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第5話

 物語とは、不思議なものである。

 それは風に乗り、時を越え、語られることで命を持つ。


 ある村にいた一人の少女は、かつて“姿なき獣”を見た。

 それは恐れと、驚きと、そしてなにより“語りの欠片”が生み出した幻だったかもしれない。


 けれどその日、旅人が村に訪れたことで、風が少しだけ向きを変えた。


 そして――新たな物語が生まれた。


 これは、冬のはじまりの、とある村で語られた、そんなひとつの“火の物語”。


* * *


 白い息が、吐いたそばから霧散していく。空気は乾いて、肺の奥までひやりと冷えた。枝先には霜が宿り、踏みしめた地面からは小さく凍った落ち葉が擦れる音がした。

 

 かつては木漏れ日が満ち、小動物たちが跳ね回っていた森。だが今は、木々は葉を落とし、鳥の声さえ遠い。

 冬の気配に満ちたその林は、人を遠ざけるようにただ静かで、荘厳だった。

 

 獣がいた。


 それは確かにそこにいたのに、輪郭だけが霞んでいて、背景の木立に溶け込んでいた。

 目を凝らせば凝らすほど、視線が滑って焦点を結べない。


 リオネルタは、かすかに震える手を胸元で握ったまま、藪の奥を見つめていた。


「……なに、あれ……」


 木々の合間から吹いた風が枝を揺らす。枯れた葉が一枚、ふわりと舞った。


 彼女は息を詰めたまま、ゆっくりと後ずさる。けれど足元の霜に滑り、反射的に駆け出した。


 混乱だった。恐怖というより、場違いな風景を見てしまったような、不確かな感情が背を押した。


* * *


「……誰かが見て、逃げていった。クロ、お前が見えたのか?」


 ライナは木の根元に腰を下ろし、冷えた石の上に手をついた。指先に冷気が滲んでくる。


『たぶん、そうだ』


 クロの声は風に乗ってきたようだった。

 木立の奥、まだ薄暗い霧の中に、ぼんやりとその気配が漂っている。


「……姿なき獣のはずなのに、見えたのか。語られても、関わってもいないのに……何でだろうな」


『どこかで物語が、つながっているのかもしれぬな。レトのいた村のように』


「そんなこともあるのか。――ところで、クロはいつまでその姿なの?」


 目をやると、クロはまだ霧の奥に立っていた。

 黒い陽炎が集まって形を保っているような、はっきりしない輪郭。耳のような影が揺れ、尾のようなものがゆらめいている。

 それでも、そこに“クロ”がいることだけは、確かだった。


『……まだ、語られておらぬからな』


「語られてないと、姿もないの?」


『そういうことになる』


 ライナは顎に手を当てた。皮の手袋が乾いた音を立てた。


「じゃあさ、昔、村にいた犬に似てたって言ったら、犬になる?」


『……仮初のものだが、それに近い姿にはなろう。少なくとも、お前にはそう見えるはずだ』


「うわ、なんかそれ、便利なようで困るな」


 笑いながら立ち上がると、クロの影が少しだけ濃くなった。

 耳のようなものが揺れ、尾のようなものがふわりと動いたが、それは煙のように揺らめいていた。

 

 輪郭は不確かで、まるで霧が黒く染まったような存在だったが、

 その佇まいは、どこか大型の犬のようにも見えた。


「……でも、誰かが“あれは黒い熊だ”とか、“ドラゴンの眷属だ”とか言ったら、そっちの姿になるのか?」


『そう語られたならば、近い形にはなるだろう。仮初とはいえ、“姿を与える”というのは、そういうことだ』


「うわ、こわ……なんかもう、言葉って魔法みたいだな」


 ライナは黙って、霧の奥にゆらめく陽炎を見つめた。

 語られることで姿が定まり、語りようによっては異なる形になる――。そんな存在が、自分のすぐ傍にいるということが、今さらながら不思議に思えた。


 言葉は、ただ口にしただけの風ではない。

 何かをつくり、何かを変え、そして、時には何かを目覚めさせる。


 風が、霧の奥を撫でるように吹き抜けた。

 クロの陽炎が揺らぎ、その輪郭が再び曖昧になる。


 そう思うと、これまでただの霧や靄だと思っていたものも、語られれば、いつか“姿”を持つのかもしれない――そんな思いが、ふとよぎった。


 その瞬間、風の向こうから、かすかな煙の匂いが流れてきた。


 森を抜けた先に、村があった。


 屋根の上にはうっすらと霜が積もり、煙突からは静かに煙が立ち昇っていた。

 木を組んで泥で固めた壁は、まだ新しさを感じさせる。けれどどこか、懐かしい匂いがした。


「……この村、なんか妙に馴染むな。昔、来たことあるっけ?」


 ライナは立ち止まり、クロの影を見た。


 獣のような、けれど定かではない形のそれは、彼の隣でぬうっと揺れていた。

 人の目には犬に見えるかもしれないが、耳も尾も不定形で、まるで陽炎を塗り込めたようだった。


「どこも似たようなもんだろう、森と丘ばっかりだし」


 そう自分に言い聞かせ、ライナは肩をすくめて歩き出した。


 村の入り口には祭りの準備が進んでいた。

 木枠で囲った広場の中央に、半ば埋もれた石の祭壇。

 その周囲に組まれた焚き火の木々には、染めた布と鈴が結ばれていた。


 風が通るたびに、かすかな音が鳴った。祈りにも似た音色だった。


 ライナとクロが足を踏み入れると、村人たちはごく自然に彼らを受け入れた。


「おや、あんた……こんな寒い時期に、よく来たねえ」

「……あれ? 前に来たことあったっけ? なんか見たことある顔だな」

「まあ、火の手前、空いてるよ。腰を下ろして温まっていきな」


 まるで、ずっとここにいた者を扱うように。

 誰も問いたださず、誰も驚かなかった。


 クロの持つ縁か、それとも――

 いや、それだけではない気がした。

 言葉も、記憶も、何かがこの村に残っている。


 自分の記憶なのか、それとも語られることによる影響なのか。

 その境目が、あいまいになっているような気がする。


「……語られる、って、こういうことか」


 焚き火の前に座ったライナは、独りごちるように呟いた。

 

 クロの影は、揺れる火の光に合わせて形を変えていた。

 そして、小さな吐息のような気配が、焚き火の音に紛れて漏れた。


 焚き火を囲む輪の中では、祭りの準備に交じって、誰かが噂話をしていた。

 

「詩人の兄さん、今年は越冬するんだってさ」「この寒さで旅は無理だろうしな」

「ああ見えて、薬草にも詳しいらしいぞ。えらいもんだよ」


 ライナは焚き火の手前に腰を下ろしたまま、ぼんやりとその会話を聞いていた。

 焚き火の音がぱち、と小さく弾けた。

 ライナはその音を聞きながら、ひと息つくように言った。

 

「詩人が越冬、ね……俺は、どうしようかな」


 語られることが目的である以上、一つ所に留まるのは得策ではないのだが。

 どうにも、この村は居心地がよさそうだった。


 日が落ちると、空気の冷たさが一層際立った。

 焚き火のそばはあたたかかったが、それでも時おり吹く風は頬を刺すようだった。


 村で越冬の火祭りと呼ばれるこの祭りは、静かな祈りの夜だった。

 大声で騒ぐ者はいない。鈴の音と、火のぱちぱちという音だけが、空気の底を流れている。


 焚き火の周囲には人が集まっていた。

 誰もが自分の願いを胸に抱いたまま、火に向かって手を合わせていた。


 その中に、ひときわ目立たない少女がいた。

 茶髪の髪が炎に照らされて、赤く揺れている。


「薬草、採りに行ってたの」


 聞きもしないのに、少女――リオネルタはぽつりと呟いた。


「おばあちゃんに言われて。あそこの谷、冬になると雪で埋まるから」


 ライナは「ふうん」とだけ答えた。何かを感じていたが、言葉にはならなかった。


 そのとき、風が吹いた。


 焚き火の炎がわずかにゆれ、灰がふわりと舞い上がる。

 その灰を見つめながら、ライナはぽつりと呟いた。


「俺の村じゃね……祭りの最後に、願いを書いた紙を風に飛ばしてた」


「紙に?」


 リオネルタが驚いた顔をした。

 ライナは頷き、指で空をなぞる。


「書いたことが風に乗って、空の上に届くって。誰が言い出したか知らないけど……そういう風習だった」


「贅沢だね。こっちじゃ、紙なんて貴族でもなきゃ持てないよ」


「古くて、色あせててもいい。字が書ければ、それでいいんだ」


「詩人のフィエノルさんが、紙を持ってるよ。貴重だけど、見せてくれるかも」


 リオネルタの声に、焚き火の向こうから男が現れた。

 肩に古い楽器を背負った、静かな詩人だった。


「フィエノル……?」


 ライナは男の名を聞いて、ふと首を傾げた。

 聞き覚えのある名だった。確か、以前にも同じ名の詩人に会ったはずだ。


「……前にも、“フィエノル”と名乗る詩人に会ったことがある。けど、あんたは……」


「ああ、それはきっと、私の親族か、あるいは師かもしれません」

「“フィエノル”とは、我が一族――語り部の家が代々名乗る名前なのです」

「風のように、言葉を継ぐ者の名として」


 男は、静かに笑った。

 その笑みには誇りも、わずかな寂しさも、そしてどこか“自分だけの名前ではない”という諦観が混じっていた。


「……なるほど。そういうものもあるのか」


 ライナは小さく頷き、それ以上は何も言わなかった。

 だが心のどこかで、なにかが引っかかっていた。

 (たった一つの名を、幾人もの者が名乗る――それもまた、語られた名の力か)


「提供出来るのは1枚だけ。何か書くなら……そうですね、二等分といったところですか」


 詩人――フィエノルは、そう言って紙を火のそばに置いた。

 どれも角が丸くなっていて、端には染みが残っている。


「誰が書くの?」


 リオネルタが声を上げた。戸惑いよりも、わずかな興奮が混じっている。

「強い願いがある者が名乗って、語ればいい。皆の納得する願いじゃないと、味気ないでしょう」


 祭りの輪の中で、小さな円ができた。

 焚き火の光が、語り手たちの顔を照らす。


 ライナはその中に立った。

 語りなど得意ではなかったが、今は何かを言いたい気がした。


「願いといえば……とある村に、祈りが届かなくなった精霊がいた。

 その村じゃ、みんな諦めていた。言葉は通じない、願いは届かない……って。

 でもその村に、一人の少女がいた。

 彼女は、精霊と共に、声にならない声で語り掛けた。

 “わたしの言葉は、きっと届く”――そう信じて、語りかけた。

 そして……ほんの少しだけ、世界が変わった」


「……それだけの話さ。でも俺は、それが、いちばん最初の奇跡だったと思ってる」


 焚き火の炎が、ぱち、と小さく弾けた。

 静かな拍手が、輪の中から広がっていった。


 リオネルタも語った。

 話の内容は単純だったが、言葉がまっすぐで、火の光とよく合っていた。


 幾人かの語りが終わった後、詩人が微笑んで頷いた。


「誰も彼も、良い語りだった。が、今日はこの者達に譲ってくれ」


 紙が、ライナとリオネルタへ手渡された。

 ライナは受け取り、しゃがみこんで袋から墨と筆を取り出した。


 リオネルタが覗き込む。


「……読めない」


「教えようか?」


「……うん」


 凍てつく夜の空気のなか、焚き火の赤が紙と手を照らしていた。

 ライナはひと文字ずつ、彼女に教えながら、共に願いを記していった。


 炭の匂いがわずかに鼻をくすぐった。

 ライナは筆を置き、紙を掲げて、風の向きを確かめた。


「これで……よし」


 火から少し離れた場所で、ライナは手を放した。

 紙はふわりと舞い、空に向かって浮かび――そしてすぐに、地面へと落ちた。


「……あれ?」


 リオネルタが紙を拾い上げた。墨のにおいがまだ残っていた。


「風、選んでくれなかったみたいだね」


「そうかもな。願いってのは、届くときと届かないときがあるんだろ」


 ライナは苦笑し、焚き火を見つめた。


 火の揺らぎが、まるで彼の語りの残響のように見えた。


「でも……字、教えてくれてありがとう」


 リオネルタが紙を胸に抱いたまま、ぽつりと呟いた。


 ライナは目を細めた。

 彼女がどこか、遠い過去から来たような気がした。


 クロが小さく鳴いたような音を立て、焚き火の奥へと歩いていった。

 陽炎はまた、曖昧な獣の姿へと戻っていく。


「次は、私の番」


 そう言って、リオネルタはもう一枚の紙を手に取った。


 彼女の指が震えていたのは、冷えのせいだけではなかった。


 風は、彼女の願いを、どこまでも、どこまでも遠くへと運んで行った。


「願いなんて……どうせ届かないって、ずっと思ってたんだ」


 彼女のつぶやきに、ライナは返事をしなかった。


 ただその背中を見つめていた。


「けど……届くといいな」


 彼女の頬に、白い息とともに微笑みが浮かんだ。


 クロが傍らに歩み寄り、火の明かりの中で静かに尾を揺らした。

 その姿は、まだ不定形のままだったが――どこか、誇らしげに見えた。


* * *


 祭りは、音もなく終わっていた。

 火はゆっくりと灰に沈み、鈴の音も鳴りやんだ。


 村人たちはそれぞれの家へ戻っていく。

 リオネルタもまた、火の名残に一礼して背を向けた。


 ライナは焚き火のそばに残っていた。

 まだあたたかい石に腰をかけ、静かに夜の空気を吸い込んだ。


「語るってさ、なんなんだろうな」


 ぽつりと呟いた言葉に、答えはなかった。

 けれど、背後から気配が近づいてくる。


「それを知りたくて、私は旅をしてるのかもしれません」


 フィエノルだった。


 肩から古びたノートを外し、ページをめくる。

 そこには今日聞いた語りや、村の風習が細やかに記されていた。


「この村には、昔から奇妙な話が残っていて。姿なき獣とか、古代の獣いとか。

 あまりに古くて、誰が最初に語ったかもわからないものばかりです」


「じゃあ、貴方が最初に記すのか」


「そうなるかもしれません。けれど本当に大事なのは、“誰が語ったか”ではなく、“何を語り継いだか”ですよ」


 フィエノルはページの隅に、焚き火の灰を小さく擦りつけた。


「それが、“語られる”ということですから」


 ライナは、火の残り香がしみついた空気を吸い込みながら、静かに目を閉じた。


* * *


 翌朝、村の空気はぴんと張りつめていた。


 遠くの山並みに、薄く雪の気配が漂っていた。

 冷気が強くなり、風の音も乾いたものに変わっていく。


 村人たちは朝から忙しそうに薪を運び、窓を覆う布を二重にしていた。

 誰もが“その時”を察していた。冬が、本格的に村を閉ざそうとしていた。


 ライナはクロとともに村の外れにいた。

 石を積んだ小道の脇、霜を踏むたびに軽い音が鳴った。


「そろそろ、出るよ」


 村を離れることに、特別な理由はなかった。

 けれどここに長くいてはいけない気がした。語り手として、何かが区切りを迎えたような。


「また来るかな?」


 クロは答えなかった。


 ただ、風が吹いた。森の奥から、山のほうから。

 雪を告げる風。けれどその風は、どこか懐かしい匂いがした。


 ライナは振り返り、村の中央にある祭壇のほうを見た。


 昨日の火祭りで使われた布が、まだ残っている。

 それがひらりと揺れて、まるで手を振っているように見えた。


 言葉にはしなかったが、彼は心の中で一言だけ、祈った。


 “風に乗って、また誰かに届きますように”


* * *


 風は、昼も夜も、ずっと吹き続けた。


 山を越え、森を抜け、村々をなぞるようにして、風が走っていく。

 その中に、一枚の紙が舞っていた。


 紙は何度も旋回し、ときには枝に引っかかり、落ちかけた。

 けれど、そのたびにふわりと風に押され、再び空を滑った。


 やがてそれは、一つの村へと辿り着いた。


 屋根にうっすらと雪を載せた家々のなか、軒先で布を干していた一人の老女がいた。

 リーネ婆。


 手を伸ばし、紙を受け止める。


 風が止んだ。


 紙は、どこか古びていた。だが、そこに記された文字は、確かに生きていた。


 子どもの筆跡。墨が少しかすれている。


 彼女は紙を見つめ、眉をひそめた。


「……これは……?」


 声に出した言葉には、確信も驚きもなかった。ただ、かすかな既視感。


 だが、思い出そうとしても、思い出せなかった。


 紙の端には、かすかに焚き火の香りがしみついていた。


 リーネ婆は紙をたたみ、懐にしまった。


 何も言わず、ただ静かに空を仰いだ。


* * *


 物語とは、風である。

 掴めぬもの、けれど確かに感じられるもの。


 あの夜、願いの紙は高くは舞わなかった。

 けれどそれは、誰かの手に届いた。

 それが、今この村に残る物語の、始まりだったのかもしれない。


 姿を持たぬ獣に名が与えられたように。

 語られぬものにも、語られる日が来るように。


 火は消え、風は止んだ。

 けれど物語の灯は、まだどこかで揺れている。

 

 ――第5話 『火に照らされ、風に乗る願い』

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