表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/11

第2話

 ……前回は、彼が消えたときのお話だったね。

 じゃあ、今回は――そう、彼が……いや、彼らが“戻ってきた”ときの話をしようか。

 まだ不確かで、輪郭の定まらない存在だったけれど、それでも確かに、これは“語られ始めた”最初の物語だったんだよ。


* * *


 ──気配が、戻ってきた。


 果てのない白の世界。音もなく、風もない、色さえ曖昧な空間に、微かな“重み”が生まれ始めていた。


 ライナは目を閉じたまま、その変化を静かに感じ取っていた。

 どこか遠くで、誰かに呼ばれたような気がしたのだ。


 やがて、光に似た何かが、闇に滲むようにして現れた。

 それは、言葉の形をしていて、同時に、記憶の香りを帯びていて──なにより、あたたかかった。


 (……これは……)


 指先に、かすかな感触が生まれる。

 陽炎のようだった腕が、ゆっくりと輪郭を取り戻し、声なき喉には、かすかな“響き”が宿る。


 ──ユリア。


 その名を、呼ぶ前に思い出した。

 彼女が書き記した、兄の姿。声。癖。日々のささやかな風景。

 そのひとつひとつの言葉が、彼を再びこの世界に縫いとめていた。


 仮初の存在。だが、確かな“在りか”。


 ゆっくりと目を開けば、そこには獣がいた。


 変わらぬ黒い姿。目はない。だがその気配は、以前よりもどこか柔らかく、まるで安堵に似たものをたたえているようだった。


『……つながったな』


 低く、深く、それでいて静かな声が空間に染み渡った。


「……ありがとう。お前が……俺を救ってくれたんだよな」


『違う。救ったのは……お前の妹だ』


 獣はしばし黙し、重くゆっくりと続けた。


『記録とは、記憶の代わりだ。だが、書き記された想いは、時に語られる言葉よりも強い。お前は、彼女の手によって“語られた”のだ』


「……あいつが、俺を……覚えててくれた……?」


『“忘れたくない”という祈りは、時に世界そのものよりも強くなる』


 その言葉は、静かに、しかし確かに胸に染みた。


 夜の静けさの中で、震える指先で書き綴ったであろう文字。

 小さなノートに刻まれた、日々の断片。

 それが、彼の名を、この世界に繋ぎ止めていた。


 思い出しかけていた──いや、思い出せた。

 彼女が、どれだけ自分を想っていたかを。


「……あいつは、強いな。俺なんかより、ずっと……」


 その呟きに、獣は黙って頷いたように見えた。


 けれど、その温もりの陰に、もうひとつの影が立ちのぼる。


 カイのことだった。


 かつて、背中を預けた親友。その手から、裏切りの一撃を受けた瞬間を──いまなら、はっきりと思い出せる。


 心臓を素手で掴まれたような、あの感覚。

 激しい怒りではなかった。ただ、悲しかった。

 そして、ほんの少しだけ──悔しかった。


「……俺は、もう、誰にも忘れられたくない」


 その言葉は、呪いではなかった。

 ただの願いだった。祈りに近い、まっすぐな想いだった。


 それを聞いた獣が、そっと一歩、近づいて言った。


『ならば、物語を歩め。旅をし、人と出会い、出来事を刻め。お前が語られれば、私もまた、この世界に在り続けることができる』


「……わかった。……一緒に行こう。俺たちは、“共に語られる者”なんだろ?」


 ライナが差し出した手に、獣がそっと鼻先を寄せた。

 まるで犬のように。けれど、どこまでも陽炎の気配をまとうその姿が、静かに頷いたように感じられた。


「なあ……お前、名前ないんだよな?」


 獣は何も言わない。否定も肯定もない、ただの沈黙。


「……名前がないと、呼びにくい。っていうか、語りにくいだろ?」


 しばしの沈黙の後、獣がぽつりと応えた。


『呼び名など、久しく持っていなかった。……かつての名も、もう覚えていない』


「だったら、俺がつけていいか?」


 その申し出に、獣はまた、静かに頷いた。


 ライナはしばらく考え、やがてぽつりと口を開いた。


 「……クロ。どうだろう。黒いから、っていうのもあるけど……」


 ふっと笑って、続きを付け加える。


 「昔、村にいた犬の名前なんだ。優しくて、ちょっと鈍くて、でもいつも誰かのそばにいた」


 その名を口にした瞬間、白の空間を満たしていた静寂に、ほんのわずかな変化が起きた。


 獣の黒い毛並みが、柔らかく風に撫でられたように揺れる。


 『……クロ。悪くない。……いや、いい名だ』


 その返答に、ライナは安堵の笑みをこぼした。


 「よし、じゃあクロ。これからよろしくな」


 そう言ってもう一度手を差し出すと、クロは今度は迷わず、その手に鼻先を寄せた。


 そして、白い空間の奥に、ゆっくりと“道”が現れた。

 それは光でも影でもなく、記憶でも予感でもない、不確かなものだったが──確かに、前へと続いていた。


 「行こう、クロ。俺たちの物語を探しに」


 ライナが一歩を踏み出すと、空間に微かな震えが走った。

 白かった世界が、少しずつ色を取り戻し始める。空に風が生まれ、大地に重さが宿る。


 “語られぬ者”の旅が、今ここに始まった。


* * *


 風が吹いていた。

 だがそれは、リューン村を取り巻く森の風ではなかった。見知らぬ草の香り、遠くを流れる川の湿気、どこか懐かしい焼きたての香りがまじる、知らない土地の風だった。


 ライナはゆっくりと足元の感触を確かめる。見知らぬ街道。遠くには低い丘が連なり、朝の光の下、まだ名も知らぬ小さな村がぽつんと広がっている。


 「……ここは……どこだ?」


 ライナは、まだ仮初の身体のまま、慎重に辺りを見渡した。輪郭こそは戻っているが、その体には薄もやのような揺らぎがあり、まだ完全にこの世界に定着していないことを示していた。


 隣には、静かにクロが立っていた。


 『ここは……かつて、私が語られた名残が残る土地だ』


 「お前が……語られていた?」


 『あまり長くは続かなかった。誰かが私を語りかけ、名を与えかけて、そして──忘れた』


 その声に、どこか寂しさが滲んでいた。


 『だが今、お前が私を“クロ”と呼んだ。それが、私をこの地に呼び戻した。おそらく、お前の存在が定着した瞬間に、私の断片も引き寄せられたのだろう』


 ライナは静かに頷いた。


 「つまり、ここは……お前の物語の地であり、俺たちの旅の第一歩ってことか」


 クロはただ、街道の先を見つめていた。


 クロの声は、以前よりも幾分はっきりしていた。まるで、音が形を持ち始めているかのように。


 『妹の綴った言葉が、お前をこの世界へと再び繋ぎとめた。だが、全てを戻すにはまだ足りない』


 「……ユリアが……」


 ぼんやりと浮かぶ笑顔。泣きべそをかいた時に、よく見せていた顔。


 ほんの少しだけ、それが鮮やかに思い出せた。


 「……ありがとう」


 それは、ユリアに対してなのか、クロに対してなのか、自分でもよくわからなかった。


 ライナは、自分の腕を見る。仮初の身体は淡く光っていた。輪郭ははっきりしないが、かろうじて“人の形”を保っていた。


 「……まだ、ちゃんとは存在してないんだな」


 『そうだ。お前は“半分語られた存在”にすぎない』


 『だが、その一歩が大きい。次にすべきは、“誰かに見られること”、“語られること”だ』


 クロの陽炎がわずかに揺れた。


 『だから、お前は旅をする。私と共に。物語として、語られるべき出来事を、自ら作るのだ』


 「旅……」


 その響きに、ライナの胸が微かに波打った。


 戻る場所がないのなら、前に進むしかない。名もない影に連れられてでも、自分をこの世界に留めるために――


 「……わかった。行こう、クロ」


 ライナの口から発せられたその音は、クロの中にじんわりと染み渡っていくように感じられた。

 

 そう思ったのもつかの間。風に乗って、パンの香りが鼻先をくすぐる。


 「……パンの匂い?」


 不意に、腹が鳴った。


 「……おかしいな。俺、そんなにパン、好きだったっけ」


 なんとなく、昔は麦粥のほうが好きだった気がする。ほろほろに煮えたやつに、干し果実をちょっとだけ混ぜるのが好きだった。


 でも今、そういう“好み”が、ぼんやりと霞んでいく気がする。

 パンの記憶だけが、妙にあたたかく、はっきりと残っている。


 言いながら、自分の言葉に思い当たる節があった。


 (……ユリア……)


 妹のノート。彼女が記した「兄の好きなもの」のひとつに──きっと、パンのことが書かれていたのだろう。


 「外はカリカリで、中がふわふわ……だっけか」


 呟いた声に、クロが振り返る。


 『語られた記憶は、お前の一部になる。たとえ、それが実際の好みでなかったとしても、記され、語られたことは、この世界の“お前”を形作る』


 「……なるほど」


 ライナはどこか納得したようにうなずき、再び空を仰いだ。


 風が心地よかった。

 けれど、今の彼には、進む理由があった。

 忘れられないために。誰かに語られるために。

 そして、ユリアが繋いでくれたこの命を、物語にするために。


 「……行こう、クロ」


 彼の声に応えるように、獣が一歩、隣に並んだ。


 旅の先に何があるのかは、まだ分からない。

 けれど、それでもかまわなかった。


 これは、“語られる者”の、最初の旅なのだから。


* * *


 目に映るのは、どこまでも続く街道と、点々と咲く野の花。

 旅の始まりにしては、あまりに静かで、そしてどこか心細かった。


 「……やっぱり、パンが食べたい」


 それは空腹からだけではなかった。

 ユリアのノートに綴られていた“兄さんの好きなもの”──その記述が、彼の中の欲求となって形を成していた。


 クロが首をかしげている。

 匂いは感じているのだろうが、あまり食に関心はないらしい。


 「お前も、名前を得たんだ。そろそろ人の営みに触れてみたくないか?」


 クロは黙ってライナの隣を歩き続けた。それが彼なりの肯定だった。


 ふと、ライナが冗談めかして問いかける。


 「……そういえば、もしお前が人前で喋ったら、みんな驚くかもな。」


 クロの陽炎がわずかに揺れた。その気配が、微かに笑ったように感じられる。


 『心配いらない。私の声は、伝えたい者にしか届かないのだ。人はただの風の音や、気配としてしか受け取れないだろう。お前のように“物語に結ばれた者”だけが、この声を聴ける。』


 静かに、しかし確かに伝わるその声は、ライナの心にだけ響いていた。


 もう少し進むと、道の先に木造の家並みが近づいてきた。

 小さな集落──街とも村ともつかない、小さな人の営みが、そこで息づいていた。


 子どもたちの笑い声、大人たちの談笑、パンを焼く甘い匂い――そこに混じって、ごくかすかに「歌声」の響きがあった。

 広場の一角で、旅人がリュートを爪弾いているのが見える。まだ誰も注目していないが、その視線は、村のざわめき越しにちらりとライナたちを見たような気がした。


 だが、ライナは近づけなかった。


 ──自分は、まだ“誰にも知られていない存在”だ。


 この身体はユリアの記憶に縫いとめられたもの。けれど、それはリューン村という限られた土地でのこと。

 ここにいる誰一人として、自分の名前を知らない。

 だから、触れられない。見てもらえない。声をかけても、返事は返ってこないだろう。


 ライナは集落の前で立ち止まり、遠くからパンを眺めた。

 焼き色は黄金色で、外はかりっと香ばしく、中はふわりと膨らんでいるようだった。

 まるでユリアがノートに描いたとおりだった。


 「……食べたいなあ」


 ただ、そう呟くことしかできなかった。


 そのときだ。

 突然、背後から甲高い声が飛んできた。


「やっぱりゴブリンが来たんだ! だから言ったのに、誰も信じてくれないんだ!」


 駆けてきたのは、一人の少年だった。十歳ほどだろうか。

 痩せぎすの体にくたびれた服を着て、目をぎょろつかせながら町の広場に飛び込んできた。


「見たんだってば! 森のそばに、耳がとがってて、顔が緑色で、歯がギザギザしてて、ナイフ持ってて!」


 少年の訴えに、大人たちは眉をひそめ、顔を見合わせる。

 一部の者は笑い、槍を持った男はふぅとため息をついた。


「またあの子か……」「ほら、前にも言ってたろ?」「狼少年だよ」

「今度はゴブリンか。先週はドラゴンじゃなかったか?」


 少年は、誰にも信じてもらえなかった。


 それでも、彼は必死だった。

 真っ赤な顔で叫び続ける。信じてもらえないままでも──村を守ろうとしていた。


 (……あれは、俺だ)


 ライナの胸の奥に、何かが疼いた。

 誰にも見られず、語られず、消えかけた自分。

 妹のために立ち上がった、あの森の中での記憶。


 ──この少年は、自分のように“誰かのために立とうとしている”。


 ふと、少年が地面から何かを拾い上げた。

 ──それは、錆びたシャベルだった。


 「誰も来ないなら、僕ひとりでもやる!」

 「もし本当にゴブリンが来てたら、みんなやられちゃうんだぞ!」

 「……だったら、僕が止める!」


 震える手で、シャベルを構える。


 誰もが笑っていた。

 けれど、その姿だけは、ライナには滑稽になど見えなかった。


 (今の俺が、手伝えることは……あるのか?)


 けれど、声は届かない。

 姿も、誰の目にも映らない。


 そう──彼は、まだ“語られていない”。

 この土地の誰一人として、彼の存在を知らない。


 だが、そのときだった。


 少年が、震えながらシャベルを構え、集落の外へ出たその時。


 「……!」


 獣が動いた。

 クロが、音もなく少年の方へと近づいた。


 (……待て、クロ。お前は……)


 止める間もなく、クロは少年の前に立ちはだかった。


 少年は、目を見張った。


「お、お前……なんだよ……!」


 しかし、驚くべきことが起こった。


 少年の目にクロが映っていたのだ。


 ──語られた。


 ライナは確信した。

 今、この瞬間、この少年が「見た」と思ったことで、クロは彼の中で物語になった。


 ならば、自分にもできる。


 ライナは、クロの隣に立った。

 無言で、集落の外に打ち捨てられていた錆びた鍬を拾い上げる。


 ──妹のノートには、こう書かれていた。


 “お兄ちゃんは、畑では無言で鍬を振るってる”


 そう、それが“語られた”姿。


 少年が、目を丸くした。


「……誰?」


 かすかに、かすかに、声が届いた気がした。

 少年は唇を噛みしめ、涙をこらえるように顔を伏せた。


 ライナは、その様子を黙って見つめていた。


 (……嘘をついてる顔じゃない)


 目に浮かぶ焦りと恐れ、必死さは、本物だった。


 「ねえ、あんた。旅人なんでしょ?」


 唐突に、少年がライナに駆け寄ってきた。


 その目はまっすぐだった。迷いもなければ、人見知りの色もない。


 「ゴブリン、探すの手伝ってくれない? 本当にいるんだ。誰も信じてくれないけど……あれ、村に来たらきっと大変なことになる」


 周囲の大人たちはまた笑った。だが、ライナは少年の言葉を無視しなかった。


 「……どこで見た?」


 たったそれだけの問いかけに、少年の目がぱっと見開かれた。


 「来てくれるの!? 本当に!?」


 ライナは頷いた。別に大した理由はなかった。ただ、彼の目が、“信じたいと願っている者の目”だったから。


 少年の名はレトというらしい。


 彼の案内で村外れの林へと向かう道すがら、クロが陽炎のまま囁いた。


 『嘘から始まった物語が、時として真実を生む』


 『人が信じ、語り継ぐことで、それは現実になる。今、この子どもが語っているものも──』


 ライナは黙ってその言葉を受けとめた。


* * *


 まだ夏には遠いはずの空が、どこか湿り気を帯びていた。雲が重たく垂れ、木々の間を抜ける風が、ほんの少しだけ生温い。


 レトは足早に先を行く。右手には、昼と同じ錆びたシャベル。まるで剣のように、何度も何度も振るう真似をしていた。


「ほんとにいたんだよ。最初は物陰で音がして、枝が折れるような……それから──見たんだ、黄色い目と、緑の皮膚。あれは絶対に、ゴブリンだった!」


 その語り口は、最初の一言から最後まで一貫して真剣だった。芝居がかったところはなかった。


 ライナは黙って頷きながら、少年の後ろを歩く。


 そしてその少し後ろには、闇に溶けたクロが、音もなくついていた。


 やがて林の奥、低い草が生い茂る斜面にたどり着く。


「ここ。ここで見たんだ。あそこ、あの根っこのところ……」


 レトが指差した瞬間だった。


 ――草の影が動いた。


 ごそり、という音。明確な質量を持った何かが、こちらを覗いている。


 「……隠れてろ」


 ライナが低く言った。


 その声は小さく、けれど確かな“重み”を持っていた。


 レトは反射的に息を呑み、茂みの後ろへと身を隠す。


 草をかき分ける音が、徐々に近づく。


 ──現れたのは、二体のゴブリンだった。


 身の丈は大人の腰ほど。だが筋肉は意外に発達しており、鉄片のような粗末なナイフを握っている。赤く濁った目が、薄暗がりの中に光っていた。


 ライナは、その姿を前にしても動かなかった。


 何の武器もない。ただ、農夫の手に馴染む一本の鍬を背負っているだけ。


 「……来るな」


 それ以上、声に出すことはなかった。


 そのかわり、彼は静かに鍬を握った。


 ――その姿を、レトは見ていた。


 口を開かず、ただ一歩前に出て、構える。


 それは、まさしく“守る者”の姿だった。


 ユリアのノートに書かれた兄の像──


 『いつも、私を守ってくれる。言葉じゃなくて、背中を見せて、何かから庇ってくれる』


 その記録がいま、ライナの姿を形作っていた。


 ゴブリンが、声もなく飛びかかる。


 その瞬間、ライナの鍬が、音もなく風を裂いた。


 横薙ぎ一閃。


 狙い澄ました軌道が、ゴブリンの肩を打ち砕く。骨が砕け、短い悲鳴があがった。


 もう一体が戸惑い、足を止めた。その隙に、クロが立ち上る陽炎のように現れ、咆哮すらあげずに獣の足で距離を詰める。


 牙を剥かず、ただ“存在”だけで、恐怖を与える。


 ゴブリンは怯え、後退りし、次の瞬間には──森の奥へと逃げていった。


 静寂が戻る。木々は黙して語らず。


 レトは呆然としたまま、しばらく動けなかった。


 ライナは、静かに鍬を背中に戻した。

 返り血ひとつ浴びていないその刃が、逆にこの一撃がどれほど正確だったかを物語っていた。


 クロもまた、音もなく彼の隣へと戻る。

 その漆黒の毛並みは風にゆらめき、獣でありながらも、どこか影法師のように輪郭を揺らがせていた。


「……すげえ」


 ぽつりとこぼれたのは、少年レトの声だった。

 目は見開かれ、口元は言葉の続きが見つからないまま半開きになっていた。

 それでも、何かが彼の中で確かに変わっていた。ライナには、それが分かった。


「本当に……鍬で、あいつらを……倒したんだ……」


 レトは息を呑むようにして、もう一歩だけ近づいた。

 その足取りはまだ震えていたが、心には小さな火が灯りはじめていた。


「ありがとう……あんたの名前、教えてよ。俺、絶対忘れない」


 その言葉に、ライナは少しだけ目を伏せた。

 彼の名前は──誰にも“知られていない”。

 けれど、今、この少年の言葉は、確かにその名を“呼ぼう”としていた。


「……ライナと、クロだ」


 名乗った瞬間、風が草を揺らした。

 誰かに“名を呼ばれる”ことが、これほどあたたかいものだとは思わなかった。


「……ライナ……クロ……うん。かっこいい名前だな!」


 レトがそう言って笑ったその時だった。

 木立の影から、ふいに一組の拍手が聞こえた。


「……やれやれ、まるで古の英雄譚ですね」


 現れたのは、旅衣に身を包んだ青年だった。

 細く整えられた眉、編み込まれた長髪、背には磨き上げられた弦楽器。

 その装いは、まぎれもない──吟遊詩人のものだった。


「立ち合いの名乗りもせず、鍬ひとつで魔物を退けるとは。これは面白い歌になりそうだ」


 青年はにこやかに歩み寄り、軽く一礼をした。


「私の名はフィエノル。吟遊詩人の末裔にして、語りの系譜を継ぐ者」


 その名に、クロがわずかに動いた。


『……フィエノル、か。懐かしい名だ。』


「おや? 覚えがあると?」


『遠い昔──フィエノルという者が、私を語った。語られぬまま失われそうだった私の存在を、言葉で繋ぎとめてくれた詩人だ』


 その言葉に、フィエノルの表情がわずかに驚きに染まる。だが、すぐに柔らかく笑った。


「それなら、なおのこと。私にも語らせてほしい。あなたたちの物語を」


 ライナは驚きながらも、ふっと目を伏せる。


「……語られて、いいのかな。俺は、まだ形も、心も、仮のままなのに……」


「それでいい。物語とは、常に未完成なものです。語られることで、少しずつ輪郭が定まり、やがて“在る”ものとなる」


 その言葉は、どこかクロの言葉と重なっていた。


「私の祖父も言っていたました。“誰かが語る限り、物語は死なない。語られぬ者こそ、真の消失だ”と」


 ライナは、ゆっくりと息を吐いた。

 その呼吸の先に、レトのまっすぐな視線があった。


「俺……もっと強くなるよ。誰かを守るって、かっこいいんだなって、今日初めて思ったんだ」


 その言葉は、照れ隠しでも、憧れだけでもなかった。

 レトという少年の心に、ほんの小さな“核”が生まれた瞬間だった。


 そしてその夜、タリアの丘に吹いた風は、誰も知らなかったはずの名を運んだ。


 ──語られる者、ライナ。


 その名前が、風のひとひらとなって、この地に染み込んでいく。


 * * *


 レトは、鍬を振るう旅人と黒い獣のことをずっと心に刻んだ。

 時が流れ、大人になった彼は「国一番の騎士」と呼ばれるようになる。その名声の陰で、彼はいつも「鍬を持つ旅人、ライナ」と「クロ」という獣の話を、若い兵士たちに語ってきかせた――

 「本当に怖いのは、敵の強さじゃない。自分が何のために戦うか、それが分からなくなることだ」と。

 ――そしてまた、吟遊詩人はどこかの村でリュートを爪弾きながら、物語を語り始める。


 「……私たちが語るのをやめた時、消えてしまったものがある。

 だから私は、どんなささいな出来事でも、必ず歌にして残すんだ。」


 必ず、そんな言葉を枕とし。


* * *


 この物語は、村人や吟遊詩人の歌となり、遠い未来へも語り継がれていく。


 それはまだ、はじまりの一歩にすぎない。

 けれど確かに、ここから──“彼らの旅”が始まったのだ。


 次に語られるのは、名もなき風が運んだ出会いの話かもしれない。

 あるいは、記されぬまま散った誰かの記憶かもしれない。


 けれどそのすべてが、物語になる。

 “語られぬ者”が、“語られる者”になるための──終わりなき旅の途上で。


 ――第2話『語られし者』



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ