第2話
……前回は、彼が消えたときのお話だったね。
じゃあ、今回は――そう、彼が……いや、彼らが“戻ってきた”ときの話をしようか。
まだ不確かで、輪郭の定まらない存在だったけれど、それでも確かに、これは“語られ始めた”最初の物語だったんだよ。
* * *
──気配が、戻ってきた。
果てのない白の世界。音もなく、風もない、色さえ曖昧な空間に、微かな“重み”が生まれ始めていた。
ライナは目を閉じたまま、その変化を静かに感じ取っていた。
どこか遠くで、誰かに呼ばれたような気がしたのだ。
やがて、光に似た何かが、闇に滲むようにして現れた。
それは、言葉の形をしていて、同時に、記憶の香りを帯びていて──なにより、あたたかかった。
(……これは……)
指先に、かすかな感触が生まれる。
陽炎のようだった腕が、ゆっくりと輪郭を取り戻し、声なき喉には、かすかな“響き”が宿る。
──ユリア。
その名を、呼ぶ前に思い出した。
彼女が書き記した、兄の姿。声。癖。日々のささやかな風景。
そのひとつひとつの言葉が、彼を再びこの世界に縫いとめていた。
仮初の存在。だが、確かな“在りか”。
ゆっくりと目を開けば、そこには獣がいた。
変わらぬ黒い姿。目はない。だがその気配は、以前よりもどこか柔らかく、まるで安堵に似たものをたたえているようだった。
『……つながったな』
低く、深く、それでいて静かな声が空間に染み渡った。
「……ありがとう。お前が……俺を救ってくれたんだよな」
『違う。救ったのは……お前の妹だ』
獣はしばし黙し、重くゆっくりと続けた。
『記録とは、記憶の代わりだ。だが、書き記された想いは、時に語られる言葉よりも強い。お前は、彼女の手によって“語られた”のだ』
「……あいつが、俺を……覚えててくれた……?」
『“忘れたくない”という祈りは、時に世界そのものよりも強くなる』
その言葉は、静かに、しかし確かに胸に染みた。
夜の静けさの中で、震える指先で書き綴ったであろう文字。
小さなノートに刻まれた、日々の断片。
それが、彼の名を、この世界に繋ぎ止めていた。
思い出しかけていた──いや、思い出せた。
彼女が、どれだけ自分を想っていたかを。
「……あいつは、強いな。俺なんかより、ずっと……」
その呟きに、獣は黙って頷いたように見えた。
けれど、その温もりの陰に、もうひとつの影が立ちのぼる。
カイのことだった。
かつて、背中を預けた親友。その手から、裏切りの一撃を受けた瞬間を──いまなら、はっきりと思い出せる。
心臓を素手で掴まれたような、あの感覚。
激しい怒りではなかった。ただ、悲しかった。
そして、ほんの少しだけ──悔しかった。
「……俺は、もう、誰にも忘れられたくない」
その言葉は、呪いではなかった。
ただの願いだった。祈りに近い、まっすぐな想いだった。
それを聞いた獣が、そっと一歩、近づいて言った。
『ならば、物語を歩め。旅をし、人と出会い、出来事を刻め。お前が語られれば、私もまた、この世界に在り続けることができる』
「……わかった。……一緒に行こう。俺たちは、“共に語られる者”なんだろ?」
ライナが差し出した手に、獣がそっと鼻先を寄せた。
まるで犬のように。けれど、どこまでも陽炎の気配をまとうその姿が、静かに頷いたように感じられた。
「なあ……お前、名前ないんだよな?」
獣は何も言わない。否定も肯定もない、ただの沈黙。
「……名前がないと、呼びにくい。っていうか、語りにくいだろ?」
しばしの沈黙の後、獣がぽつりと応えた。
『呼び名など、久しく持っていなかった。……かつての名も、もう覚えていない』
「だったら、俺がつけていいか?」
その申し出に、獣はまた、静かに頷いた。
ライナはしばらく考え、やがてぽつりと口を開いた。
「……クロ。どうだろう。黒いから、っていうのもあるけど……」
ふっと笑って、続きを付け加える。
「昔、村にいた犬の名前なんだ。優しくて、ちょっと鈍くて、でもいつも誰かのそばにいた」
その名を口にした瞬間、白の空間を満たしていた静寂に、ほんのわずかな変化が起きた。
獣の黒い毛並みが、柔らかく風に撫でられたように揺れる。
『……クロ。悪くない。……いや、いい名だ』
その返答に、ライナは安堵の笑みをこぼした。
「よし、じゃあクロ。これからよろしくな」
そう言ってもう一度手を差し出すと、クロは今度は迷わず、その手に鼻先を寄せた。
そして、白い空間の奥に、ゆっくりと“道”が現れた。
それは光でも影でもなく、記憶でも予感でもない、不確かなものだったが──確かに、前へと続いていた。
「行こう、クロ。俺たちの物語を探しに」
ライナが一歩を踏み出すと、空間に微かな震えが走った。
白かった世界が、少しずつ色を取り戻し始める。空に風が生まれ、大地に重さが宿る。
“語られぬ者”の旅が、今ここに始まった。
* * *
風が吹いていた。
だがそれは、リューン村を取り巻く森の風ではなかった。見知らぬ草の香り、遠くを流れる川の湿気、どこか懐かしい焼きたての香りがまじる、知らない土地の風だった。
ライナはゆっくりと足元の感触を確かめる。見知らぬ街道。遠くには低い丘が連なり、朝の光の下、まだ名も知らぬ小さな村がぽつんと広がっている。
「……ここは……どこだ?」
ライナは、まだ仮初の身体のまま、慎重に辺りを見渡した。輪郭こそは戻っているが、その体には薄もやのような揺らぎがあり、まだ完全にこの世界に定着していないことを示していた。
隣には、静かにクロが立っていた。
『ここは……かつて、私が語られた名残が残る土地だ』
「お前が……語られていた?」
『あまり長くは続かなかった。誰かが私を語りかけ、名を与えかけて、そして──忘れた』
その声に、どこか寂しさが滲んでいた。
『だが今、お前が私を“クロ”と呼んだ。それが、私をこの地に呼び戻した。おそらく、お前の存在が定着した瞬間に、私の断片も引き寄せられたのだろう』
ライナは静かに頷いた。
「つまり、ここは……お前の物語の地であり、俺たちの旅の第一歩ってことか」
クロはただ、街道の先を見つめていた。
クロの声は、以前よりも幾分はっきりしていた。まるで、音が形を持ち始めているかのように。
『妹の綴った言葉が、お前をこの世界へと再び繋ぎとめた。だが、全てを戻すにはまだ足りない』
「……ユリアが……」
ぼんやりと浮かぶ笑顔。泣きべそをかいた時に、よく見せていた顔。
ほんの少しだけ、それが鮮やかに思い出せた。
「……ありがとう」
それは、ユリアに対してなのか、クロに対してなのか、自分でもよくわからなかった。
ライナは、自分の腕を見る。仮初の身体は淡く光っていた。輪郭ははっきりしないが、かろうじて“人の形”を保っていた。
「……まだ、ちゃんとは存在してないんだな」
『そうだ。お前は“半分語られた存在”にすぎない』
『だが、その一歩が大きい。次にすべきは、“誰かに見られること”、“語られること”だ』
クロの陽炎がわずかに揺れた。
『だから、お前は旅をする。私と共に。物語として、語られるべき出来事を、自ら作るのだ』
「旅……」
その響きに、ライナの胸が微かに波打った。
戻る場所がないのなら、前に進むしかない。名もない影に連れられてでも、自分をこの世界に留めるために――
「……わかった。行こう、クロ」
ライナの口から発せられたその音は、クロの中にじんわりと染み渡っていくように感じられた。
そう思ったのもつかの間。風に乗って、パンの香りが鼻先をくすぐる。
「……パンの匂い?」
不意に、腹が鳴った。
「……おかしいな。俺、そんなにパン、好きだったっけ」
なんとなく、昔は麦粥のほうが好きだった気がする。ほろほろに煮えたやつに、干し果実をちょっとだけ混ぜるのが好きだった。
でも今、そういう“好み”が、ぼんやりと霞んでいく気がする。
パンの記憶だけが、妙にあたたかく、はっきりと残っている。
言いながら、自分の言葉に思い当たる節があった。
(……ユリア……)
妹のノート。彼女が記した「兄の好きなもの」のひとつに──きっと、パンのことが書かれていたのだろう。
「外はカリカリで、中がふわふわ……だっけか」
呟いた声に、クロが振り返る。
『語られた記憶は、お前の一部になる。たとえ、それが実際の好みでなかったとしても、記され、語られたことは、この世界の“お前”を形作る』
「……なるほど」
ライナはどこか納得したようにうなずき、再び空を仰いだ。
風が心地よかった。
けれど、今の彼には、進む理由があった。
忘れられないために。誰かに語られるために。
そして、ユリアが繋いでくれたこの命を、物語にするために。
「……行こう、クロ」
彼の声に応えるように、獣が一歩、隣に並んだ。
旅の先に何があるのかは、まだ分からない。
けれど、それでもかまわなかった。
これは、“語られる者”の、最初の旅なのだから。
* * *
目に映るのは、どこまでも続く街道と、点々と咲く野の花。
旅の始まりにしては、あまりに静かで、そしてどこか心細かった。
「……やっぱり、パンが食べたい」
それは空腹からだけではなかった。
ユリアのノートに綴られていた“兄さんの好きなもの”──その記述が、彼の中の欲求となって形を成していた。
クロが首をかしげている。
匂いは感じているのだろうが、あまり食に関心はないらしい。
「お前も、名前を得たんだ。そろそろ人の営みに触れてみたくないか?」
クロは黙ってライナの隣を歩き続けた。それが彼なりの肯定だった。
ふと、ライナが冗談めかして問いかける。
「……そういえば、もしお前が人前で喋ったら、みんな驚くかもな。」
クロの陽炎がわずかに揺れた。その気配が、微かに笑ったように感じられる。
『心配いらない。私の声は、伝えたい者にしか届かないのだ。人はただの風の音や、気配としてしか受け取れないだろう。お前のように“物語に結ばれた者”だけが、この声を聴ける。』
静かに、しかし確かに伝わるその声は、ライナの心にだけ響いていた。
もう少し進むと、道の先に木造の家並みが近づいてきた。
小さな集落──街とも村ともつかない、小さな人の営みが、そこで息づいていた。
子どもたちの笑い声、大人たちの談笑、パンを焼く甘い匂い――そこに混じって、ごくかすかに「歌声」の響きがあった。
広場の一角で、旅人がリュートを爪弾いているのが見える。まだ誰も注目していないが、その視線は、村のざわめき越しにちらりとライナたちを見たような気がした。
だが、ライナは近づけなかった。
──自分は、まだ“誰にも知られていない存在”だ。
この身体はユリアの記憶に縫いとめられたもの。けれど、それはリューン村という限られた土地でのこと。
ここにいる誰一人として、自分の名前を知らない。
だから、触れられない。見てもらえない。声をかけても、返事は返ってこないだろう。
ライナは集落の前で立ち止まり、遠くからパンを眺めた。
焼き色は黄金色で、外はかりっと香ばしく、中はふわりと膨らんでいるようだった。
まるでユリアがノートに描いたとおりだった。
「……食べたいなあ」
ただ、そう呟くことしかできなかった。
そのときだ。
突然、背後から甲高い声が飛んできた。
「やっぱりゴブリンが来たんだ! だから言ったのに、誰も信じてくれないんだ!」
駆けてきたのは、一人の少年だった。十歳ほどだろうか。
痩せぎすの体にくたびれた服を着て、目をぎょろつかせながら町の広場に飛び込んできた。
「見たんだってば! 森のそばに、耳がとがってて、顔が緑色で、歯がギザギザしてて、ナイフ持ってて!」
少年の訴えに、大人たちは眉をひそめ、顔を見合わせる。
一部の者は笑い、槍を持った男はふぅとため息をついた。
「またあの子か……」「ほら、前にも言ってたろ?」「狼少年だよ」
「今度はゴブリンか。先週はドラゴンじゃなかったか?」
少年は、誰にも信じてもらえなかった。
それでも、彼は必死だった。
真っ赤な顔で叫び続ける。信じてもらえないままでも──村を守ろうとしていた。
(……あれは、俺だ)
ライナの胸の奥に、何かが疼いた。
誰にも見られず、語られず、消えかけた自分。
妹のために立ち上がった、あの森の中での記憶。
──この少年は、自分のように“誰かのために立とうとしている”。
ふと、少年が地面から何かを拾い上げた。
──それは、錆びたシャベルだった。
「誰も来ないなら、僕ひとりでもやる!」
「もし本当にゴブリンが来てたら、みんなやられちゃうんだぞ!」
「……だったら、僕が止める!」
震える手で、シャベルを構える。
誰もが笑っていた。
けれど、その姿だけは、ライナには滑稽になど見えなかった。
(今の俺が、手伝えることは……あるのか?)
けれど、声は届かない。
姿も、誰の目にも映らない。
そう──彼は、まだ“語られていない”。
この土地の誰一人として、彼の存在を知らない。
だが、そのときだった。
少年が、震えながらシャベルを構え、集落の外へ出たその時。
「……!」
獣が動いた。
クロが、音もなく少年の方へと近づいた。
(……待て、クロ。お前は……)
止める間もなく、クロは少年の前に立ちはだかった。
少年は、目を見張った。
「お、お前……なんだよ……!」
しかし、驚くべきことが起こった。
少年の目にクロが映っていたのだ。
──語られた。
ライナは確信した。
今、この瞬間、この少年が「見た」と思ったことで、クロは彼の中で物語になった。
ならば、自分にもできる。
ライナは、クロの隣に立った。
無言で、集落の外に打ち捨てられていた錆びた鍬を拾い上げる。
──妹のノートには、こう書かれていた。
“お兄ちゃんは、畑では無言で鍬を振るってる”
そう、それが“語られた”姿。
少年が、目を丸くした。
「……誰?」
かすかに、かすかに、声が届いた気がした。
少年は唇を噛みしめ、涙をこらえるように顔を伏せた。
ライナは、その様子を黙って見つめていた。
(……嘘をついてる顔じゃない)
目に浮かぶ焦りと恐れ、必死さは、本物だった。
「ねえ、あんた。旅人なんでしょ?」
唐突に、少年がライナに駆け寄ってきた。
その目はまっすぐだった。迷いもなければ、人見知りの色もない。
「ゴブリン、探すの手伝ってくれない? 本当にいるんだ。誰も信じてくれないけど……あれ、村に来たらきっと大変なことになる」
周囲の大人たちはまた笑った。だが、ライナは少年の言葉を無視しなかった。
「……どこで見た?」
たったそれだけの問いかけに、少年の目がぱっと見開かれた。
「来てくれるの!? 本当に!?」
ライナは頷いた。別に大した理由はなかった。ただ、彼の目が、“信じたいと願っている者の目”だったから。
少年の名はレトというらしい。
彼の案内で村外れの林へと向かう道すがら、クロが陽炎のまま囁いた。
『嘘から始まった物語が、時として真実を生む』
『人が信じ、語り継ぐことで、それは現実になる。今、この子どもが語っているものも──』
ライナは黙ってその言葉を受けとめた。
* * *
まだ夏には遠いはずの空が、どこか湿り気を帯びていた。雲が重たく垂れ、木々の間を抜ける風が、ほんの少しだけ生温い。
レトは足早に先を行く。右手には、昼と同じ錆びたシャベル。まるで剣のように、何度も何度も振るう真似をしていた。
「ほんとにいたんだよ。最初は物陰で音がして、枝が折れるような……それから──見たんだ、黄色い目と、緑の皮膚。あれは絶対に、ゴブリンだった!」
その語り口は、最初の一言から最後まで一貫して真剣だった。芝居がかったところはなかった。
ライナは黙って頷きながら、少年の後ろを歩く。
そしてその少し後ろには、闇に溶けたクロが、音もなくついていた。
やがて林の奥、低い草が生い茂る斜面にたどり着く。
「ここ。ここで見たんだ。あそこ、あの根っこのところ……」
レトが指差した瞬間だった。
――草の影が動いた。
ごそり、という音。明確な質量を持った何かが、こちらを覗いている。
「……隠れてろ」
ライナが低く言った。
その声は小さく、けれど確かな“重み”を持っていた。
レトは反射的に息を呑み、茂みの後ろへと身を隠す。
草をかき分ける音が、徐々に近づく。
──現れたのは、二体のゴブリンだった。
身の丈は大人の腰ほど。だが筋肉は意外に発達しており、鉄片のような粗末なナイフを握っている。赤く濁った目が、薄暗がりの中に光っていた。
ライナは、その姿を前にしても動かなかった。
何の武器もない。ただ、農夫の手に馴染む一本の鍬を背負っているだけ。
「……来るな」
それ以上、声に出すことはなかった。
そのかわり、彼は静かに鍬を握った。
――その姿を、レトは見ていた。
口を開かず、ただ一歩前に出て、構える。
それは、まさしく“守る者”の姿だった。
ユリアのノートに書かれた兄の像──
『いつも、私を守ってくれる。言葉じゃなくて、背中を見せて、何かから庇ってくれる』
その記録がいま、ライナの姿を形作っていた。
ゴブリンが、声もなく飛びかかる。
その瞬間、ライナの鍬が、音もなく風を裂いた。
横薙ぎ一閃。
狙い澄ました軌道が、ゴブリンの肩を打ち砕く。骨が砕け、短い悲鳴があがった。
もう一体が戸惑い、足を止めた。その隙に、クロが立ち上る陽炎のように現れ、咆哮すらあげずに獣の足で距離を詰める。
牙を剥かず、ただ“存在”だけで、恐怖を与える。
ゴブリンは怯え、後退りし、次の瞬間には──森の奥へと逃げていった。
静寂が戻る。木々は黙して語らず。
レトは呆然としたまま、しばらく動けなかった。
ライナは、静かに鍬を背中に戻した。
返り血ひとつ浴びていないその刃が、逆にこの一撃がどれほど正確だったかを物語っていた。
クロもまた、音もなく彼の隣へと戻る。
その漆黒の毛並みは風にゆらめき、獣でありながらも、どこか影法師のように輪郭を揺らがせていた。
「……すげえ」
ぽつりとこぼれたのは、少年レトの声だった。
目は見開かれ、口元は言葉の続きが見つからないまま半開きになっていた。
それでも、何かが彼の中で確かに変わっていた。ライナには、それが分かった。
「本当に……鍬で、あいつらを……倒したんだ……」
レトは息を呑むようにして、もう一歩だけ近づいた。
その足取りはまだ震えていたが、心には小さな火が灯りはじめていた。
「ありがとう……あんたの名前、教えてよ。俺、絶対忘れない」
その言葉に、ライナは少しだけ目を伏せた。
彼の名前は──誰にも“知られていない”。
けれど、今、この少年の言葉は、確かにその名を“呼ぼう”としていた。
「……ライナと、クロだ」
名乗った瞬間、風が草を揺らした。
誰かに“名を呼ばれる”ことが、これほどあたたかいものだとは思わなかった。
「……ライナ……クロ……うん。かっこいい名前だな!」
レトがそう言って笑ったその時だった。
木立の影から、ふいに一組の拍手が聞こえた。
「……やれやれ、まるで古の英雄譚ですね」
現れたのは、旅衣に身を包んだ青年だった。
細く整えられた眉、編み込まれた長髪、背には磨き上げられた弦楽器。
その装いは、まぎれもない──吟遊詩人のものだった。
「立ち合いの名乗りもせず、鍬ひとつで魔物を退けるとは。これは面白い歌になりそうだ」
青年はにこやかに歩み寄り、軽く一礼をした。
「私の名はフィエノル。吟遊詩人の末裔にして、語りの系譜を継ぐ者」
その名に、クロがわずかに動いた。
『……フィエノル、か。懐かしい名だ。』
「おや? 覚えがあると?」
『遠い昔──フィエノルという者が、私を語った。語られぬまま失われそうだった私の存在を、言葉で繋ぎとめてくれた詩人だ』
その言葉に、フィエノルの表情がわずかに驚きに染まる。だが、すぐに柔らかく笑った。
「それなら、なおのこと。私にも語らせてほしい。あなたたちの物語を」
ライナは驚きながらも、ふっと目を伏せる。
「……語られて、いいのかな。俺は、まだ形も、心も、仮のままなのに……」
「それでいい。物語とは、常に未完成なものです。語られることで、少しずつ輪郭が定まり、やがて“在る”ものとなる」
その言葉は、どこかクロの言葉と重なっていた。
「私の祖父も言っていたました。“誰かが語る限り、物語は死なない。語られぬ者こそ、真の消失だ”と」
ライナは、ゆっくりと息を吐いた。
その呼吸の先に、レトのまっすぐな視線があった。
「俺……もっと強くなるよ。誰かを守るって、かっこいいんだなって、今日初めて思ったんだ」
その言葉は、照れ隠しでも、憧れだけでもなかった。
レトという少年の心に、ほんの小さな“核”が生まれた瞬間だった。
そしてその夜、タリアの丘に吹いた風は、誰も知らなかったはずの名を運んだ。
──語られる者、ライナ。
その名前が、風のひとひらとなって、この地に染み込んでいく。
* * *
レトは、鍬を振るう旅人と黒い獣のことをずっと心に刻んだ。
時が流れ、大人になった彼は「国一番の騎士」と呼ばれるようになる。その名声の陰で、彼はいつも「鍬を持つ旅人、ライナ」と「クロ」という獣の話を、若い兵士たちに語ってきかせた――
「本当に怖いのは、敵の強さじゃない。自分が何のために戦うか、それが分からなくなることだ」と。
――そしてまた、吟遊詩人はどこかの村でリュートを爪弾きながら、物語を語り始める。
「……私たちが語るのをやめた時、消えてしまったものがある。
だから私は、どんなささいな出来事でも、必ず歌にして残すんだ。」
必ず、そんな言葉を枕とし。
* * *
この物語は、村人や吟遊詩人の歌となり、遠い未来へも語り継がれていく。
それはまだ、はじまりの一歩にすぎない。
けれど確かに、ここから──“彼らの旅”が始まったのだ。
次に語られるのは、名もなき風が運んだ出会いの話かもしれない。
あるいは、記されぬまま散った誰かの記憶かもしれない。
けれどそのすべてが、物語になる。
“語られぬ者”が、“語られる者”になるための──終わりなき旅の途上で。
――第2話『語られし者』