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第6話 後編

 人って、不思議だなって思う。


 誰かを守りたいって思ったとき、その重さに、きっと自分が潰れそうになる。

 それでも、前に進もうとするのが、強さなんだって、あの冬に気づいた。


 わたしは書き残すだけの立場だけど――この記録は、あの夜の焚き火のあたたかさと一緒に、心の奥に置いておきたいと思う。


   *  *  * 


 焚き火がぱち、と小さく爆ぜた。その音に合わせるように、ザシャがぼそっと言った。


「気づけば、守りたいもんばっかり増えちまったな」


 誰に言うでもない声だった。けど、その場にいた何人かが顔を上げる。カイもその一人だった。ユリアは少しだけ耳を傾けるように体を傾け、記録帳を膝の上でそっと開いた。


「これが歳を食うってことか。守りたいってばっかで、たいして守れてもいねえのにな」


 火に照らされた横顔は、普段の厳しさとはちがって、どこか遠くを見ていた。戦の気配が迫るこの夜に、彼は何を思っているのだろうか。ユリアには、その言葉の奥にあるものが少しだけ見えた気がした。


「譲れねえもんが増えると、身動きが取れなくなる。どこにも行けなくなる……そんなこと、分かってたつもりだったんだけどな」


 ユリアが、小さく首をかしげる。どこか切なげな響きがあったからだ。ザシャはそれに気づいて、苦笑いを浮かべた。


「……ああ、心配すんな。別にここが嫌って話じゃねぇよ」


 ひと呼吸おいて、静かに言った。


「俺がここに来たのはな。前にいた場所で、“譲れなかったもの”を、全部なくしたからだ」


 その場の空気が、すっと冷えたような気がした。誰も、すぐには言葉を返せなかった。それは重すぎる一言だった。軽々しく慰めることも、共感を口にすることも、場違いに思えるほどに。


「けどな、ここに来て、また増えた。譲れねぇもんが。……馬鹿みてえだろ」


 ザシャの声は、焚き火に投げ込まれた小枝のように、かすかにひび割れていた。だが、その背中は揺らがなかった。


 カイが、ゆっくりと首を振った。


「馬鹿じゃない。俺も、同じだから」


 その言葉は、静かだけど、芯のある声だった。ユリアは少しだけ目を細めて、二人のやり取りを見守った。


 ザシャがちらりと視線を向け、そしてふっと鼻で笑った。


「若造が、何言ってやがる……」


 皮肉にも似た笑みだったが、そこにはどこか安心したような色も滲んでいた。


 そう呟いて、また火に目を戻す。


「……そうか。だったら、お前はまだ間に合うかもしれねえな」


 その言葉には、かすかに希望が混じっていた。あきらめきった男の口からこぼれるには、少しだけ温かすぎる響きだった。


 焚き火の火がぱちぱちと鳴る。その夜、冷たい風のなかで、あたたかな火の輪だけが揺れていた。


 ユリアの記録には、こう記されている。

 “その夜、ザシャは過去を語り、カイは一歩、大人に近づいた”


 そして、ほんの少しの沈黙のあと——


「……ふん、年寄りが昔話を始めたらおしまいさ」


 リーネ婆が、焚き火の向こう側でぼそっと呟いた。

 だれより静かに聞いていたはずなのに、まるで全部聞き飽きてたみたいな顔で、薪をひとつ火にくべる。


「どうせ火の前で語るなら、願いを語りな。言葉にしなきゃ、神様も気づきゃしないよ」


 そう言って、懐から小さく折られた紙を取り出す。少し焦げ跡のついた、古びた紙。リーネ婆はそれを見つめながら、ぽつりと呟いた。


「語らないと届かない……つまり、語れば届くかもしれない。そんなことを、子供の頃に教わったもんさ」


 誰にともなく語ったその言葉に、ユリアははっとして、手元の帳面を閉じる。


「願い……」


 ぽつりとつぶやいて、ユリアも懐から、小さく折られた紙を取り出した。

 

 紙には、少し不格好な字で何かが書かれている。だが、そこに込められた思いはまっすぐだった。


 ユリアはその紙を握りしめて、そっと焚き火の近くに置いた。


「明日がどうなっても、私は……この火の前で、願ったことを、忘れたくない」


 誰かが小さく喉を鳴らした。誰かが、手を合わせた。


 ザシャは目を閉じ、リーネ婆は肩をすくめてため息をついた。


「……ほら、あんたたち。明日が本番だろう。泣き言は寝床で言うもんだよ」


 その声に、空気がふっとゆるんだ。

 ザシャが小さく咳払いして、カイは鼻をかきながら立ち上がる。ユリアは、帳面と紙をそっとしまって、小さく笑った。


 そうして、それぞれが焚き火から離れていった。

 火の残り香だけが、夜の冷えた風の中に漂っていた。

 

   *  *  * 

   

 朝が来た。吐く息は白く、草の上にはうっすらと霜が降りていた。火の消えた広場に、男たちが一人、また一人と集まってくる。


 ザシャは無言で見回しながら、それぞれの腰の装備や表情を確認していた。


「おい、カイ」


 そう声をかけて、一本の短槍を手渡す。


 刃は鍛冶屋の見習いが打ったものらしく、少しだけいびつだったが、重心の前寄りな作りは投げるにはちょうど良かった。


「昨日は捕まえられた。だが今日はわからねえ。逃げるやつもいるだろうし、こっちを殺しにくるのもいる」


 カイは短槍を両手で受け取り、重さを確かめるように振ってみた。


「ボーラでもいけるかと思ったけどな。……捕縛じゃ追いつかねえときもある」


「……殺す覚悟じゃねえ。届かせる覚悟だ。外すなよ、カイ」


 その言葉に、カイはぐっと唇を引き結んで、うなずいた。


 広場の中央に、即席の地図が木炭で描かれる。雪を払い、石と枝で位置を示した簡易な戦場。


 ザシャがその前に立ち、皆に向けて口を開いた。


「いいか、向こうはおそらく、気づいてる。こっちが動き出すってな。今は身を潜めて、動きを探ってる最中だろう」


 男たちの顔が引き締まる。


「だからこそ、先に撃つ。弓を持ってるやつ、前に出ろ。十人……ちょうどだ」


 ザシャは一人ずつ指差し、立たせる。


「敵は二十五前後。合図があったら、まず一斉に撃つ。できれば二回目も撃て。狙いはできるだけ散らせ、別の敵を仕留めるつもりで放て」


 しばしの静寂。


「一射目から二射目の間、投げ物を使えるやつは投げろ。混乱させて足を止める。……ボーラ、石、短槍、なんでもいい。撃つ間を作れ」


「それでも向こうが突っ込んでくるなら、剣の出番だ。下がるな。受けに回ればやられる。短く、一太刀で仕留めろ」


 ユリアの記録にはこうある。

 

“あの朝の空気は、いつもと変わらなかった。でも、言葉のひとつひとつが、まるで刃のように鋭かった”


「最後に。弓持ちは、できるだけ敵の弓持ちを狙え。撃ち返してこられたら、一番厄介だからな」


 短く、無駄のない作戦会議が終わった。すぐに皆は持ち場へと散っていく。


 それぞれの胸に、今日という一日に向けた覚悟を抱いて。


 静かに、戦いの朝が始まろうとしていた。

 

  *  *  *


 雪がまだ新しい地面を踏みしめて、戦いへ向かう。足音が吸い込まれていくような静けさの中で、戦士たちは声ひとつ立てずに歩いた。


 気配を悟られぬよう、罠を避けて回り道を選ぶ。踏み跡が残らぬよう、新雪の上を慎重に進む。


 ユリアの記録には、こうある。  


“気づかれるのは前提。でも、気づかれる“瞬間”をこちらで選ぶために、皆が息を殺していた”


 やがて、見通しのいい尾根の先に、野盗たちの姿が見えた。


 まだこちらには気づいていない。だが、長くはもたない。


 ザシャが合図を送る。


 それが、静寂の終わりだった——


 矢が放たれた。


 一斉に放たれた矢が、敵の列を揺るがせた。何人かが倒れ、雪を赤く染める。

 けれど、それで終わりじゃなかった。


 そのうちの一人、肩に矢を受けながらも倒れなかった男が、血まみれの盾を高く掲げ、咆哮した。


「うおおおおおッ!!」


 雪の斜面に響き渡る、低く太い声。

 男は盾を振り下ろし、剣でガン、ガン、と金属を鳴らす。

 それは“退かぬ”と吠えるような音だった。痛みにも、死にも負けぬと告げる叫びだった。


 その雄たけびが、敵の群れに火をつけた。

 雪原に響く怒声。突き上げられる武器。殺意の波が押し寄せてくる。


「いくぞッ!! 潰せぇぇぇ!!」


 敵が雪を蹴って駆けてくる。

 矢を放ち終えたこちらの陣は、すでに剣を構え始めていた——そのとき。


「いけぇッ!! 下がるなあッ!!」


 ザシャの咆哮が、味方側から響いた。

 その声は、敵の怒声にも負けなかった。


 タリスも、勢いを合わせて吠える。


「来いよ野郎どもォ!! 喉ぶった切ってやらぁ!!」


 仲間たちが、一斉に応える。

 その場の空気が、正面衝突のそれへと変わっていった。


 だが、カイだけは動けなかった。

 手にした槍をどうするか、頭が真っ白でわからなかった。


(どうする……投げる、どこに? 誰に? この中で? 味方に当たったら?)


 考えがまとまらないまま、敵が目前に迫ってくる。


 次の瞬間、一人の敵が跳びかかってきた。盾を掲げ、剣を振りかぶる。


 ——ガン!


 一撃。盾が鳴る。体ごと押し返されそうな衝撃。

 カイは咄嗟に後ろ足を踏ん張った。


 二撃目。盾に深く打ち込まれた剣が、軋んだ音を立てる。


 三撃目。板がミシ、と音を立て、カイの左腕が痺れる。


(まずい、もう持たねえ……!)


 敵が唸る。「どけえッ!!」と剣を振り上げた——その瞬間。


 カサッ。


 頭上から、雪の音がした。


 ——ズバッ。


 小さな枝が折れる音と共に、雪がどさり、と落ちてきた。

 敵の頭を直撃し、体勢を崩す。


「なっ……」


 チャンス。今しかない。


 カイは無意識のうちに、腰の剣を引き抜いていた。

 言われていた。「剣は突くな」と。けど、振れない。

 ただ、まっすぐ、目の前の隙を——突いた。


 刃が沈む。何かを割ったような感触が、腕を通して伝わる。


 敵が目を見開いたまま、崩れ落ちる。

 一緒に、カイも膝をついた。


(俺が……やったのか?)


 槍は、投げてもいない。盾は限界だった。

 でも、剣だけが、敵を止めていた。


 けど、それは——


(……偶然だ。雪がなければ、今頃……)


 剣を突き立てたまま、カイは凍りついていた。

 敵は倒れ込んだ……が、動いていた。


 ごほっ、と血混じりの息を吐きながら、男がカイの腕を掴んだ。


「お、おい……!」


 カイが思わず身を引こうとした、そのとき。


「……若いな」


 掠れた声が、降る雪の中に落ちた。


「剣の手ぇが……震えてる。……ああ、そうか……はは……お前、これが……初めてか」


 男の顔に、笑みが浮かんでいた。

 苦しげな、けれどどこか優しさすらある顔だった。


「……俺たちみたいに……なるなよ」


 カイの目が揺れた。


「こうなっちまうと……戻れねぇ。最初は……飢えをどうにかしたかっただけ、だったのによ」


 男は空を見上げた。白い息が、もうすぐ止まりそうなかすかな風に乗って消えていく。


「力を、つけろ。……守りたいもんがあるなら……振り回されずに、手繰り寄せろ。……じゃなきゃ、気づいたときにゃ……誰の言葉も、届かなくなっちまう」


 最後の一言を言い切ると、男の手が、力を失って落ちた。


 カイはその場に膝をついたまま、しばらく動けなかった。

 胸の奥に、剣の重みとは違う、言葉の重みが、深く沈んでいた。

 

 ……そこから先のことは、よく覚えていない。


 誰かが叫んでた気もするし、誰かが自分の肩を叩いていた気もする。

 でも、カイにはそれが全部、遠くの出来事みたいに思えた。


 気づいたら、戦いは終わっていた。

 風が吹いて、盾の上に雪が一枚、ふわりと積もった。


  *  *  *


 戦いの終わりは、カイにとってまるで夢のようだった。気づけば終わっていて、気づけば手が血で濡れていた。誰かの断末魔が耳に残り、足元には倒れた人影。肩が、腕が、妙に軽くて、でも心だけが重たく沈んでいた。


 ザシャとタリスがそれぞれ敵の刃を退け、味方の被害は軽かった。けど、敵のほとんどは動けなくなっていた。倒れてる者も、生きてはいる。けどもう立ち上がる気力はなかった。力尽きたのか、それとも……その判断は、誰にもつけられなかった。


 タリスがカイの肩を叩いた。「よくやったな」 カイは何も言わず、ただうなずいた。足元がぐらりと揺れた気がした。実際、立っていること自体が不思議だった。体は無傷なのに、心はどこかに置いてきてしまったような気がした。


 村に戻る道すがら、誰も無駄な口はきかなかった。みな疲れていて、そして何より、言葉にするには重すぎるものを胸に抱えていたからだ。カイもまた、その沈黙に救われていた。もし誰かが軽々しく「おつかれ」とでも言ったなら、たぶん、その場で崩れてしまっていただろう。


 広場に戻ったとき、焚き火の準備が始まっていた。誰が言い出すでもなく、誰もが「そうするのが当然」という顔で、木を割り、鍋を吊るした。その手つきには慣れがあった。ああ、これは“何度もあったこと”なんだと、カイは気づいてしまった。


 その夜、戦士たちは火を囲んで酒を飲んだ。


 カイの前に、陶器のコップが置かれた。中には、淡い金色の液体が波打っていた。ミードだった。


「一杯だけだぞ」ザシャが念を押した。「……お前の、初陣の杯だ」


 カイはコップを両手で持って、恐る恐る口をつけた。甘い香りが鼻をくすぐり、舌に広がる熱が、喉の奥をすっと滑り落ちていった。


「……あったかい」


 そう言って、ほんの少し笑った。だが、その笑みの奥には、何か大きなものが渦巻いていた。いま自分が飲んでいるこの酒が、祝杯なのか、それとも鎮魂なのか、わからなかった。


 次の瞬間、周りの大人たちがどっと笑い、カイのコップに麦酒を注いだ。「二杯目からはこっちだ!」


「うげっ……!」


 強引に飲まされ、むせながら笑うカイ。その姿に、誰もがほんのひとときだけ、今日の戦いを忘れた。あるいは、忘れたふりをした。


 冬の空の下、焚き火のぬくもりにすがるように、彼らは夜を越えた。それが、必要なことだと皆わかっていた。だから誰も、止めはしなかった。これが、心に傷を刻まないための知恵なのだと、誰もが肌で知っていた。


 少し離れたところで、ユリアがその光景をじっと見つめていた。帳面を膝に置いたまま、ペンを動かすこともなく。カイの笑い声が聞こえるたび、なぜだか胸がきゅっとした。


「……入りたいのかい?」


 声をかけたのはリーネ婆だった。薪をくべながら、焚き火の明かりを背にして言う。


 ユリアは、ちょっとだけ首を傾げた。

 

「……うん。でも、違うって、わかってる」


「そうさ。あれは、あの子たちの場所だよ。薬草じゃ心の傷は治せない。……あれはね、心を傷つけないための儀式さ」


 ユリアは目を伏せたまま、火の輪の中で笑い合うカイたちを見つめた。その背中が少しだけ遠く見えて、寂しくなった。


「それを知らずに、剣を振るっちゃいけない。だからこそ、火のそばに居てくれる人間がいるってのは、ありがたいことさ」


 リーネ婆の声は穏やかで、火のようにあたたかかった。ユリアの頬に、焚き火の光がやさしく揺れていた。


 ユリアは小さく息をつき、そして帳面を閉じた。記録に残すのではなく、今はただ、心に刻んでおこうと思った。


「……わたしも、書くだけじゃなくて、願っておこうかな」


 焚き火の音だけが、冬の夜にぱちぱちと響いていた。その音に耳をすませながら、ユリアはそっと目を閉じた。誰にも聞こえないように、小さく、願いをつぶやいた。


  *  *  *


 たぶん、人のやさしさとか、あたたかさとか、

 そういうものをちゃんと受け取れるようになるのが、大人になるってことなんだろうな。


 わたしもまだ、剣を持つ覚悟はないけど――

 記録するってことは、きっとその痛みの一部を背負うってことなんだと思う。


 だから、書くことも、願うことも、忘れたくない。

 

――第6話 後編 『強さって、弱さを知ることだったんだと思う』

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