してしまいました。
あれれ? おかあさん、どんなお顔?
胸がドキドキしました。なんだかとてもこわいような、イケないことのような気がするのでした。
だから、行かなきゃ、と、思うのでした。
(さくらがさくよ、ことしもさくよ)
(あいにいこうよ)
(いっしょにいこうよ)
そこに行けばおかあさんに会えるような、おかあさんがそこで待っていてくれるような、桜がおかあさんのような、おかあさんが桜のような、桜が咲いたそのあいだだけ、おかあさんを見つけることができるような、いま行かなければ今度こそほんとうにもうこれっきりになってしまうような、そんな気がするのでした。
切ないような、苦しいような、いてもたってもいられない気がするのでした。
(おかあさん、どこ?)
(さくらは、どこ?)
アキちゃんは探しに行くことにしました。小さな桜色のリュックに、おままごとにつかう、プラスチックのおにぎりと水筒をつめて。
うんしょ、と、重たい玄関のドアをひとりで開けて、よいしょ、よいしょ、と、階段をおりて……キィと音を立てて門扉をひらくと、そこはもうおかあさんに手を引かれて歩いた、あの長い長い道なのでした。
まだ少し冷たい強い風がぴゅーっと吹きつけてきます。アキちゃんは目を閉じてぶるっとふるえました。
でも、風にはほんのり桜の香りがするような気もしました。
それがアキちゃんに勇気をくれるみたいでした。
いつかおかあさんといっしょにテレビでみた、アキちゃんよりも小さな男の子がひとりでお買い物にいく番組を思いだして、ふんっ、と、”きあい”を入れて、歩き出すのでした。
トコトコトコトコ。ほんの少し歩いただけで、びっくりしました。さくら、サクラ。あっちにも、こっちにも。
桜は町中に咲いています。ご近所のそこかしこのお家のお庭に、コンクリートの小さな川のほとりの道路沿いに、夕方になるとゴーンと鐘を鳴らすお寺の門の屋根の上に。
見あげれば、お家の前のだらだら坂を上った先の、いつもはみどり色したお山だって、いまはピンクがかった白い綿あめ色にお化粧しているのでした。
「きれい……」
アキちゃんの目がキラキラしました。でも、すぐに困ってしまいました。こんなにたくさん桜があったら、どれがおかあさんの桜かわかりません。
「もしもし、おかあさんのさくらはどこですか?」
アキちゃんは道行く人に聞いてみました。やさしそうなおばあさん、乳母車を押す若いママさん、杖をついた白いおひげのおじいさん。
「さあ、どこかしらねぇ」
「お母さんはどこ? 一人できたの?」
「いやいや、こっちの桜のほうが立派だろう?」
誰も教えてくれません。
アキちゃんは歩いて、歩いて。探して、探しました。
探して、歩いて、くたびれて、お腹もすいて、ぐうっと鳴って、心細くて、さみしくて。
ぐずぐず、めそめそ。
道の真ん中にしゃがみこんで、とうとう泣き出してしまいました。
「おかあさん、どこ?」
そこへ、やってきたのは、おまわりさん。
さっきの乳母車のママさんが、おまわりさんの隣で、アキちゃんのほうを指さします。
「おうちはどこ?」
おまわりさんが聞きました。
「さくらはどこ?」
アキちゃんが聞きました。
話はちっとも噛みあいません。
アキちゃんは泣いて、泣いて、泣き疲れて。ふうっと目の前が暗くなって……
気がつくと、見たことのないお部屋の、黒いソファの上に寝かされていました。
アキちゃんの小さな靴がソファのそばにきれいにそろえて置いてあります。
(おくつは、げんかんで、ぬがなきゃいけないのに、へんなの)
そのうちにドアが開いて、絵本にでてくるような、やさしそうな女のおまわりさんが入ってきました。そのおまわりさんも、お部屋のなかなのに、やっぱり靴を履いていて、キビキビ歩くと、コツコツ、音をたてるのでした。
「もうじき、お母さんが迎えにきてくれるからね」
おまわりさんが言いました。
アキちゃんの顔がパッとかがやきます。
「おかあさん!?」
ああ、よかった。みつかったんだ。さすがケーサツカン。ちゃんとおかあさんを見つけてくれたんだ。なんだ、はじめっから、おまわりさんに、おねがいすればよかったんだ。
うれしくて、ほっとして、笑いながら、でも泣きたいような気もして、おかあさんに会ったらなんていおう、ちょっと怒っちゃおうかしら。アキちゃんをこんなにひとりにするなんて、ゆるせません。でもそんなことより、まずはだっこ――
次から次へ気持ちがあふれて、アキちゃんは夢中でおかあさんの話をしました。何を話したのかよくおぼえていません。女のおまわりさんはニコニコわらってきいてくれました。
そうして話して話して、話しつかれると、アキちゃんはまた眠い目をこすりはじめました。長いこと歩いたり、泣いたりして、くたびれたせいもあったのでしょう。おまわりさんが入れてくれた温かい甘いミルクを飲んだら、ふわーっと気持ちよくなって、そのまま眠ってしまいました。
次に気がついたときには、アキちゃんは誰かにおんぶされていました。
「どうもご迷惑を……」
誰かがペコペコ謝っているのが聞こえます。
「桜がどうとか……」
と、おまわりさんの声もどこか遠くの方でしたようです。
そうだ、おかあさんの桜。アキちゃんはちゃんとお話しなきゃと思いました。でも、まだあんまり眠くって、おんぶしてくれる誰かの背中が温かくて、あんまり気持ちよくて、むにゃむにゃっ、と、ことばにならないへんな声が出ただけでした。その声だって、ただ出た気がしただけだったかもしれません。
アキちゃんは眠っているのでしょうか。起きているのでしょうか。わかりません。そんなことはもうどうでもいい気がしました。とても安心できる背中でした。
(そうだ、おかあさんだ、おかあさんがむかえにきてくれたんだ)
さっき女のおまわりさんが教えてくれたとおりでした。
”おかあさん”が歩きはじめました。
”おかあさん”の背中にゆられ、ゆられて、アキちゃんはうんと小さかったころを思い出しました。
おかあさんの背中。温かくて、大きくて、いつまでもぎゅっと抱きついていたくなる、おかあさんの背中。
心の奥底から、何かわけのわからない、たまらないものがこみあげてくるようでした。
そうして目頭が熱く熱くなってくるのでした。
涙と鼻水でぐしょ濡れになった顔を、ごしごしと、ただもうむやみに、その背中にこすりつけたくなるのでした。
(おかあさん、おかあさん、おかあさん!)
(どこいっていたんだよぅ)
(アキ、ひとりでさみしかったんだよ)
(アキをひとりにして、なにやってたんだよぅ)
(おかあさんのイジワル)
(さくらを、みにいくって、いったのに……)
アキちゃんは思いっきり叫びたくなりました。もっともっと、ぎゅっと、ぎゅうぅっと、おかあさんにしがみつきたくなりました。けれど瞼が重くて、体が重くて、腕に力が入りません。声もうまく出せたかどうかわかりませんでした。
アキちゃんは眠っていたのでしょうか。起きていたのでしょうか。夢を見ていたのでしょうか。
それでも、”おかあさん”は、ちゃんと答えてくれました。
「ごめんね。行こうね。いっしょにね。今年は、夜桜ね」
そんな声が、夢うつつで、けれどたしかに、聞こえた気がしたのでした。
「アキちゃん、起きて」
アキちゃんは目を覚ましました。
むにゃむにゃと目をこすって、おかあさん、と言いかけて、ハッと息がとまりました。
(あれ、おかあさんじゃない……)
おんぶしていたアキちゃんをそっと地面におろして、やさしくほほ笑みながら、アキちゃんの顔をのぞきこんでいるのは、いつもの大好きなおばさんの顔なのでした。
おばさんは、とてもやさしいおばさんです。
でも、おかあさんでは、ありません。
「どこ……?」
アキちゃんは自分の声をどこか遠いところのように聞きました。
なんだか舌がもつれて、うまくしゃべることができません。
(おかあさんはどこ?)
(ここはどこ?)
どちらを聞きたかったのか、自分でもよくわかりませんでした。
いったい何がどうしたのでしょう。さっきまであんなにいっしょだったのに。さっきまであんなに温かかったのに。
今はあたりは暗くて、ぴゅうっと風が吹いて、おかあさんはいなくて、アキちゃんのそばにはただおばさんだけがしゃがみこんでいるのでした。
おばさんは黙って、そっと指をさしました。
アキちゃんはその指の先を目で追いました。
そこはご近所の児童公園でした。
ブランコと滑り台と、お砂場と鉄棒がある、小さな公園。
お隣の建物の壁と、道路側の柵とに囲まれた、その片隅に、ポツンと、一本の小さな桜の木が生えているのでした。
背丈は、おばさんより、ちょっと高いくらいでしょうか。
今日、たくさん見た、よそのお家や、川沿いや、お寺や、そのほかいろいろな場所の桜の木にくらべれば、ずいぶんとちっぽけで、なんだかみすぼらしい桜でした。
それでも、桜は、咲いていました。
柵の向こうの電信柱の街灯にさえざえと照らされて、ピンクがかった白いハーフサイズの綿あめみたいな梢を、そよそよと風に揺らしているのでした。
(ああ……)
アキちゃんにはわかりました。
それは確かにあの桜でした。
おかあさんの桜。
何度も何度も、手をつないでいっしょに会いにきた桜。
でも、こんなに小さかったかしら?
アキちゃんにはわかりました。
こんなちいちゃな桜でも、いまよりうんと小さかったよちよち歩きのアキちゃんには、とっても大きく見えたのです。
トコトコと近よって、下から梢を見上げると、ちっちゃな黒い瞳には、あのピンクがかった白の綿あめが、空いっぱいに広がって見えたのです。
なーんだ。
種明かしをされたようでした。
公園だって、アキちゃんのお家からちっとも離れてなんていません。ご近所もご近所。お隣のお隣の、そのお隣の、お向かいさん。
手をつないで、よいしょ、よいしょ、と歩いた、長い長いあの道だって、ほんとうはそんなに長くも遠くもなかったのです。
胸が、しん、と、静まり返るようでした。
手の先がすうっと冷たくなるようでした。
何もかも、ちっちゃなちっちゃなアキちゃんに、ただ、そう感じられただけ。思い込んでいただけ。桜も。公園も。あの長い道も。
だったら、おかあさんも――?
あんなにやさしかったのに。あんなにいっしょだったのに。今はあたりは暗くて、そよそよと風が吹いて、ときどきはぴゅうっと強く吹いて、桜は小さくて、公園はご近所で、そして、おかあさんは、いないのです。
アキちゃんの目から、ぽろっと大きな涙の粒がこぼれました。
ぽろぽろ。ぽろぽろ。
あとからあとからあふれ出して、ちっとも、とまってくれません。
「おかあさん、どこ……?」
おばさんがそっと抱き寄せてくれました。
「ごめんね、お母さんじゃなくて」
ううん、おばさんのせいじゃない、おばさんも好きよ、でもおかあさんじゃない。アキちゃんはそう思いました。でも、ことばにはできませんでした。
おばさんは抱き寄せたアキちゃんの背中を、ぽん、ぽん、とゆっくり叩きながらお話ししてくれました。
「お父さんとお母さんは、アキちゃんが生まれてすぐに、この町に越してきたの。お母さんは、赤ちゃんだったアキちゃんを抱いて、よくこの公園にお散歩にきたの。はじめは、こんなところに桜の木があるなんて、気づかなかったんだって。でも、春になると、この小さな桜が、いまよりもっと小さかったこの桜の木が、小さなつぼみをたくさんつけて、いっしょうけんめいがんばって、ぱあっと、きれいに咲いたんだって。お母さんはうれしくなって、がんばって咲いているちっちゃな桜が、なんだかけなげで、いじらしくて……アキちゃんにも教えてあげたくなったんだって。「ほらほら」って、お母さんがアキちゃんを抱き上げると、赤ん坊のアキちゃんは、ちいさなお目目をまあるく開いて、桜の方にいっしょうけんめい両手をのばしたんだって。ちっちゃなお手手で桜の枝をつかんで、きゃっきゃって、うれしそうに笑ったの。それからよ、この桜がないしょのお友達になったのは」
おばさんは話しつづけました。
夜、おやすみの前に絵本を読んでくれる声でした。
ゆっくりと、上下するような、落ち着かせるような抑揚でした。
「お母さんはいつもアキちゃんをつれてこの桜に会いにきたの。アキちゃんが赤ちゃんだったときには抱いて会いにきて。ヨチヨチ歩きのときにはおんぶしたり、抱っこしたり、時には、手をつないで、がんばって、うんしょ、うんしょ、って歩いて会いにきたこともあったんだって。桜は春になるとつぼみをつけて、つぼみはグングンふくらんで、お母さんとアキちゃんは「もうじきね」「もうすぐね」「今年も咲くね」「もうすぐ咲くね」って、楽しみにしていたの。そうして「がんばれ」って応援したのね。そしてとうとう桜が咲くと、アキちゃんは……お母さんは……」
おばさんの腕にぎゅぅっと力が入りました。ぐすっ、と鼻の音が聞こえました。
「だからね、この桜はお母さんの桜。そしてアキちゃんの桜。ふたりの桜。これからもずっと。だから、また、見にこようね。来年も、再来年も、会いにこようね?」
アキちゃんは、イヤイヤをしました。
自分でも思ってもみなかった、強い、激しい「イヤイヤ」でした。
イヤよ、イヤだよ。
こんな桜、イヤだよ。
こんなんじゃない、こんなんじゃないよ。
おかあさんの桜は、こんなんじゃない。
涙が止まりませんでした。
ことばになりませんでした。
でもアキちゃんは力いっぱい頭をふりつづけました。
(おかあさんのさくらは、もっときれい、もっとステキ)
(おかあさんのさくらは、おかあさんといっしょ)
(いっしょじゃないと、ダメ!)
アキちゃんは泣きました。
とうとう、声をあげて、泣きました。
おばさんにしがみついて、おおきな、おおきな、せいいっぱいの声をあげて泣きました。
泣いて泣いて、泣きじゃくって……
アキちゃんがそうしているあいだじゅう、おばさんはこまった顔で、でも、やさしく頭をなでつづけてくれました。
「ネンネンコロリヨ……」
どこからか子守唄が聞こえてきます。
ちょっと調子はずれの歌でした。
おかあさん、ではありません。
(ほかのことはなんでもできるのに、どうしてお歌だけヘタクソなんだろう……)
アキちゃんはうとうとと夢うつつで考えました。
そこはアキちゃんのお家の、こども部屋の、おふとんの中。
おばさんが、アキちゃんのおふとんの、お胸のあたりに手をおいて、ぽん、ぽん、とやさしく叩きながら、歌ってくれています。
おかあさんとは違う声、おかあさんとは違う拍子、おかあさんとは違う手。
でも、おかあさんと同じ歌です。
公園で泣きつかれたアキちゃんを、おばさんがつれて帰って、おふとんをしいてくれたのでした。
もう半分眠っているようなアキちゃんを、お着替えさせて、寝かせてくれて、それから、もっとちゃんとぐっすり眠れるように、いつものお歌を歌ってくれているのでした。
おばさんは、おばさんです。
おかあさんではありません。
(でも、おかあさん、みたいね……)
アキちゃんはなんだかとっても安心して、すると瞼がまた重くなっていきました。
調子はずれの子守唄が、うとうと、心地よい眠りをつれてきます。
そうして、眠りは、夢をつれてくるのでした。
それは桜の夢。
大きな、大きな、桜の夢。
長い長い道のかなたにそびえたつ、満開の桜の、ピンクがかった綿あめみたいな白い梢が、大きな大きな屋根みたいに、空ぜんたいを覆っています。
あたりいちめんに、花びらがふりそそいでいました。
ざーっとふり、ふわーっと舞い上がり、風がイタズラすると、木漏れ日のなかで、くるくると、ダンスしたりもするのでした。
(おかあさんの桜だ!)
アキちゃんは走り出しました。
ずっとずっと、ずぅーっと向こうまでつづく一本道を、ひとりで、力強く蹴って走りました。
長い長い道でした。
遠い遠い桜でした。
どれだけ走ればたどり着けるのだかわかりません。
でも、走っていれば、いつか、たどり着けるはずでした。
長い長い、長い道を走って、走って、たどり着いたら、きっと。
その木の下で、きっと、待っているのは、きっと……
(おかあさん!)
アキちゃんは、走りつづけました。
―――――
それから何度か、おばさんは、アキちゃんの手を引いて、あの桜のある公園につれていってくれました。
そのうちに桜が散ると、
「また来年」
と、指切りしました。
だからその次の年も、そのまた次の年も、アキちゃんはおばさんといっしょに、あの桜に会いにいきました。
ご近所の公園です。アキちゃんだって、もう、よちよち歩きではありません。
ひとりで、いこうと思えば、いけるのです。
でも、桜の季節だけは、けっして、ひとりでいこうとはしないのです。
アキちゃんは、おばさんとならんで手をつないで、あの桜にむかって、おかあさん、と、心のなかでそっと呼ぶのでした。そっと、ホーコクするのでした。
(ことしもきたよ)
(いっしょにきたよ)
すると桜はそよそよと枝をゆらして、お返事をするようでした。
はらはらと花びらが散って、スーッと吸い寄せられるように、アキちゃんのほうに、ただよってくることもありました。
たぶんそれはただの風のいたずら。たまたまのできごとでしかありません。
でも、アキちゃんには、やっぱり、桜がアキちゃんとおばさんを歓迎してくれているような気がするのです。
おかあさんが、待っていてくれたような気がするのでした。
だから、アキちゃんは、手をのばします。
すこしだけ背のびをして、いちばん低い桜の小枝に、小指をかけて、
(またきたよ、またくるね、やくそくだよ)
そっとゆらして、ゲンマンするのでした。
おしまい




