第4話 後編
かつて、ある村で起きた夜のことを、私は語り伝えている。
誰もが忘れられぬ記憶として、だが、語られる名前はひとつきりではない。
語れぬ者たちの音が届き、心が重なり、誰かが何かを信じたその夜。
その始まりを、君に話そう。
* * *
夜の闇は、昼のざわめきとは違う匂いを帯びていた。
納屋の中は干し草の香りと木の軋みが満ちており、ライナは静かな夢のなかを漂っていた。
だが、クロが身を起こしたのは、その静けさがどこかで綻んだからだった。
わずかに開いた戸の隙間から、夜気とは異なる、荒い気配が流れ込んでくる。
『……何かが、来る』
低く、確かな響きでクロが告げる。ライナの目が開いた。
夜に馴染んだ視界のなか、クロの影が毛のようにぴんと逆立っている。
「……まさか」
胸騒ぎが、脈打つように体を揺らした。嫌な予感が全身を駆け抜けた。
ライナはすぐさま立ち上がり、鍬を手に取る。
靴も履かず、草を蹴って戸を開けた。
月明かりの下、すぐ脇に立つ母屋の扉が軋む音がした。
カナエの家。中に居るのは、カナエのみのはず。
あの夜と、まったく同じ――いや、それ以上に胸を締めつける嫌な気配。
走り出す足音に、クロの影が寄り添う。
脳裏に蘇る記憶は――叫べなかった少女。届かなかった声。
* * *
家の扉が無理やり開けられていた。
中からは押し殺された物音。何かが倒れる音。布が裂けるような、荒い息づかい。
「……金でもパンでも、何でもいい。くれなきゃ……っ」
低く濁った声が、室内から漏れた。
ライナは躊躇わず、戸口に踏み込んだ。
かつての記憶の再現だった。
荒れた男が、床に倒れた家具の横に立ち、カナエに向かって手を伸ばしていた。
彼女は声も出せず、壁際で震えている。
ライナは鍬を握りしめたまま、歯を食いしばって一歩を踏み出した。
「……離れろ」
その声に、男が振り向いた。
「あ? なんだお前……ああ? 何でてめぇみたいなやつが……!」
口元を歪め、よろけたように腕を振り上げかける。
「どうせ朝には、全部めちゃくちゃになるんだ。俺がやらなくても、誰かがやるさ……!」
そのとき――
きぃきぃ、きぃきぃと、金属を爪で削るような、鋭い“音”が空間を震わせた。
クロが唸る。
『精霊が……鳴こうとしている』
男も、カナエも、ライナさえも、思わず一瞬だけ動きを止める。
クロが低く唸る。
『……だがまだ、抑えられている』
ライナは鍬の先を地面に叩きつけた。
乾いた音が空気を裂き、男の肩が震えた。
「次、動いたら、本当に当てる」
ライナの声は少年らしく震えていたが、鍬を持つ腕だけはぶれていなかった。
男はしばらく黙ってライナを睨みつけていたが、やがて舌打ちして背を向けた。
扉を乱暴に開けて、夜の闇へと逃げていく。
ライナは鍬を下ろし、息を吐いた。
カナエが崩れるように座り込み、肩を震わせる。
その横に膝をつき、ライナは呟いた。
「今度は、守れたよ……」
* * *
男の言葉が耳に残っていた。
――どうせ朝には、全部めちゃくちゃになるんだ。
男が逃げた方向を見つめながら、ライナは眉をひそめた。
それはただの捨て台詞には聞こえなかった。
「クロ……あいつ、何かを知ってるかもしれない」
クロが静かに頷く。『追うか』
ライナは一度だけカナエを振り返り、そっと頷いた。
「……すぐ戻る」
いかないで。
そんな心を感じるも、それよりも、カナエを守ることが優先だった。
路地を抜け、逃げた男の残した足音を辿っていく。
遠くに、うねるようなざわめきが聞こえた。
夜明け前だというのに、人が集まっている。
何人かが松明を掲げ、興奮した声が飛び交っていた。
鍬を掲げる者、棒を振るう者。粉屋の前で騒ぎ立てる者――
まるで、火がつく寸前の、カラカラに乾いた薪の山。
ライナは息を呑み、目を細めてその光景を見つめた。
暴動の気配が、確かにそこにあった。
カナエが体を震わせていたのは、先ほどだけでは終わらない。
村そのものが、何かに押し潰されようとしている。
そして、誰もが、言葉を飲み込んだまま動こうとしていた。
怒りに顔を染めた大人が叫ぶ。
「石臼を返せって、もう何度言った!? あの粉じゃ、子どもが腹を下すんだ!」
「領主様が来ないなら、こっちから行くしかねぇだろうが!」
別の男が棒を振り上げて喚いた。
だが、まだ――誰も本気で動き出す者はいない。
言葉だけが空気をかき乱し、怒号に似た“音”が重なっていく。
ライナはその群れの端に立ったまま、ひとり鍬を握っていた。
(また、誰かが――何かが、失われる前に)
カナエが声を失ったように――この村もまた、“語れぬ者たち”だった。
ライナは、鍬を握る手にじわりと汗が滲むのを感じていた。
心臓がうるさいほどに鳴っていた。
(俺が出ていって何になる……誰も、俺の話なんか……)
そう思いかけて、ふと脳裏に浮かんだのは、妹のノートだった。
そこに書かれていた、くしゃくしゃの文字。
――「お兄ちゃんは、いつも私を守ってくれる」
そして、カナエの顔。
何も言えずに震えていたあの姿。
(このままだと……また、カナエのような子が、どこかで……)
(いや……次こそ、カナエに刃が届くかもしれない)
そう思ったとき、足が自然に前に出ていた。
ライナは小さく息を吸い、鍬を肩に担いで、ゆっくりと人の輪へ歩み出た。
その姿に、ざわり、と群れが揺れる。
「誰だ……? 黒い獣……?」
「なんだ、あの子供……?」
幾つもの視線が、警戒と困惑を滲ませながら彼に注がれる。
だが、一人の女性の声がその空気を変えた。
「あの子……! あの子よ、私の財布を取り返してくれた!」
驚きと共にいくつかの顔が振り向く。
「広場で叫んでた、あの詩人の時だよ! 黒い獣と一緒にいた子……!」
記憶が繋がり、ざわめきが変わっていく。
ライナの姿に「見たことある」「ああ、あの時の……」という呟きが広がる。
認識される。語られる。
ライナは立ち止まり、鍬の柄を静かに地につけた。クロは、その姿なき足をしっかりと大地に降ろす。
「……怒るのは、当然だと思う。俺だって、きっと同じだった」
声は震えていたが、目は逸らさなかった。
「でも……誰かを傷つけたら、その痛みはまた、誰かの中で残る」
人々の表情に、ほんの少し迷いが見え始めた。
だが、その一角から誰かが叫んだ。
「もう限界なんだよ! 言葉なんかで、何が変わるっていうんだ!」
その声に反応するように、群衆の怒気が再び波打つ。
鍬を掲げる者、棒を振り上げる者――止まりかけた熱が再び燃え上がる。
「退け! どけぇっ!」
押し寄せる人の波に、ライナは踏みとどまり、鍬を構えた。
* * *
胸がざわつく。
嫌な予感がする。
このままではいけない。
そう、感情が訴えかけてくる。
鼓動はいまだに落ち着くことを知らず、いや。
走っていくライナの背中を見送りながら、ますます早鐘を打ち続ける。
このままではいけない。このままでは――
戸を開け、外へ出ると、村の一角からざわめきが聞こえてきた。
松明の灯り、集まる人影、その中央に、鍬を構える少年の姿。
ライナが――囲まれている。
カナエの足が、無意識に動いていた。
(なにか……なにかしなきゃ)
そのときだった。
耳の奥、心の底で、小さな声が響いた。
――“僕の力だけじゃ足りない。君の想いが必要なんだ。一緒に、止めてほしい”
精霊の声。
ずっと、彼女のそばで語りかけていた声。
不意に、理解した。
これは、私を助けてくれた“音”。
ずっと、私に呼びかけてくれていた“声”。
今まで認識できていなかったのが、まるで嘘のように、わかった。
カナエは立ち止まり、胸に手を当てる。
喉は震えるのに、声は出ない。
けれど、伝えたい。
ライナを、止めたい。
誰も、傷ついてほしくない。
(響いて――響け――響け!!!!)
カナエと精霊が、ひとつになった。
そして。
――キィィィィィン!!!
夜を裂くような、鋭く、深く、揺さぶる音が響いた。
それは叫びでもなく、言葉でもなかった。
ただ、音が、すべてを止めた。
やりすぎなくらいに、響いた。
そして、その音とともに――情景が、流れ込んだ。
誰の目にも見えないはずの記憶が、まるで夢のように心に浮かび上がっていく。
薪の火がはぜる音。石臼を挽く父の背中。笑いながら小麦をこねる母。
焼きたてのパンを囲んで交わされた、たわいもない会話。
それが、少しずつ変わっていく。
公粉屋の導入。石臼の回収。父が口をつぐみ、母がため息を重ねる。
乾いたパン。乏しくなる言葉。すれ違うようになった食卓。
そして、あの夜。
カナエの家に押し入った男。
叫びも、涙も、届かなかった時間。
今、目の前にある光景。
手に棒や鍬を持ち、怒りをぶつけ合おうとする自分たち。
――そのすべてを包むように、最後の情景が浮かぶ。
父と母が言っていた。
「ちゃんと言葉にしなきゃ、伝わらないんだよ」
「話せば、きっとわかる。だから、ちゃんと語りなさい」
幼い日のカナエが、それを真剣に頷いて聞いていた記憶。
そして、それはきっと、そこにいた多くの者たちの中にも、同じようにあったはずの光景。
誰もが理解していた“当たり前”だったはずのこと。
それが今、音によって、皆の胸に思い出されていた。
誰もが耳を塞ぎ、膝をつき、怒りも、熱も、その音と情景に呑まれた。
ライナが振り返ると、そこにはカナエが立っていた。
胸に手を当て、精霊の気配を背にまとい、静かに目を閉じていた。
『……あの時と、同じだ』
クロが囁く。
『あの子が命を救われた、あの音。精霊が、彼女の想いを響かせている』
世界が、静かだった。
どこからか聞こえる音に心を預けながら、カナエも、村人たちも、動くことを忘れていた。
……どれくらい、時間が経ったのだろう。
音が止むと、村の広場には、深い沈黙が残された。
怒りに燃えていた目も、今はただ、何かを問い直すような色に変わっていた。
そのとき、群衆の端から、兵士のひとりが前に出た。
彼もまた、顔を強ばらせ、震える声で叫ぶ。
「頼む……! 今一度、時間をくれ! 自分が命を賭してでも領主様を呼びに行く! だから……もう少しだけ、待ってくれ!」
その叫びに、村人たちは驚きと戸惑いの表情を浮かべた。
今まで一度も、自分たちの前に出てきたことのない兵士が、命がけで語りかけている。
その兵士は、村人の誰もが困惑する中。自らの馬に飛び乗り、駆け出して行った。
怒鳴り声は消え、誰もが互いの顔を見合う。
怒りが、困惑に変わる。
誰もが足を止め、言葉を失っていた。
だが、それも。
徐々に明るくなるにつれ、困惑の色が引き、ざわめきが大きくなり始める。
そして――
音に割って入るように、馬の蹄が駆けてきた。
「……あの音を聞いたのは、お前たちだけじゃない」
息を荒げたままの男がそう言った。
「空が鳴っていた。理由もわからぬまま、だが……気づけば、こっちへ馬を向けていた」
しわの刻まれた顔に、深い影を落としながらも、確かな目をもって人々を見据えていた。
――領主だった。
彼は静かに馬から降り、ゆっくりと群衆の中へ歩を進めた。
村人たちは誰ひとりとして声を出さなかった。
ただ、目の前に現れたその姿に、息を詰めるようにして見つめていた。
領主は、少しだけ目を伏せた。
そのまま、はっきりとした声で語りはじめる。
その声は、老いを帯びながらも澄んでいた。
「石臼の件……確かに、私は直接命じてはいない。粉屋の導入は計画していたが、それを理由に民の生活を脅かすなど、私の望むところではない」
ざわめきが広がる。
誰かが小さく、「じゃあ……誰が?」と呟いた。
領主は小さく息を吐いた。
「部下の独断だった。それを見抜けず、ここまで放置してしまったのは……他でもない、私の責任だ」
その言葉に、誰かが涙をぬぐう音がした。
「知らなかった……いや、知ろうともしなかった。村の噂を、最初だけだと切り捨てていた。……結果がこれだ。すまなかった。」
「語られねば、私は知り得なかった。怒りも、苦しみも、嘆きも。だが今、それを……この身に響くほど、伝えてもらった」
領主は、民の前で深く頭を下げた。
「石臼は返す。奪われた日常を、ひとつずつでも取り戻すことを誓おう。これからは、もっと多くの声を、語りを、聞かせてほしい」
誰も、声を上げなかった。
今まで「語り」を笑っていた大人たちが、誰より真剣な顔で、領主の言葉を聞いていた。
「ところで、君は……?」
鍬を構え、村人達と対立する形で佇んでいたライナとクロへ向かい、領主が問う。
ライナは少しだけ笑って、首を横に振った。
「……皆を止めたのは、カナエ。それだけで十分です」
風が、広場を吹き抜けた。
それは静かで、どこかあたたかかった。
* * *
その日、村には変化が訪れた。
公粉屋はそのまま残ったが、石臼の使用も認められた。
村人たちは“選べる”ようになった。
カナエの家には、再びパンの匂いが戻った。
言葉はまだ戻らなかったが、彼女の想いは、もう独りではなかった。
ライナはゆっくりと近づき、彼女の隣に膝をつく。
彼女の肩が震えていた。
クロがそっと囁いた。
『また同じことが起きかけていた。だが、彼女は逃げず、向き合おうとしていた』
ライナはその肩に、そっと手を添えた。
「……もう、大丈夫。今度は……ちゃんと、間に合った」
カナエは顔を上げた。涙が頬を濡らしていたが、その瞳は確かに前を見ていた。
あの夜、ライナという名を知る者は、村にいなかった。
けれどそれから、詩人が村を訪れた。若い娘から筆談で渡された“鍬を持つ旅人ライナと、黒き獣クロ”の記録は、静かに言葉として紡がれていく。
そうして、村を語った名もなき少年の名前は、やがてこの地の誰もが知るものとなった。
──記録したのは、カナエ。
──語り継いだのは、詩人フィエノルであった。
* * *
あの夜、彼は名を名乗らなかった。
誰もが彼の名を知らぬまま、ただ精霊の声と共に、彼の語りを聞いた。
だが、語る者がいれば、名は残る。
彼女がそれを記した。私がそれを話した。
だから今、君がこうしてこの語りに触れている。
――第4話 後編 『響き、名もなく』