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第4話 前編

 前に語ったのは、忘れられた旅人と姿なき獣の物語が、だれかへ届く話だったね。


 今宵語るのは――“語れぬ者”の物語。

 語り手はいつも、声ある者ばかりを語ってきた。

 だが、世には“語れぬ者”がいる。

 彼らは叫ばず、訴えず、ただ静かに――

 痛みを抱え、願いを胸に、そこに在り続ける。


 今宵語ろう。

 誰にも語られぬままに、確かにそこにいた“語れぬ者”のことを。


* * *


 風が変わった、とライナは思った。

 草いきれと土の香りに、煉瓦と火の煙、知らない香辛料――見知らぬ村の空気は、懐かしさと異質さが同居している。


 丘を越えて、道なりに歩いた先で、彼とクロは立ち止まる。

 そこは、かつてのリューン村とは比べものにならないほどの賑わい。石畳の街道、家々の赤い屋根、遠くには鐘楼が見えた。

 人々は素早く行き交い、子どもたちの笑い声に混じって、商人たちが張り上げる声が響いていた。


 だが、そこにはどこか余裕のなさと、湿った空気が満ちている。


 ライナは、人の波に紛れながら、そっとクロに問いかける。


「……ここ、今までの村とはずいぶん違うな」


『貨幣が巡る場所だ。物々交換が薄れ、銀貨や銅貨が暮らしの中心になると、思いの通いも変わっていく』


 クロの声は、ライナにだけ聞こえる小さな囁きだった。


 ライナが最初に足を止めたのは、広場の一角にあるパン屋だった。


 軒先に並ぶパンは二種あった。

 一方には、表面がつややかでふっくらと焼き上がった白パンや、色鮮やかな果実の入った贅沢なパンが美しく並ぶ。

 もう一方には、形も悪く、ひび割れて乾ききった茶色いパンが、籠に山積みにされている。


 美しいパンを買い求めるのは、身なりの良い婦人や領主の家に仕えるらしき人々。

 その脇で、粗末なパンに手を伸ばすのは、質素な服の老人や、子どもを連れた母親たちだ。


「……同じパンなのに、ここまで違うのか」


 パン屋の主人は、美しいパンには値札を掲げ、貧しい者たちが求めるボソボソのパンには、値段すら記していない。

 ――あえて値札をつけないのは、誰にも値切らせないためか、あるいは買い叩かれるのを防ぐためか。


 ライナは、ふいにユリアのノートに綴られた“兄さんの好きなもの”を思い出し、パンの山を見つめた。


 無意識にごくりと喉を鳴らす。

 ユリアのノートに記された「兄さんの好きなもの」が、いつもより鮮やかに胸の奥で疼いた。


 しかし、手を伸ばしても、パン屋の主人は彼に気づかない。


「……ここでも、まだ俺のことは誰にも見えないんだな」


 それでも、ライナはいつか、誰かに語られることを願いながら、店の様子を見つめていた。


* * *


 ちょうどその時、通りの向こうで何やらざわめきが起こった。

 怒鳴り声、駆け出す足音――次の瞬間、広場の奥から一人の男が走り向かってくる。


「待て、泥棒! 財布を返せ!」


 追いかけてきたのは、真新しいエプロンをつけた若い女性。

 男は小柄な体にボロボロの服、片手で財布をぎゅっと握りしめている。


 人々は一瞬だけ道を空ける。

 その隙をついて、男はライナの目の前へ――


 ライナは、咄嗟に前の村から持ってきてしまった鍬を、足元に差し出した。

 ひったくりの男は足をとられて転び、財布が高く宙を舞う。


 地面に落ちた財布を、ライナは素早く拾い上げる。


 「あんた、助かったよ! こんなもんしか返せないが、もらっておくれ!」


 財布と交換に、ライナの手に握らされたのは、ごつごつして色も悪いボソボソのパン。


 受け取ったパンを見つめながら、ライナはふと自分の存在の薄さを思い出す。


 「……誰に話してるんだ?」

 「誰って、そりゃあこの捕まえてくれた男前さ! ここに、さっき……いや、いなくなっちまった……」


 周囲の人々の不思議そうな視線が集まる。だが、ライナの名はまだここには響かない。


 女性に馬乗りにされ、取り押さえられた男を見ながらではあるが、せっかく受け取ったパンに、ライナは期待半分でかぶりつく。


 ――バサッ。

 かじった瞬間、パンは口の中でざらりと崩れ、舌に張り付く。

 喉の奥でむせるような乾いた粉の味。水を求めても、咳だけが込み上げてくる。


 乾いたパンは、口の中で粉のように崩れ、喉に張り付くような味気なさだった。


「う……。これがパン、なのか?」


 “兄さんの好きなもの。外はカリッと、中はふわふわのパン。バターと蜂蜜が合うやつ。”


 今、口にしたこのパンは、同じ“パン”という名でありながら、ユリアが焼いてくれたあの味の記憶とはまるで違っていた。――いや、それでもパンが好きだった自分の、今はもう失われた過去のように思えた。


『どうやら、小麦の粒を挽かずにそのまま焼いたもののようだな。これでは、喉も通らない』


 クロの声に同調するかのように、周囲の人々からため息交じりの苦言を漏らす。


「これも全部、公粉屋のせいだよ……」

「領主様が魔道具の粉ひき機を村に持ち込んで、古い石臼は取り上げられた」

「みんな、あの魔道具の使用料を払えないから、しかたなく自分で麦を潰すしかないんだ」

「そして、麦すら買えなくなった奴は、ああして犯罪に手を伸ばすか、飢えていくしかねぇ」


 そんな苦々しい声が、あちこちで聞こえてくる。


 そこへ、広場の一角から吟遊詩人の唄が響いた。


「おお、偉大なる領主様。

 民の暮らしに光を、とお与えくだされた魔道具は、

 今日もまた新たな涙を生み出す――

 パンはパンでも、涙で塩気が増すパンもどき――

 魔道具ひとつで明日も見えず

 おお、民草たみくさよ 光の中で病んでいけ――」


 その場にいた数人の商人が、顔を見合わせて小さく笑う。

 だが、声を出して笑う者はいなかった。

 足早に立ち去る者、目を伏せて行き過ぎる者、

 一人の子どもが口を押えて笑いかけ、すぐに親に手を引かれていった。


 詩人だけが、何事もないように明るく唄い続けていた。

 声を出すことに疲れた街で、声を張る者はひどく目立った。


 「……おい、そこの歌い手。領主様に聞かれたらただじゃ済まんぞ」


 騒ぎに駆け付けた兵士が、控えめに詩人のそばへ寄って声をひそめた。


 しかし詩人はにこやかに弦をかき鳴らし、肩をすくめる。

 

 「これはただの歌さ。風が運ぶ噂話、耳に入れたくなけりゃ、風除けでも立ててみな」


 兵士は困ったように頭をかき、さらに声を潜めて囁いた。


 「……頼む、勘弁してくれよ。聞こえないように、せめて裏通りでやってくれ。もう限界なんだ」

 「この村で波風立てても、何も良いことはないからな……」


 兵士の声には、疲れと苛立ちが滲んでいる。

 民の苦しみと役人の板挟み、その狭間で疲弊する姿が、ライナには痛々しく映った。


 詩人は小さく笑って弦をひとつ鳴らし、

 「はいはい、風のまにまに」と、楽器を抱え移動の準備を始める。


 だが、ふとその手が止まる。

 広場のざわめきの中、パン屋の前に立ち尽くす少女がいた。彼女は、錆びついた銅貨を小さな手で握りしめている。唇は微かに震えるばかりで、「パンをください」の一言が、どうしても喉を通らない。


 「あー……うー……」


 声にならない声。

 何度も唇を動かしてみるが、口の奥からこぼれる音は、言葉の形にならない。もどかしさが胸をかきむしり、息苦しさでいっぱいになる。

 本当は、「これをください」と伝えたいのに。

 けれど言葉は、喉の奥で塞がれ、空気に溶けて消えていく。


 パン屋の女主人は、最初こそ困った顔を見せたが、事情を察したのか、手早くパンを紙に包み、微笑みながら差し出す。


 少女は、どうしてもお礼が言いたくて口を開く。

 だが、出てくるのは「あ……」というかすかな音だけ。それでも、少女は深く頭を下げてパンを受け取り、そっと踵を返す。

 その背には、広場の人々の視線が刺さる。


 そのとき、片隅で歌う詩人が、ひときわ高らかに声を張る。


「おや、今日も哀れな小鳥がパンを求めて。声がない? ああ、かわいそうに。みんなで同情してやろうじゃないか!」


 大人たちは少女に同情の目を向ける。だが、それは“上からの哀れみ”に過ぎない。


 詩人はさらに続ける。


「公粉屋の魔道具様よ、ありがとう。みんな腹を空かせて涙のパンを食べている。今夜も祭りだ――領主様のおかげでな!」

「泣け、笑え、踊れ、民草どもよ! 音楽なら、腹の虫だって鳴らせるさ!」


 群衆は拍手する者もいるが、眉をひそめる者もいた。


 クロがぽつりとライナに囁く。


『あれは……前に出会った吟遊詩人とは、まるで違うな』


 ライナも、どこか居心地の悪さを感じていた。


 「可哀想にな。あの子、事件のあとから口が利けなくなっちまったんだって?」

 「親をあんな目に遭わせて……そりゃ、ああもなるさ」

 「もう元には戻れないんだろうな」


 聞こえないと思われているのか、大人たちは平然と哀れみや噂を口にする。

 だが、少女の耳には、そのすべてが鋭く刺さってきた。


「……嫌な、感じだ」


 大人たちの目は何を見ているのか。

 少女の境遇への哀れみか、事件への怒りか、それとも自分より弱きものへの安堵か。

 ライナは、その姿に、かつての妹――ユリアの影を重ねた。

 声を失った少女。届かぬ声。それでも語られるのを待つ存在が、ここにもいる。


「自分のことを見てくれなくても、せめて……」


 意味がないかもしれない。そう思いながらも、ライナの足は自然と少女のもとへ向かう。

 心ない視線から、ほんの少しでも救いたいと願いながら。


 少女はうつむきながらパン屋を離れようとした――そのとき、不意にパンを落としてしまう。


 ライナは誰よりも早くそのパンを拾い上げ、そっと差し出した。


 少女は驚いた表情でライナと目を合わせる。

 その瞳に浮かぶのは、悲しみと戸惑い、そしてほんの少しの安堵。

 やがて、少女は深く頭を下げてパンを受け取り、足早に去っていった。


 落としたパンは、あのボソボソのパンだった。


 少女の背中を見送ったライナは、そっとため息をつく。その横で、クロが耳をぴくりと動かす。


『……あの子の傍に、人ではない“何か”がいる』


 クロの声は低く、しかし確信に満ちていた。ライナは不意にその言葉を飲み込む。


「見えるのか、クロ?」


『“気配”だ。……お前も感じてみるといい』


 ライナは少女の去っていく細い背中に視線を向ける。確かに、ふと胸の奥がざわつくような、そこにだけ別の空気があるような、ひんやりとした気配を感じた。


「……追いかけてみよう」


 クロとともに歩みを進める。

 少女はパンを胸に抱き、細い路地を曲がっていく。ライナたちは気配を頼りに、そっとその後を追った。


 やがて角を曲がった先で、少女がふいに立ち止まる。ライナとクロが気配を消して近づくと、少女がこちらに気づき、戸惑いと警戒の色を浮かべて振り向いた。


 その瞬間――

 空気がふるえ、ライナの脳裏に、見知らぬ光景が広がった。


* * *


 ――春の日差しが柔らかく差し込む、小さな家。

 石畳の台所で、少女が母の手伝いをし、父が麦を石臼で挽いている。

 笑い声が満ち、食卓には焼きたてのパン。質素だが、どこまでもあたたかな日々――


 やがて、村に新しい風が吹く。

 公粉屋が導入され、石臼が回収されていく。

 「これで暮らしが楽になる」と誰かが言い、けれど家の中は少しずつ、寂しさが増していく。

 パンはだんだんとボソボソになり、父の手は仕事を失い、母もため息をつくことが増える。


 ある日の夕暮れ、家の扉が激しく叩かれる。

 扉の向こうには、やつれきった男――村にいた貧しい男が、血走った目で立っていた。


 「……金を出せ、パンでもいい。くれなきゃ……!」


 突然の恐怖で動けない両親。

 無防備の父に、刃が閃く。母が悲鳴を上げ、少女は声を失いながらも父の元へすがる。

 だが、母が少女を突き飛ばし、もう一度刃が振るわれ、床に赤いものが広がった。


 ――男の腕が、今度は少女に向かって振り上げられる。


 その時――


 「――――――!!!」


 それは音というより、存在を揺さぶる何かだった。

 耳ではなく、魂に直接響き、空間そのものが軋んだような……そんな“叫び”。


 驚いた男が立ち止まり、少女も呆然と顔を上げる。


 その異変に気付いたのか、すぐに近所の人々が駆け込み、男は取り押さえられた。

 救いの声が響く中で、少女は父母の名を呼ぼうとしたが、声はどこにも届かない。

 何度叫ぼうとしても、喉は震えるだけで、ただ「……あー、……うー」と息がこぼれるだけだった。


 温かな記憶と、断ち切られた幸福。

 その光景は、ひやりとした現実の冷たさに切り裂かれた――


* * *


 ライナははっと息を呑み、気づけばクロも静かにその幻を見つめていた。


『……今のが、この子を語れなくした“物語”か』


 ライナは膝に力が入らず、その場にへたり込んだ。

 目の奥に、消えかけた記憶の炎がちらつくようだった。

 あたたかさと、喪失と、叫びたくても声にならない痛み。


 何かが、胸の奥でふっと軋んだ。

 それは少女の記憶ではない。精霊の、もうひとつの想いだった。


 ――気づいてほしい。

 ――助けたい。


 声を持たぬその存在が、どれほど長く、少女のそばで黙って見守ってきたのか。

 伝えられず、伝わらず、それでもなお、ただ傍にいようと願い続けた。

 その苦しみが、クロとライナに確かに届いていた。


 少女はまだ、数歩先に立ち尽くしていた。

 パンを胸に抱えたまま、怯えたようにこちらを見ている。

 だが、その瞳にあるのはただの警戒ではなかった。

 ――心配。

 震える手をそっと差し出すと、少女はわずかにたじろいだ後、手を伸ばした。

 その小さな手は、まだ冷たく、けれどかすかに震えていた。


 ライナは微笑み、かすれた声で言った。

「……大丈夫だよ。少し、座らせてもらえないか?」


 少女は頷くように見えた。あるいは、見えていてほしいと思っただけかもしれない。


 クロはそっとライナの横に寄り添いながら、囁く。

 

『声を失っても、記憶は消えぬ。だが、語りようがない、というのも苦しみなのかもしれない』


 少女はライナの手を引いたまま、路地を折れ、石垣の先にある小さな家へと足を運ぶ。

 戸は木の節が浮き出ており、ひと目で古さが分かる作りだった。

 それでも、窓辺にはきれいな布が掛けられ、小さな植木が風に揺れている。

 少女は戸口で振り返り、ライナをじっと見つめた。


 戸を開けて、ゆっくりと中へと入っていく。

 ライナもそれに続いて中に入ると、ひんやりとした空気と、どこか乾いた麦の香りが迎えてくれた。


 少女は水瓶に近づき、器をそっと手に取る。

 躊躇うように一度だけライナを振り返り、そして、また水瓶に向き直って静かに水を注いだ。

 手にした器を差し出しながら、彼女の瞳がふと揺れる。

 その目は、どこか不安げだった。


 “ただの井戸水だけど、それでもいい?”


 声にならないその問いかけが、確かに伝わってきた。

 ライナは受け取る前に、やさしく微笑み、ひと言だけ返す。


「うん、助かるよ」


 その言葉に、少女の表情が一変する。

 息を呑むように目を見開き、器を握る手が微かに震えた。

 そして、こわばった口元がゆるみ、涙をこらえるように小さく笑った。


『この子の傍には、強く結ばれた精霊がいる。精霊と私を通してなら、心の声が、お前にも届く』

『語れぬ者は、この子だけではない。この精霊もまた、語られることなく、ただ隣にいただけの存在だ』

 クロの声が、そっと風に紛れて響いた。


 しばらくの沈黙のあと、ライナは器を膝に置き、静かに口を開いた。


「……お礼、しなきゃな」


 少女は、首を傾げる。

 ライナはそっと視線を合わせて、優しく笑った。


「何が好き? ……ヘビイチゴとか、好き?」


 その言葉を聞いた瞬間、少女の目が揺れた。

 何かを堪えるように唇が震え、喉元が上下する。

 そして、器を胸に抱えたまま、少女は小さく、だが確かに――首を横に振った。


 その否定に、悲しみはなかった。


 ――“会話ができているだけで嬉しいの”――


 伝わってきたのは、そんな、言葉にもならない喜びだった。

 少女の目に涙があふれ、それが頬を伝い、静かに床へ落ちた。


 嗚咽ではなかった。ただ、静かに、感情が溢れていた。

 あまりにも長く、誰にも届かなかった想い。

 やっと、誰かに触れたことの歓び。


 ライナは、言葉を探さなかった。

 ぽつり、ぽつりと届く意志に、ゆっくりと、確かに返事を返す。


 「うん」

 「わかるよ」

 「大丈夫」


 それだけで十分だった。


 少女の横に、そっと腰を下ろす。

 石床は冷たかったが、ふたりの間に流れる空気は、やわらかくあたたかかった。


 器を手にしたまま、泣き崩れる少女の傍で、ライナはただ静かに、寄り添っていた。

 クロもまた音もなく、そのそばに横たわる。


 声なき語りが、そこには確かにあった。


* * *


 夜の帳が静かに村を包み始めた。

 寝る当てはないと伝えると、少女に案内された納屋は、母屋の脇に寄り添うように建てられていた。

 小さな戸をくぐると、干し草の香りと、乾いた木の匂いがほのかに鼻をくすぐる。


 少女は戸口に立ったまま、ライナの寝場所になりそうな場所を指さすと、ゆっくりと手を振った。

 “おやすみ”の代わりの仕草だった。


 ライナは微笑み、静かに頷いた。


「ありがとう。また明日な」


 少女は小さく頷き、戸をそっと閉めた。

 軋む木の音が夜に吸い込まれていく。


 納屋の中は静かだった。

 干し草の上に体を横たえると、乾いた草の柔らかさが背中を支えた。

 天井には小さな隙間があり、そこから月の光がこぼれている。


 クロが無言のまま、隣に寝そべる。

 その黒い陽炎が、まるでライナの境界を守るかのように、そこにいた。


「……あの子のこと、語れるといいな」


 つぶやきは夜に溶け、返事の代わりにクロの尻尾が一度だけ揺れた。


 目を閉じると、少女の微笑みが浮かぶ。

 言葉にならなかった声、震えながらも伝えようとしてくれた気持ち。

 たったそれだけのことで、誰かの夜が救われることもあるのだと、ライナは思った。


 風がわずかに隙間から吹き込んできて、干し草を優しく揺らす。


 戸のほうに、小さな気配が立った。

 そっと覗くと、少女が木の器を持って、静かに戸口に立っていた。


「……ありがとう。また来てくれたんだ」


 少女は何も言わず、器を差し出す。受け取った水は少しぬるかったが、それがむしろ優しく感じられた。


 飲み終えたライナが、ふと少女に目を向けた。


「……そういえば、まだ名前を聞いてなかったな」

「俺は、ライナ。こいつは、クロ。きみの名前も、できたら知りたい」


 少女は一瞬だけ目を揺らし、俯いた。喉に力を込めようとするが、音は出ない。ただ、胸元に手を置いて、何かを抱くようにぎゅっと握りしめる。


 そのとき、クロが囁いた。


『……この子の傍にいる精霊が、そっと教えてくれた。 その名は“カナエ”。両親が、この子に願いを込めて贈った名前だ』


 ライナは小さく息を呑んだ。そして少女に向かって、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「……“カナエ”って名前なんだね。すごく、きれいな名前だ」


 少女ははっと顔を上げ、目を丸くした。驚きと、喜びと、何かが崩れ落ちそうなほどの感情が、彼女の瞳に溢れていた。そして、器を抱きしめるように胸に当てて、涙を流しながらこくんと頷いた。


 声は出せなくても、その名が確かに彼女のものだということを、 彼女自身が一番深く知っているようだった。


 そして、再び訪れた静けさの中で、ライナはゆっくりと眠りへと落ちていった。


* * *


 声なき者がいても、語られることはある。

 心が震え、涙が落ちたそのとき、世界は耳を傾け始める。


 語ることは、ただ音を並べることではない。

 誰かの存在を信じ、受け止めることだ。


 語られず、語れず、それでもなお――

 声なき民、想いを抱えた精霊、そして少女。

 誰かの手を取ろうとした“語れぬ者たち”の、かすかな光の話だ。


 物語は、すでに静かに始まっている。


 ――第4話 前編 『語れぬ者たち』

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